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「風間花梨さん」
フルネームを後ろから呼ばれた。
もう終わったことだと思って、すっかり記憶の彼方へ押しやっていたのに。
振り返るのは危険だと、本能が告げている。
「先日は弓弦が失礼な行いをしたようで、改めて伺わせていただきました」
紳士的な声が、その人物がそばまで近付いてきていることを知らせた。
横田総一郎。
あの男の子がもたらしたその名前を、帰りにスマホですぐに調べてみたのだ。そしたらwikiにまで名前が載っているような、大物だった。
横田グループの跡取り。
横田グループと言えば、ミシュランに載るようなレストランや、ホテル、大型レジャー施設の運営。
とりあえず、お金持ちなのだ。
それこそ、私とは住む世界の違う人間。
そんな人間が、私のような庶民――利益が得られるとは思えない人物に接触してくること自体、不自然極まりない。
そもそも、私自身に利用価値があるはずがない。
「風間花梨さん?」
もう一度、呼ばれた。
聞こえているのかいないのか、確かめるような口調。それでいて、振り向けと言うような威圧感を感じさせた。
私は小さく息を吐いた。
「何の御用ですか?」
ゆっくりと振り返ると、この間の紳士――横田総一郎が、笑顔で立っていた。
大人しそうな笑顔の裏の意図は読めなかった。そもそも、私はそういう人の裏を読むのが苦手なのだから、人の上に立つような人間の裏など、一生かかっても読める気がしないし、読みたいとも思わない。
自分に関係のないことは知らない方が幸せだということを、生きてきた上で私は知った。
「そんなに警戒なさらなくても大丈夫ですよ。先日弓弦が失礼なことをしてしまったので、そのお詫びをしたかったのですが……弓弦を行かせたのが間違いだったようですね」
「どうしてあの子がぶつかったことを、あなたが謝罪するのですか?」
そうだ。本人が謝るのなら理解できる。
「私が彼の保護者だからです」
保護者? 確かに横田総一郎には姉と、双子の兄と、弟がいるのをwikiで知った。しかし、あの子は目の前の人物に少しも似た部分も持ち合わせていなかった。
弟、というにはあまりにもかけ離れた。
「立ち話もあれですから、どうぞ」
すっと手を差し伸べるその動作は、あまりにも自然で、無意識にその手を取ってしまった。
「あ」
手を離さなくては、と思った瞬間、痛くない程度に握りこまれて、引き寄せられた。
見上げると、有無を言わさない笑顔が私を見つめていた。
「すぐそこに車があるので」
危険だ。
知らない人間の車に乗るなんて、危険極まりない。
世間を知らなかった、子どものころの私ならまだしも、いい大人の私が『知らない人についていってはいけない』をやろうとしている。
でも力では敵わない。大声を張り上げるのは、おそらく適切ではない。この人は社会的にも力があるのだから、私みたいなちっぽけな存在が、どうにかできる相手ではない。
ここはもうお詫びとやらをさっさと受けて、何事もなかったように退散するしかない。
私は覚悟を決めた。
「この車です」
堂々と路上駐車をした黒塗りの車が、私の姿を映した。この磨き上げ方、普通じゃないよ。やっぱり選択を間違えた。今からでも帰れるかな?
先ほどの覚悟はあっさりと、黒塗りの高級車にぽっきりと折られてしまった。
横田総一郎が後部座席の扉を開け「どうぞ」と、私が乗るのを待つ。そんなことしてる人、ドラマかアニメや漫画の中だけじゃないんだと、頭の中で色々な感情がぐるぐるとまわる。
「どうかしましたか?」
怪訝そうな顔が、私を覗き込む。そんな曇った表情ですら色っぽいとか思わされるあたり、品のある美形の効力を見せつけられた。
こんな憂えた顔を見せつけられたら、大概の女性は落ちるのだろう。しかも、お金持ちだし。条件としてはこれ以上ない存在。まぁ、そんな御大層な身分なのだから、婚約者の一人や二人いてもおかしくないだろうけど。
「気分が悪いですか?」
考え込んでいたせいで、答えるのを忘れていた。それなりに距離があったはずの顔が、眼前まで迫っていた。
「いえ、大丈夫です」
さりげなく顔を離し、私は車に乗り込んだ。
もちろん内装も高級感漂っていた。総革のシートに、ほのかに香る優しい匂い。座り心地だってばっちりだった。
そもそも車なんて、バスくらいしか乗らないんだけどね。
そんなことを考えていた私の横に、横田総一郎が座った。
「助手席に座った方がよかったですか?」
私の考えを読み取ったのか、横田総一郎が苦笑いを浮かべながら言った。
少し考えればわかるけど、偉い人間が助手席になんて常識的にありえないのだった。そもそも私が先に乗せてもらったことも、私より偉い(と言っても、私の会社の上司でもなんでもないわけだけど)人なのだから、私が後で乗るべきなんじゃないのか?
「怖い顔をなさっていますが、危害は加えませんから安心してください」
考え込んでいた私の表情を、違うように解釈したのか、またも覗きこまれてしまった。
これで一体何回目だろうか? この人は人の顔を覗き込むのに、少しも躊躇しないのだろうか……。
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
『何を考えているのかわからない』と、私は評されることが多い。何を考えるも何も、何も考えていない事がほとんどだけなんだけどね。
「すぐに着きますから」
私はその言葉を聞き流しながら、外の景色を見ていた。
「弓弦は……この間の少年は、あなたにぶつかろうとしようとしたわけじゃないんですよ」
横田総一郎がぽつりと話し始めた。
私はそれに振り返りもせず、流れる街並みを見ていた。
「あなたが、似ていたと言っていました」
自分に似ている人間は、この世に3人はいるというが、本当に自分に似ている人物がいるとは思えない。まぁ、似ているだけで中身は全くの別物。私の性格の人間がほかにいると思うと、ぞっとしてしまう。
「彼が憧れている女性に」
「人の話を勝手にするのって、よくないと思いませんよ?」
知らないところで、自分の事を、それも込み入った事情があるのなら尚更本人の居ないところで話すべきではないと思う。聞かされる方の身にもなって欲しいものだ。
「これは申し訳ありませんでした。確かに風間さんが仰るとおり通りですね。本人の了承も得ないで、ぺらぺらと話すような内容ではなかったですね。しっかりされてるのですね」
不快感をあらわにした私に、横田総一郎は静かに答えた。
他の人間なら嫌味に聞こえるであろうセリフも、この紳士が言うとそうならないのが不思議だった。
人の上に立つ人間ほど黒いはずなのに。
「私の顔に何かついていますか?」
まじまじと横顔を見ていたのを指摘されて、焦って視線を外の景色へ戻した。
しばらく車内を沈黙が支配した。だからといって、会話のネタもない。ただ、その沈黙は気まずいものではなかった。
お互いの距離を侵害しない、程良い空気感が不思議だった。
車が高級そうなホテルの前で止まった。
「さて、到着いたしましたよ」
横田総一郎は私より先に車を降り、ドアに手を片手を添えて、空いたもう一つの手を私に差し出した。
すべてが完璧な振る舞いで、またも無意識にその手を取っていた。
私が手を載せると、横田総一郎は満足そうに微笑むとゆっくりと私をエスコートした。
「あ」
「どうしました?」
「ええと、私、今日こんな格好ですけど」
職場は服装自由なので、その日の気分で服を決めている。今日は、何となくジーンズを穿いていた。
どこに行くかわからないけれど、こんな高級そうなホテルにジーパンは不釣り合いのように思えた。
「少しも問題ありません」
そう言って連れていかれたのは、ホテルの最上階のレストランだった。
「だまされた」
ホテルの前で私は立ち尽くした。
いくら私でも、この格好でこのレストランに入るのは気が引けた。
「今日は貸し切りなので、ドレスコードは気になさらないでください」
「か、貸し切り」
「うちのグループのホテルなので」
頭がくらくらする。
本当に住む世界が違う人間なのだと、改めて突きつけれた。
「みなさん、本日の主役をお連れしましたよ」
今、みなさんとか言ったけど、空耳だといいな。
そんな灯火のような願いは、突風によって吹き消されたのだった。