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頭に暖かな何かが触れた。
何だろう? と、目を開けようと力を入れたけれど、上手くいかなかった。
「まだ、眠っていて良いんだよ。ここは、安全だから」
私の様子を察したのか、優しい声が響く。聴き慣れない声なのに、心の奥がちくりと痛んだ。
その声に導かれるように、落ちていく意識に身を委ねた。
目蓋に光を感じて、私は目を覚ました。
目を開くと、知らない天井が目に入って、今自分がどこにいるのか、わからなかった。
知らない布団の匂いに、見慣れない風景。
嗅いだことのない空気。ただ、空気だけは澄んでいた。
どこか確認する為、体を起こそうとすると、頭に激痛が走り叶わなかった。
枕の上で、顔だけ動かしてみた。
白と青のストライプの壁紙に、白を基調にした家具。全てが洗練されていた。
私の記憶には、こんな場所は存在しない。
知らない世界。知らない部屋。
何が起きてここにいるのか、思い出そうとすると頭に靄がかかったように霞んでいて、思い出せそうで思い出せない。
ぼんやりと天井を眺めていると、もう一度睡魔に襲われて、私は眠りへ落ちて行った。
「お先に失礼します」
日常が戻ってきた。何事もなかったかのように。
正直なところ、自分の身になにが起きたのか、よくわかっていない。
朝だと思って目を開けたら、知らないところにいたのだ。突然意識を失ったらしい私を、横田総一郎が自分の別荘へ運んだらしい。そして、身内にいるという医者に診てもらったらしい。
そのあたりの記憶がすっぽりと抜け落ちているので、さっぱりわからないけれど……。
それ以来、身体が心配だから毎日顔を出すように、と横田総一郎に念を押されたのだ。
有無を言わせないその姿勢を見て、人を従わせるのが上手いなと、改めて関心させられた。
自ら進んで向かうのとは違い、誰かに強制させられている事は、とても息苦しい。ただ、横田総一郎は強制しているわけじゃなく、私の身体を純粋に心配してくれているように、見える。
見えるからって、それが真実なのかは定かではないけれど。頭の回転の遅い私に、いつかそれを見極められるかと尋ねられたら、迷わずNOと言うだろうけれど。
いつものレストランへつくと、当たり前のようにVIPルームへ通される。
珍しいことに、その日は誰も来ていなかった。いつもいるはずの早紀や飯田弓弦がいないのに、何となく違和感を覚えた。
とりあえず、ソファーに腰掛けて、私はスマホを取り出した。
当たり前のようにアプリを起動して、その画面に釘付けになる。
恋愛ゲームなんて『くだらない』と思っていたのに、いつの間にかその魅力にとりつかれてしまっていた。現実世界ではあり得ない、シチュエーション。そして、疑似恋愛の感覚でドキドキすることができる。
実際の恋愛と違うのは、最終的にはその相手とつきあう事になる事が決まっていること。
それでも、ハッピーエンドかノーマルエンドとあるので、ハッピーエンドを狙って選択肢を慎重に選ぶのだ。
時々、ドキドキするようなイラストが表示されたり、うっかり通勤の時にやっていると、恥ずかしいような場面もあるので、油断できない。
「おや、もういらしていたんですね」
声をかけられて、はっと顔を上げるとそこには横田総一郎がさわやかな笑顔を向けてこちらをみていた。
気配を感じなかったのか、ゲームに夢中になりすぎていて気づかなかったのかわからないけれど、慌ててホームボタンを押して、ゲーム画面を隠した。
「こんばんは」
動揺してるのを悟られないよう、努めて普通に話した。
「お楽しみのところ申し訳ないですね」
「いえ、別になにもしてませんでしたけど」
「そうですか? お顔がいつもより楽しそうだったので、てっきりお楽しみの最中だったのかと」
「気のせいですよ」
こういう人はなにを考えているのかわからないから、苦手ではあるけれど、不必要に踏み込んで来ないので、ある意味一番気楽に話せる部分もある。
「今日は他の人はいないんですね」
「ええ、皆忙しいようで」
「早紀も?」
「ええ」
早紀が忙しいとは思えなかったが、私の問いに顔色一つ変えずに横田総一郎は答えた。
「そういえば、体調はいかがですか?」
「可もなく、不可もなく、ですね」
倒れた前後の記憶が曖昧なだけで、それ以上はなにも変化はない。
「それは良かったです」
「相変わらず、一部の記憶は曖昧ですけど」
「脳には異常はなかったので、恐らく大丈夫だと思うのですが……。なにぶん、初めての事態なので」
「初めての事態? 何かご存じなんですか?」
私の知らないところで、何かが起きている、そんな予感がした。
「私は、仲間外れですか?」
疎外感が胸の中に広がった。
「いえ、そういうわけでは」
「そもそも、仲間でもないのかも知れませんね」
彼らと仲間になった覚えはなかった。ただ、ここに集まっていただけ。私は横田総一郎と早紀と飯田弓弦の三人しか、名前を知らなかった。
それなのに、私が名前を知らないここのメンバーは私の事を知っているようだった。自分の知らないところで、自分が噂になっているのは、いくつになっても面白くない。
「申し訳ないです」
その言葉は肯定だ。胸の奥が痛んだ。
「花梨さん!?」
横田総一郎は驚いたように目を見開いた。
彼の驚いた声で、私は初めて自分が泣いているという事に気がついた。
「おかしいな、はじめから私は異端者だって、わかっていたのに」
私は涙を袖で拭って立ち上がった。
「そういうわけでは」
「でも、話してくれないじゃないですか」
何も知らない。知らせてもらえない。私はここに来ているだけで、それだけ。仲間でもなんでもない。
相変わらず、居場所のない一匹狼。
拭っても拭っても、涙があふれてきて、どうにも止められない。
「総一郎が女を泣かせるなんて、珍しいな」
第三者の声が突如耳に届いた。
なぜかドクンと心臓がはねた。
「玲一……!?」
横田総一郎にしては珍しく感情の混ざった呟きだった。
見上げると、横田総一郎とうり二つの人物が部屋の入り口に立っていた。
そういえば、双子の兄弟がいるとwikiに書いてあった。
「花梨を泣かせて良いのは、俺だけなんだけどな」
その人は優しい笑みを浮かべていた。その笑顔が胸の奥に沈めた何かを、揺らした。
「何をしにいらっしゃったんですか?」
「体調を診に来たんだ。早紀の歌を聴いて、その後どうなったのかも気になっていたからな」
早紀の歌を聴いた?
「覚えてない、ということは……恐怖を身体が感じたのだろうな」
「彼女に早紀の話はしてないんです」
横田総一郎は、ため息混じりにつぶやいた。
「被害者であるのなら、ちゃんと説明すべきだと俺は思うけどな」
いつの間にか、その人物は私のそばまで来ていた。
そして壊れものに触れるようにそっと、私の涙を指で拭った。
突然触られたのに、ちっとも嫌じゃなかった。それどころか、その手を待っていたかのように、私は受け入れていた。
「おまえ達がお姫様を守りたい気持ちはわからんでもないが、それ以外の存在を存外に扱いすぎだ」
顔に添えられていた手は、いつの間にか優しく私の頭を撫でていた。
「玲一が女性に興味を示すなんて、珍しいですね。それはやはり、被験者だからですか?」
「さて? とりあえず、俺はこの子にも話を知る権利があると思っている」
横田総一郎に似たその人は、横田総一郎とは全く違う笑顔を私に向けた。
何か裏があるのかもしれない。それでも、その人は横田総一郎や飯田弓弦とは、少し違うように見えた。
何が? と尋ねられても答えられないけれど。
「何から、話そうか?」
彼はそう言って目を細めた。