四話 無心の徒
電子音声で目が覚めた。その呪文を四回聞いてから、携帯に手を伸ばす。
「はい、唯野です」
誰からの電話かは確認しなかったが、まぁ大丈夫だろう。
「一時間も待たせるとはいい度胸じゃないか」
ナガミだった。
出なければよかった、という気持ちをどうにか堪えて「なんだ?」と聞く。
「私が学校を休んだ日、トガミとよろしくやってくれたようだな」
寝ぼけていた頭に電撃が走る。なんらかの理由でトガミと仲良く――だったのかは微妙だが――したことがバレたらしい。
トガミが話したというのは考えにくいが、あいつのことだから大丈夫だろうと少し話してしまったのかもしれない。
「いや、待て、話をすれば分か――」
「やはりそうだったか。帰りが遅いからそうだとは思ったが、人の弟に手を出してタダで済むと思うなよ?」
鎌をかけられ、それにまんまとはまってしまったらしい。
呆然とする中でツーツーという電子音が聞こえた。
「さて、話をしようか」
通された席に座ったナガミが言い、向かいに座れと顎で示す。
あの電話から数分経った頃に家にナガミが来て、半ば強引に連れ出された。そして以前トガミと来たファミレスに入り、席に案内されたという状況だ。
「誤解しないでくれ。ただ話をしただけだ」
ナガミの詰問が始められる前に口を開く。とかく女性とはヒステリックであり、論理的な答えでは納得しないどころか、どれだけ事実を述べても聞く耳を持たない。喋らせた時点で根負けすることが確定している。
「貴様こそ誤解するなよ? トガミは上機嫌だった。強引に何かをしたわけではないと分かる。だが、貴様はそちらじゃない。これまでの会話でそれは確信している」
予想外の言葉だったが、『そちら』という言葉が何を指すのか理解するまで、それほど時間はかからなかった。
ただ、それ以前に確信しているならどうして毎度のように詰問してくるのか分からない。
「そうなると、あの子がなんで上機嫌だったのか、一つしか浮かばない」
よくよく考えると、トガミは『そちら』なのだろうか。
「何を聞かされた?」
ようやく本題を切り出したらしいナガミの言葉に、首を傾げる。何を聞かされたも何も、ほとんど何も聞いていなかったのだ。
「そうだな……。理性だけの化物、だったか」
それを聞いたのはこのファミレスではなく教室だったが、まぁ大差ないだろう。
「もうそこまで踏み込んだか……」
ナガミが言って、憂慮するかのように額に手を当てた。しかし、直後に「いや」と表情を変える。
「あの子の中ではまだ序の口だったか。まだほとんど踏み込んでない、いわば前提部分だ」
その言葉で、ただでさえ理解できていなかった話が遂に全く理解できなくなった。序の口だの前提だの、意味が分からない。
「メイリンの陰謀論じゃあるまいし」
口を衝いて出た言葉に、ナガミが「ほう」と反応した。
「そういえば貴様の妹はそうだったな。陰謀論とは、また面白い表現をする」
記憶の欠落しているあの日にメイリンとナガミが語り合っていたことを思い出す。話の内容は聞いていなかったが、ナガミはあの陰謀論を少しは理解していたということか。
「メイリンとトガミに、貴様がどこまで侵されているのかは分からない。ただ、言っておこう。あの二人の意見に耳を傾けるな」
予想していなかった言葉に、混乱が増す。ナガミはブラコンで人の妹とも意気投合していたはずだ。
「それは、どういうことだ? 二人とは仲が良かったはずだが……、あれは演技だったのか?」
ナガミは俺の問いに「そうだな……」と思案顔を浮かべてから、机に両肘を付いて話し始めた。
「二人の意見を真っ向から否定するわけじゃない。メイリンの『うーめ』も信じるには至らないが、否定はできないし、現実に可能性があるとも思う。トガミの『理性の化物』は言った通り前提で、方法論についても『現実的に不可能な方法』しか出せていない。しかし、二人の意見は考え方によっては肯定できるのだ」
すらすらと言葉を並べるナガミの目は俺の目をしっかりと見据えていて、その裏にある考えすら読み取られているかのような錯覚を覚える。
その言葉も真摯だが、意味はほとんど理解できない。
「それはつまり、どういうことだ?」
先ほどと同じような問いを繰り返した俺に、ナガミはため息を返した。
「分からないならいい。だが、一つだけ確認させてくれ」
前のめりになっていた上体を背もたれまで戻してから、「貴様は、お守りは買うか?」と問うてきた。
「突然なんの話だ。そりゃまぁ買うこともあるが、このへんは神社が少ないからな。最後に買ったのは……。あぁ中学の修学旅行で買ったばかりか」
ばかり、とは言いつつ一年前だ。それでも、平均的な域だろう。
「なんのお守りを買った?」
「ええと……、合格祈願だったかな。班のみんなで同じ物を買った方がいいって話だったから、無難に高校受験向きのお守りを買った」
俺の答えに再び思案顔を浮かべたナガミが、再び問う。
「そのお守りを信じていたか? 『お守りのお陰で合格できたんだ』とか『神様が頑張りを認めてくれたんだ』とか」
半ば笑うような声音で言ったナガミは、優しげな――生暖かいと言う方が正しいか――目でこちらを見る。
「悪いが、俺はこう見えても四百前半の常連でね。神頼みなんかせずともあの高校の受験くらい余裕だ」
散々父さんに叩き込まれたのだ。高校受験で神に祈る必要などない。
「そうか。それはいい!」
ナガミが声を上げて笑う。
「いや、悪い。一瞬でも凡俗な馬鹿どもと同じだと思ってしまった」
この女は日を追うごとに口が悪くなってきている気がする。
「お前はどうなんだ? 神頼み。するのか?」
何気なく言うと、ナガミが再び笑う。しかしその笑いは冷笑だ。
「するわけがないだろう? 神なんぞに祈ってる暇があるなら、その時間で行動する方が建設的だ」
ごもっともなことを言ってからひとしきり笑うと、伝票を持って立ち上がった。
「まぁ、トガミに侵されていないと分かっただけで十分だ。時間を取らせて悪かったな」
そのまま颯爽とレジへ向かっていく姿は頼もしさすら覚えるが、それなりに大きな声で誤解されるようなことを言わないでほしい。ちょっと可愛い店員さんが思い切り誤解の眼差しで笑っているじゃないか。