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論者の夢想論議  作者: 飯島鈴
第一部
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五話 知らない人

「ムーチー教に入ってくださ~い」

 比較的控えめな声が玄関から聞こえてきた。朝ではないので近所迷惑に気を付けたのだろう。できれば朝も俺とメイリンに気を遣って静かにしてほしい。というか、そもそも夕方より朝の方が騒音は避けるべきだ。

「飯ですか? 入っていいですよ」

 投げやりに言葉を投げると「はい!」という元気な声に続いて「え? ……え?」という戸惑いの声が続いた。仕方ない。

「今日はメイリンがトガミの家に行ってて一人なんですよ。飯くらいなら出しますが」

 調理――というほどのことではないが――の手を止めて玄関まで歩き、戸を開けながら言う。

「一人だから家に上げる……?」

 ユウカは数瞬置いてから両手を胸の前で交差させる。服を着ているから腕で胸を隠す意味はないのだが……。

「いらないなら帰っていいですよ」

「お邪魔しま~す」

 さささっと玄関へ入り、後ろ手に戸を閉めてから靴を脱ぐ。

「今日の夕飯はなんなんですか?」

「ラーメンです。醤油ですけど、いいですね?」

「はい!」

 歩きながらユウカの答えを聞いて、冷蔵庫から生麺を取り出す。ラーメンが好きなメイリンのために、生麺が常備してあるのだ。


 具なしでも十分に美味そうなラーメンの上にメンマとチャーシュー、少し炒めた野菜を乗せて、リビングの机に持っていく。

 ラーメンを置いてからキッチンまで戻り、自分の箸と客人用の割り箸、二つのれんげを持って再びリビングへ行く。

 割り箸とれんげをユウカに渡して「いただきます」と手を合わせる。

 さっそく麺を箸で挟んで口まで運ぶ。

「美味い」

 可もなく不可もなく、無難な味だ。醤油ラーメンと言われて想像するそれは、まだまだ満足できる域ではない。

「美味しいですね」

 ユウカが言う。客に出すほどの出来ではなかったが、まぁユウカならいいだろう。

 数十秒経った頃、沈黙に僅かな抵抗を覚えて口を開く。

「そういえば、ムーチー教ってどんな宗教なんですか?」

 その言葉にユウカが目を輝かせる。話題を間違えた気もするが、この機会だから聞いておこう。

「どんな、ってことは特にないですね。ただムーチー様の理念を説くだけです。中心になるのは損得勘定と生死観でしょうか」

 発せられた言葉に、少しだけ頭を働かせる。生死観はエセ宗教の全てに共通するのだろうが、損得勘定とは少しだけ珍しい。端的に言えば、身も蓋もない。

「『生と死は本質的に変わらず、必要であれば生き、必要がなければ生きない』というのがムーチー様の生死観です。損得勘定は言うまでもありませんね。『物事には損得があり、得する方を選んでいく』という考え方です」

 どちらの理念も抵抗がある。生きていなければ何もできないのだから生きるべきだし、何事も損得ではかるなど唾棄すべき考え方だ。

「理解に苦しむ考えですね。人間、いや生き物はすべからく生きるべきですし、損得ではかれないことも沢山あります」

 そんな言葉など聞き飽きているのか、ユウカが笑った。

「いえ、全ての物事には損得ですよ。ちょっとしたことで嬉しくなったり、悲しくなったりするのも、得と損じゃないですか。やりたいことができれば得ですし、嫌なことをやらなければいけないのは損です。ただ目を背けたいだけで、論理的に考えればそうなんですよ」

 いつの間にか、いつもの軽さが消えていた。静かに語る表情は不覚にもドキリとしそうになる。

「人助けも、損得だと言うんですか?」

 納得しそうになる頭を働かせて反論する。

「えぇ」

 ユウカは頷くと、「そもそも人助けの定義もムーチー様は疑問視していますが、今は置いておきます」と前置きしてから、言葉を紡ぎ出した。

「『人を助けたい』『その人を失ったら嫌だ』という自分の欲を満たす得。『そこで見て見ぬ振りをしたら後悔する』という損。『人助けをする姿を人が見れば良い人に見られる』という打算。損得じゃないですか」

 強引すぎる理屈に嫌悪感を覚える。人を助けたいという思いすら欲だと一蹴するなど、信じられない。

「なら、生死観はどうなんですか?」

 念のため問うたが、その言葉に意味などない。エセ宗教の教えなど、たかが知れている。

「説明してもいいんですけど、これは人それぞれの考え方ですからね。損得勘定は感情論で否定する人が多いから、口を酸っぱくするほど言っています。ただ、生死観は『観』の言葉通り、どう見るか、どう考えるかという話です。それを他人に教えたところで、意味なんてないですよ」

 答えを聞いて、落胆する。ここで「死後の世界には」なんて言われれば完全に嫌えたというのに、正論を言われたら嫌いになりきれないじゃないか。

 そんな内心を知ってか知らずか、ユウカは「ただ」と続けた。

「生きていて楽しいと思える人が全てではないことは理解してください。生きることが苦痛な人に『生』を強要するのは、相当に酷なことです」

 静かな言葉。ただ事実を言っただけの――いや、その事実を直視しない者への言葉は、嘆いているようだった。

「それじゃあ、ムーチー様ってどんな人なんですか?」

 思考にふけってしまいそうになる頭を制し、強引に話題を変える。

 ユウカはその問いに「個人情報なので詳しくは言えませんが」と前置きしてから、言い放った。

「無職です」

「馬鹿なんですか? ねぇ馬鹿なんですか!?」

 呆れるような答えに失礼な言葉を返してしまう。性格や年齢を聞いたつもりだったのに、職業を答えられてしまった。しかも『教主』ではないのか。

「そんな人の言うことに説得力なんてないじゃないですか。ていうか、その宗教って本当に人いるんですか?」

 社会で生きていない人間の言葉が、社会で生きている人間の心を動かせるはずがない。

「教徒は私だけですよ。そもそもあまり人が好きじゃないので、教徒増えても『面倒臭い』って言うでしょうし」

 あぁ、ダメだ。そんなエセ宗教ですらないものの話なんて聞くだけ無駄だった。

「まさか貢いでなんかないですよね?」

 ふと不安になって訊ねてしまう。

「そんなはずないじゃないですか! 相手はムーチー様ですよ!? 恋愛感情なんて抱けません!」

 忘れていた。こいつは馬鹿だった。

「どうして恋愛の方の貢ぐになるんですか。普通エセ宗教で貢ぐって言ったら魔除けのツボとか十字架とかですよね?」

 俺の言葉で「あぁ!」と声を上げたユウカが笑う。

「入信料の三千円だけですよ。そもそもツボとか十字架を仕入れるくらいなら、本やゲームを買いそうな人ですし。強いて言えば、時々冷凍うどんを差し入れするくらいですかね」

 なんかもう疲れた。

「そうですか」

 最初と同じように投げやりな言葉を吐いた直後、電子音声が鳴った。音声が二回で止んだからメールだ。

 携帯を手に取って開くと、メイリンからで『これから帰る』とだけ書かれていた。

「メイリンが帰ってくるらしいので、帰ってください」

 ユウカは頷き、立ち上がって歩き出す。

 そして、玄関で靴を履いたところで、思い出したように振り返った。

「ごちそうさまでした。それで、ムーチー教に――」

「入りません」

 最後に言ったユウカの顔は、静かに語っていた時の真剣なものではなく、いつもの馬鹿っぽいものだった。

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