三話 昇華
濡れた傘を傘立てに入れて靴を脱ぎ、靴に付いた土を落とす。それから下駄箱まで持っていき、上履きを取ってから中へ入れる。
「唯野、おはよう」
上履きに片足を入れたところで、聞き慣れた声が聞こえた。トガミだ。
「おはよう」
言いながらもう片足も履いて、振り向く。
「あれ? 今日はナガミと一緒じゃないのか」
珍しいな、などと思っているとトガミの言葉が返ってきた。
「風邪引いちゃってさ。そんなにひどくはないんだけど、ほら、雨だから」
風邪か。まぁひどくはないらしいし、そもそもナガミだから心配は不要だろう。
「今日は二人きりだね」
意味深な笑みを浮かべるトガミに「いや学校で二人きりとか無理だろ」とツッコミを入れる。
可愛らしく笑って誤魔化したトガミも上履きを履き終え、横に並ぶ。
「じゃ、行こっか」
微笑むトガミに「おう」と答えて、歩き出す。ナガミが知ったら理不尽な怒りをぶつけられてしまうのだろうか。
「それでね、キリーロフはこう言ったの――って聞いてる!?」
トガミの言葉で、思考の中に沈んでいた意識を引き戻す。
「ええと、テレビの話だっけ?」
俺が言うと「やっぱり聞いてなかった」とむくれる。その腰に両手を当てた、いかにも怒ってますと言わんばかりの仕草は、一周回って実は計算し尽くしたのではないかと思えてしまう。
「ごめんごめん。……それじゃ質問なんだけどさ、トガミが思う『それ』ってどんな感じなんだ?」
聞いていなかったことを紛らわせるように、曖昧な質問をする。自分でも何を指しているのか分からない『それ』という指示詞は、話すことに夢中になっていたトガミには特定の何かを指す言葉に聞こえる。
そして――
「む……。そうだね、一言で言い表すのは難しいけど……、ちょっと待っててくれる?」
こちらが相手の話に興味があるかのように思わせることができる。メイリンとの日常生活において習得した秘技だ。
「ちょっと分かりにくいかもしれないけど、思い付いた」
しばらく考えていたトガミが何度も頷いてから口を開く。その満足げな表情を見ると、騙してしまったようで良心が痛んだ。
「よく『理性のない、本能だけの人間は野獣のようだ』みたいな話があるじゃない? それの逆、『本能のない、理性だけの人間』が僕の思うことだな。本当に理性しかない人間は……」
言い淀んだトガミは「ちょっと言い方が悪いけど」と前置きしてから、その言葉を発した。
「化物だよ、化物。本能に邪魔されない完璧な理性は、感情すら形骸化させる」
重苦しさすら感じる言葉を吐いた可愛らしい口元に、恍惚とした笑みを浮かべる。
「へ、へぇ……、すごいな。俺には、そんなこと考えられないよ」
驚きで動かない頭を必死に働かせ、言葉を紡ぐ。
「やっぱり……、やっぱり唯野は理解してくれるんだね!?」
恍惚とした表情のままトガミが叫ぶように詰め寄る。昼休みの中には異質だった声に驚いた生徒たちが俺たちの方を見て、直後に見てはいけないものを見たかのように目を逸らす。
息を荒らげる女子がいた気もするが、恐らく幻覚だ。
「トガミ、声が大きい、声が。……っと、理解がどうのだったか。すまないが、俺には少し難しくて今一分からない。今度、話してもらえるか?」
俺の言葉に一瞬だけ落胆の表情を浮かべたトガミも、最後まで聞くと嬉々とした表情になる。
「うん、分かった。説明するね。何度でも、しっかり、じっくり」
浅はかな言葉の代償は、相当に重いらしい。
「ここで彼はこう言ったけど、僕は少し違うと思うんだ」
テーブルに置かれたコーヒー――トガミはオレンジジュースか――を取る度に腕が当たりそうになるほどの近さで、トガミが喋る。トイレ休憩を挟んで二時間はこの状況が続いていた。
「それで――」
言葉を唐突に切ったトガミが「ちょっとごめんね」と言いながら、オレンジジュースに手を伸ばす。
先の曲がるタイプのストローでジュースを飲んだトガミが話を再開しようとして、今度は「あっ」と呟く。
「どうした?」
俺が問うと、もじもじとしながら答える。
「姉さんが風邪で家にいること忘れてた……。ごめん、本当にごめん。今度続きと、あと埋め合わせもするから……」
本気で謝り始めるトガミに「いいよ」と言うと、もう一度「ごめんね」と言ってスクールバッグのチャックを開ける。財布を出そうとしているらしい。
「あぁいいよ、俺が奢る。ほら、ナガミが家で首を長くして待ってるぞ」
俺の言葉に「ありがとう」と言って立ち上がるトガミに続いて、俺も立ち上がる。ファミレスの柔らかい椅子でも長時間身動きせずに座り続けていると痛くなると思い知らされた。
急いで出口の方へ向かおうとするトガミの姿を見て、重大なことを思い出した。
「トガミ、一ついいか?」
俺の言葉に「なに?」と振り向く。
「今日のこれはナガミに内緒な?」
放課後にトガミを二時間も拘束した――現実には俺がされたのだが――ことがナガミに知れれば、過言ではなく俺の高校生活が終了する危険がある。
「うんっ! 二人だけの秘密だね!?」
トガミに誤解させたのは今日で何度目だろう、と考えつつ、「あぁ!」と手を握る。
「……! そ、それじゃね!」
顔を真っ赤にしたトガミがファミレスの自動ドアをくぐったことを確認してから、小さくため息をつく。そのため息が疲れからか、意図してトガミに誤解させたことへの自責かは、言うまでもない。
『うーまいメロン、うーめろん! うーまいメロン、うーめろん!』
部屋に電子音声が響く。携帯にメールが送られてきたらしい。
スライド式携帯の上画面をスライドさせ、メール画面を開く。送り主の欄には『トガミ』と書かれていた。
メールを開く。
そして閉じる。
メールでこれだけの文字数を見たのは初めてだった。