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「あ! 花梨ちゃん!」
早紀が可愛い笑顔を浮かべて私を迎えた。
友達になりたい。その純粋な気持ちを、完全にはねつける事が出来なかった私は、流されるままに、横田グループの若社長、横田総一郎率いるイケメン(率いているわけではなくて、幼なじみらしいけど)軍団と、そしてそのイケメン達のお気に入りのお姫様――有栖川早紀の、仲間に入れられてしまった。
関わらないと決めたのに、どうしてもきっぱりと断れない。
人の顔色を窺ってしまう自分の性分が情けない。
「相変わらず、暇そうね」
初めて総一郎氏に連れられたホテルのレストラン。そこがたまり場だ。
「今日は花梨ちゃんが一番乗りだよ」
「まぁ、暇なのは早紀と私くらいだしね」
ただのOLの私と、よくわからないけれどこぞのご令嬢らしい早紀。
そんなお嬢様な早紀は、仕事をする必要がないらしい。箱入りの箱入り。桐の箱にでも入っているような存在で、おそらく、弓弦がうっかり私を早紀だと思って突進してきた事が、全ての始まりだった。
そもそも、どうしてこんなのほほんとしていて、愛らしい顔立ちの早紀と、普通以下の私を間違えるのだろうか。弓弦の目が心配で、無理矢理眼科へ連れて行ったけれど、何も問題はなかった。
「暇だなんて! 花梨ちゃんはお仕事しているじゃないですか……」
早紀はしゅんとうなだれる。
彼女のこういう、素直に感情が出せるところ……出せるというか、出てしまうところが好ましく映るのだろう。
裏も表もない、汚れを知らない白い早紀。
まぶしくて、うらやましくて、すごいなって思う自分と、苦手だと思ってしまう私。
私にも、あんな純粋だった頃があっただろうか? いや、ない。
「早紀だって、別に遊んでいる訳じゃないでしょう?」
早紀は、お嬢様なだけあって、色んな勉強をしている。
「でも、25歳にもなって、仕事したことがないなんて……」
「家事手伝い。それも立派な仕事じゃないのかな?」
働かなくても、生きていけるとは羨ましいけれど、私は別に仕事は嫌いじゃない。
もし私が早紀の立場だったら? と、考えてみても、生まれた時からそう言う環境にいるわけじゃないので、想像するのは難しい。
「早紀は早紀の人生だし、比べる必要はないと思うよ」
ずっと他者と比べて生きてきた私が言うのも変な話かもしれない。
けれど、比べて生きてきたからこそ、だからこその結論だと思っている。
「花梨ちゃんの言葉は、なんか重いね。他のみんなも色々な事を言ってくれるけど、違うように聞こえるのが不思議」
ここに来る人たちは、それなりに良い生活をしている人たちばかりだ。
生まれたときから、環境に恵まれている人。夢を掴んだ人。夢を追いかけている人。
「まぁ、私は生粋の庶民だからねー」
底辺を知っているからこそ、見える景色がある。
上から見下ろしただけじゃ見えない世界。でも、私がこの先上から見下ろす事はないだろう。
上に居る人たちの話を聞けるこの場所は、未知との遭遇で、楽しい。
早紀からしたら、その逆なのだろう。見たこともない、底辺で生きている私の話は、彼女にはどんな風に聞こえているのだろうか。
「花梨ちゃんが、ここに来てくれて、すごく嬉しいんだ」
「突然どうしたの?」
「だって、最初、すごく怒らせてしまったみたいだから」
「ああ……友達ってさ、やっぱり無理に作るものじゃないと思うよ」
ここに集まるメンバーにとって、私が友達かどうかは定かではない。私自身、あまり深く関わりたくないのが本心だった。
全てが矛盾している。私という存在は昔から、そうやって矛盾していた。
その矛盾を見ないふりをして生きてきたら、狂っていた歯車は簡単に修正できなくなってしまっていた。胸の中にあるのは、悲しい記憶ばかり。
「花梨ちゃん……」
私を気遣うように、早紀が視線を向けていた。
「ごめんね。早紀の事も、ここの人たちも嫌いじゃないよ」
でも、好きにはならない。誰かを好きになると言うことは、信じると言うことだ。
「あの、花梨ちゃん」
おずおずと早紀が口を開く。
彼女も私の表情を読み取ろうと必死なのだろう。
「ちょっと、待ってて?」
早紀はそう言うと、この部屋の扉へ近づいて、何やらボタンを操作した。
「これで、誰も入ってこられない」
「え?」
早紀の言っている意味がわからない。
ええと、相手が早紀じゃなくて、男だったらもの凄い危ないシチュエーションじゃないか?
早紀は私の側へと戻ってくると、優しく微笑んだ。
そして大きく息を吸い込んだ――。
次の瞬間、私の思考は完全に停止した。
早紀は歌っていた。歌詞は日本語じゃないから、わからない。
なのに、もの凄く胸が揺すぶられる歌。魂をわしづかみにされる感覚。
体の奥がビリビリする。
体の感覚が麻痺していくように、私は早紀の歌声に溺れた。
全ての負の感情が、押し出されていく。
私の意識はそこで途切れた。
笑い声が耳から離れない。
「風間ってさー」
私の名前を教室の誰かが呟く。
耳を澄まさなくては聞こえないような音量なのに、自分の名前のところだけ特別に切り取られたように、耳に届く。
聞きたくない。それなのに、聞こえてしまう。
聞いてしまう。
今度は何を言われているのだろうか?
胸の奥がざわざわとして、あまりにも居心地が悪くて、私はトイレに駆け込んだ。
小さな個室は、私だけの場所だった。誰もいない、誰もいない。
怖くて怖くて仕方がない。
誰も私に話しかけない。
休憩時間が大嫌いだった。だって、ひとりぼっちだから。
他のクラスにいる友達のところへ足を運ぶ。
そんな決まりがあるわけじゃないのに、他の教室に入るのは躊躇われて、入り口から顔を覗かせる。そうすると、気がついた友人が私の方へ来てくれる。
私は、クラスで無視をされていた。
いじめ? いじめられていたのは、去年だったはず。クラス替えのおかげで、私をいじめていた筆頭の子とは離れる事が出来た。
けれど、噂というのは怖くて、新しいクラスに私は馴染めなかった。誰も受け入れてくれない悲しみ。
それでも、毎日学校へ通った。
いじめられていた頃は、早退することも多かった。
でも、早退する私には帰る場所はなかった。
いじめられた原因は私にあった。だから、仕方ないと思っていた。
けれど、いじめを甘んじて受け入れていた訳じゃない。
いじめられている、その現実を誰かに話すことが、どれほど勇気の要ることか……。
そして、どうにか吐いた弱音は「馬鹿なことを言ってないで、学校行きなさい」という、母親の声でかき消された。
たぶん、その頃からだろう。
『居ても居なくても同じなら、居ない方が良い』
必要とされる事が、私の存在価値だった。
それがないということは、存在できないのと同意語だ。この考え方が歪んでいることに気づくのは、もっともっと先のことだった。
親にすら拒絶された私は、居場所を喪った。
学校も、家も、休まるところはなかった。
ただ、学校を休むことは怖くて仕方がなかった。休んでいる間に、私の悪口が広がっているかもしれない。そう思うと、不思議と学校に行くことは苦痛ではなくなった。
ただし、常にアンテナを張り詰めた状態の私は、長期休暇になると当たり前の用に体をこわしていた。
体調不良の時だけ、母は優しかった。
「ねぇ、毎日こんなところでさぼってるけど、学校どしたの?」
知らない高校生に声をかけられた。
「早退です」
「体調が悪いとか?」
「そうです」
「顔色は悪くないけど」
そう言って、その高校生は私の顔をのぞき込んだ。
「あとさ、余計なお世話かもしれないけど、知らない大人からもらったもの、そんな疑いもなく受け取っちゃダメだと思うんだ」
「え?」
「ごめんね、見えちゃって」
先ほど、ゴミ収集車のおじさんがお菓子をくれた事を思い出した。
「大丈夫です。開いてないし」
「そう言う意味じゃなくて……」
その人は小さく笑った。
「疑うってこと、知らないんだな」
「疑う?」
その人の言う言葉の意味を、私は少しも理解できなかった。
今度は小さな溜息。
その溜息にびくっと肩が震えた。
「がっかり、させてしまったのなら、ごめんなさい」
私は馬鹿だから、何もわからない。
みんなと同じにしていたのに、どうして私がいじめの標的になったのかもわからない。
でも、きっとみんなと同じじゃダメだった。
友達が言っているからって、自分で考えもしないで、オウムの様に返すだけだった私。そうしていれば、丸く収まると思っていたのに、それは違っていた。
「別にいじめたいわけじゃないよ」
その人は私の頭をそっと撫でた。知らない人間に突然さわられるのは不快なはずなのに、その手は特例のようで、私の胸に広がった暗闇を、少しだけ消してくれた。
それから、私は中学2年になるまでの数ヶ月、その人と会うようになって、そしていじめられている事を話した。
でも、その話をした後、その人は居なくなってしまった。
その人はいつも優しかった。
「いつか、花梨の居場所、俺が作ってやる」
最後に見たのは、決意の顔だった。その顔があまりにも格好良くて、私は彼の影を追いかけた。
それが全ての過ちへ通じる入り口だと、その頃の私は知るよしもなかった。