十四 懐疑
「常識とは盲信の言い換えである」
前にも言いましたよね、と目を細めるウタは、静かにコーヒーを飲む。
「あぁ。地面が動いている。これは常識だが、常識だからこそ意識して疑わなければならない。そうしなければ、その昔空が動いているのだと信じ込んでいた者たちと同じになってしまう」
こんな話だったか、と視線を送ると、相手は及第点をくれた。
「先輩は、そもそも地面が動いているのか空が動いているのか、そんなことは分からない、って立場でしたっけ」
そう問われると、俺は首を傾げるしかない。
地球が回っているのだから動いているのは地面で間違いない、という立場というのが正解だが、その証明を俺はできないし、できたとしても科学の受け売りだ。それでは天動説を信じた奴らと同じだろう。
「そうだな」
答えると、ウタはくすくす笑った。嘘だとバレている。
「ずっとそうして笑ってると可愛げがあるんだがね」
午後の微睡みに包まれ、柄にもないことを言ってみる。
「トガミさんが泣きますよ? ……あぁいや、あの人なら怒って密着してきますか」
そう笑われた俺は「的確な予想をどうも」と吐き捨てる。
「それで、突然なんの話だ? まさか復習でもしてくれるつもりか?」
逸れかけた話を線路に戻す。
ウタはわざとらしく思い出したような素振りを見せ、ゆったりとコーヒーを一口飲んだ。
「懐疑論と不可知論は相容れない。その意味は分かりますか?」
コーヒーカップを置いたウタはすらすらと問う。
「……分からないな」
問い、そして答えが見つからなかった時、人はどうなるだろう。
分からない、と、そう結論付けるのではないだろうか。
そう考えれば、不可知論とは懐疑論の一歩先だと言える。
しかし、ウタは相容れないと言った。それがどういうことなのか、俺には分からない。
「単純ですよ。不可知論のその先に、懐疑論があるからです」
「第一に、人は知りたがる生き物です」
ウタは人差し指を立てる。
「第二に、人は満足したがる生き物です」
次は中指。
「そして第三に、主観でしかものを見ることができない生き物です」
最後に薬指が立てられ、三本の指の向こうには微笑があった。
「先輩は、今見ているのが現実のことだと証明できますか?」
ウタはふふん、と問うてきた。なんだか楽しそうで幸せそうだ。
「できる。俺の経験則だが、夢なら『これは現実だ』と意識的に自覚することができない」
夢の中で現実だと誤認することはあっても、意識して現実だと認識することはできない。そもそも意識的に見ようとした時点で夢だと分かる。
「そうですか。では、今この瞬間は夢ではない、と?」
改めて問われると、少し不安になってくる。
だが、これは現実だ。夢ではない。
「あぁ」
そう答えると、ウタが少し考えるようにうつむく。
「では、その経験則が間違っているという可能性は? もっと言うなら、先輩の頭が狂っていて、可愛い年下系お姉さんも愛してくれる恋人も妄想の産物だとしたら?」
なんだか悪意のある言葉だ。
「可愛い小学生と変態な他人なら知っているが、それこそウタちゃんの妄想じゃないか?」
あと変人系ダメ子さんもいるぞ、と胸を張ってウタの目を見据えると、そこには軽蔑の色があった。
「証明できないですよね?」
完全にスルーされた。
「第三の話です。人は主観でしか生きられない。どれだけ客観視を意識しても、やはり主観の域を出ません。周りからの指摘さえ主観というフィルターを通すために、それが夢や幻覚ではないと証明することはできない」
まぁ悪魔の証明ですが、とウタは軽蔑の眼差しを向けてくる。
「それで、何が言いたいんだ?」
悪ふざけを始めたのはウタだったはずなのに、何故か俺が悪者扱いされている。なんなら変態扱いさえされているように思える。
「第一に人は知りたがり、第二に満足したがり、第三に主観でしか生きられない」
要するに、とウタは慈母のような微笑を浮かべる。
「人は何かを知りたいが、主観というフィルターを通してしまうために何も証明できない。それでも満足したいから、それらしい結論を盲信する」
そして首を傾げる素振りは「これで理解できましたか?」と物知りなお嬢様か何かを気取っているようだった。
「人は何も知ることができません。狂人の妄想や子供の夢ではないという証明はできず、それは禁忌として他のことを探求し、満足する」
土台がないのに積み上げられる泥の塔だ。風が吹けば倒れるというのに、みんなで素晴らしい塔だと褒め称える。
ウタが言いたいのは、そういうことだろう。
「多くの人は盲信します。それが常識だからと、疑いもしません」
綺麗な笑みだった。
「それを疑い、分からないと結論付けるのが不可知論です。夢かもしれないし幻覚かもしれないけど自分には何も分からない。そうですよね?」
そして、その先にあるのが懐疑論というわけか。
「懐疑論は、『分からない』のその先を問います。分からないことを分からないままでは終わらせず、問い続けます」
悪魔の証明と人は言う。
絶対に証明できることはない。魔女であるという証拠がなければ、魔女でないという証拠もないのだ。
それでも、ウタは問う。
「どうして、そんなことをするんだ?」
率直な疑問だった。
しかし、自分の中にも答えはあったのだろう。
「決まってるじゃないですか」
ウタは可愛げのある笑みを咲かせた。
「疑問に思ってしまったからですよ」
曰く、人は知りたがる生き物である。
何よりもまず、第一に、知りたがる生き物である。
少なくとも、彼女はそう言った。




