一話 変人たち
「ムーチー教に入りませんか!?」
ドンドンと玄関の戸を叩く音と叫ばれる声を無視して、朝食のパンを食べる。やはりベーコンとチーズの相性は抜群だ。
「唯野さ~ん、いるのは分かってるんですよ~?」
玄関の外で叫ぶ声が続く代わりに、戸を叩く音は止んだ。これはいつものことで、宗教勧誘というより目覚まし時計の役割しかしていない。ちなみに、時計の音を止める方法は宗教に入ること。
「唯野、うるさいアル」
エセ中国人のような口調の妹、メイリンが何故か俺に言う。これもいつものことなのだが、俺ではなく毎朝勧誘に来る女、ユウカに言ってほしい。
「お前は学校の準備しなくていいのか?」
まだ部屋着のままでダラダラしているメイリンに念のため言ってみる。
「我が学校に行かないことは決められたことだと何度言えば分かるアルか?」
誰によって――いや、何によって決められたのか分からないが、不登校の考えなど理解できるはずもない。
「あ、唯野さ~ん、トイレ貸してくださ~い」
最後の一口までベーコンとチーズのハーモニーを堪能してから、皿を流し台に置く。こうすれば全自動食洗機が洗っておいてくれるのだ。ただし四割程度の確率で無視され、月に数万から十数万の維持費がかかる。別名イモウト。
椅子の背にかけておいた制服を着る。今年の三月に買った物だから、まだ新しい。
のんびりと歩いて自室へ行き、ベッドの横に放り投げてあった鞄を取る。
「それじゃ、行ってきます」
背中でメイリンの「いってらっしゃ~い」という言葉を聞きながら、靴を履く。そういえば、挨拶に「アル」と付けないのは良い心がけだ。できれば普段の会話でも付けないでほしい。
玄関の戸を開けると、異様な姿勢のユウカが泣きそうな目を向けてきた。
「トイレ……」
小賢しい戦法かと思ったら本当にトイレに行きたかったらしい。
「明日からはもう少し近所迷惑にならないように努力できますか?」
涙ぐんだ声で「はい」と言うので、玄関の戸は開けたままで歩き出す。後ろからは慎重に歩く音が聞こえてきた。
ようやく覚えた高校までの道を歩きつつ、今日の授業がなんだったか思い出す。数学、国語、理科……。頭が拒絶反応を起こし始めたからやめよう。
そろそろ雨が増えるのかなぁ、などと考えながら歩いていると、見覚えのある二人組を見つけた。
「あ、唯野じゃん」
「唯野、おはよう」
こうやって見ると、やはり姉妹にしか見えない。まぁ片方が男子用の制服を着ているのだから、実際に姉妹と間違えることはあまり多くないのだが。
「あぁ、おはよう」
姉のナガミが「おはよ」と答え、弟のトガミが「それじゃ、一緒に行こうか」と言う。入学してから一ヶ月ほど経って、この二人と登校する頻度も高くなっていた。
「そういえば、唯野は昨日のテレビ見た?」
昨日のテレビと言われても選択肢が多すぎて分からないが、ある程度の予想はできる。
二択で迷った結果、妙案が浮かんだ。
「見てない」
心霊特集と仏教特集。どちらも見ていない。
「ほら、やっぱり唯野は仏教なんて興味ないんだよ。そもそも仏様とか何言ってんの、って話じゃん」
ナガミが笑いながら言うと、トガミが怒ったように答える。
「仏って考え方は勉強になるんだよ!?」
そのまま口喧嘩のようなことを始めてしまう二人を横目に、今日の授業――じゃなくて夕食のメニューを考える。
ピザを食べたい。だがベーコンとチーズは今朝食べたから、やはり違う物の方がいいだろう。あっさりした醤油ラーメンなんかもいい。いっそ家で鍋をやるのも楽しそうだ。
「トガミ、夕飯にラーメンと鍋ならどっちの方がいいと思う?」
考えれば考えるほど決まらない負の連鎖に陥る前に自分での決定を放棄する。女子のナガミに聞けば低カロリーな鍋を選ぶ確率が高くて意味がなくなってしまうため、トガミに聞いた。
「私の前でトガミを誘うなど勇気があるじゃないか」
明らかに誤解されてしまった。
「いや――」
「僕は、どっちでもいいかな……。唯野が選んでいいよ?」
訂正が一瞬遅かった。中学からの同級生なら誤解だと言っても大丈夫だろうが、高校で知り合ったばかりの二人に言えば今後の交友関係が危うい。
「ナ……、ナガミはどっちの方がいいかなぁ……?」
自分でもその笑顔が引きつっていると分かるが、これ以外に策はない。
「私か? 私はトガミと一緒ならどこでもいいのだが、貴様も一緒か……」
誘った張本人を除け者にしようとして、それを隠さないところは尊敬に値する。しかし、答えになっていない。
「あ、そういえば唯野って妹さんいたよね? 唯野の家で鍋をやる、っていうのはどう?」
名案だと言いたげな表情に嫌だとも言えず、頷いてしまう。後でメイリンを説得しなければいけない。
「ただいま~」
「こんちは~」
「お邪魔しま~す」
「ムーチー教の勧誘で~す」
三重奏を予定していたのに、四重奏になっていた。
念のため携帯電話で時刻を確認するが、午後五時半。午前ではなく午後。ユウカが来るのは朝だったはず。
「いやぁ、夕方にも来れば入ってくれるかなぁ、って思ったんですけどね?」
理由を聞くより先に、答えてくれた。その視線は期待のそれだ。
「いや入りませんよ。ていうか、ムーチー教とかもう騙す気すらない名前じゃないですか」
言いながら、騙す気がないなら本気なのかという仮説が浮かぶ。しかし、そんな馬鹿げた名前で本気なわけがない。
「それで、その買い物袋はなんですか? もしかしてパーティーでもやるんですか?」
「やらないですよ。さっさと帰ってください」
宗教勧誘の任務を忘れた女を一蹴して靴を脱ぎ、そのまま右手で奥を示して「どうぞ」と二人に言う。
「あ、いいんですか!?」
馬鹿が一人いる。
「ええと、唯野? この人誰……?」
どう説明すれば納得してくれるのだろうか。
「ムーチー様は…………という考えをお持ちで」
「どうしてエセ宗教なのに神がいないんですか!? おかしいですよね? おかしいですよね!? エセ宗教って教主が神を自称するのが普通ですよね!?」
「そんな子供騙しなこと信じてるトガミは好きだけど、少ししつこい」
「そしてムーチー様は…………ともおっしゃっていて」
「うるさいアル。駄弁ってる暇あったらさっさとご飯できるように手伝ってこいアル」
黄昏のリビングは混沌の様相を呈している。何故こうなってしまったのか。あの時に嫌でも夕飯ではなく授業のことを考えていれば、もう少し平穏な夕食も実現したのではないだろうか。
「できたぞ。食べたい人は静かにしろ」
混沌の中まで届く声で言うと、それまでの喧騒が嘘のように静寂が流れた。食事の前では何事も無力だ。
「メイリン、カセットコンロの準備はできているな?」
「万全アル」
メイリンが火をつけたところに、鍋を置く。
「唯野さん、知っていますか?」
取り皿を取りに行く背中で、ユウカの声を聞く。
「鍋は戦争なんですよ」
馬鹿がいる。これまでも分かっていたが、あいつは馬鹿だ。
消えゆく意識の中で、時計を見る。短針が七を少し過ぎたところにあり、長針は三と四の間にあった。
寒さで目が覚めた。蛍光灯に照らされたリビングには美味そうな臭いがただよっている。
「ん……」
可愛らしい声が聞こえた。声の方向を見ると、トガミの寝顔。お前は本当に男か。
直後、異常だと気付いた。何故俺の家でトガミが寝ている。
「貴様、やはりトガミに気があったか」
いや違う誤解だ、と弁明しようとして、トガミが服を着ていることに気付く。それ以前にナガミの声が聞こえるということは、二人だけではなかったということだ。
「この部屋で何が起きたのか教えてくれないか……?」
すがるような気持ちで聞くと、静かに「戦争があったんだ」という答えが返ってきた。意味が分からない。
「行ってきます」
「お邪魔しました」
「メイリン、また語り合おう」
「行ってらっしゃ~い」
「ムーチー教に入りませんか~?」
ブレない女が一人と、何故か人の妹を気に入ったらしい女が一人。まともなのは三人だけか。……いや、一人は本来行ってくる歳だから、俺とトガミの二人だけだ。
結局、あれから再び寝てしまって、気付いたら朝だった。昨晩何があったのかは思い出せないが、メイリン曰く「鍋は当分禁止」らしい。
こんな日常が三年も続くというのは、面倒臭いような楽しいような、なんとも微妙な感覚だ。