1 動き出す時計
この間ぶつかってきた男の子が、もう一度私の前に現れた。
「お姉さん、こんばんわ」
おばさんと言われてもおかしくないのに、お姉さんなんて呼ばれると、何となくくすぐったい。
そもそも、若い男の子と関わることなんて滅多にない。
「どうもです」
小さく会釈をして、その横をすり抜けようとしたところで、私は腕を捕まれた。
「わ、そんな怖い顔でみないで?」
懇願する瞳は、まるで小型犬。
自分が可愛いということを知っていて、その扱い方を熟知しているのが丸わかりで、心の奥に闇が広がった。
「あの、私忙しいんで」
嘘だけど。
こうやって媚びてくる人間は苦手だ。自分ができないから、嫉妬なのかも知れないけれど。
「そうなんだ」
明らかにガックリと肩を落とす。
その姿に、ますます私の心は凍り付く。
誰もがみんな、可愛いそぶりをすれば食いつくとでも思っているのか?
この子はバカにしているのか?
モヤモヤは広がっていくばかり。
「なので、離してください」
油断していたとはいえ、突然知らない異性に腕を捕まれるのは気分がいいものではない。
腕を振り払おうとしたけれど、華奢に見えて力はいっちょ前に男だった。
力でかなうわけがない。
「話くらい聞いてくれても良いじゃないですか」
話を聞いてもらう、という言い回しとは裏腹に手の力は緩めてくれない。
ものすごくめんどくさいし、胡散臭い。
「この間のお詫び、ええと、もう一人お兄さんいたでしょ?」
言われて思い出す。
倒れそうになった私を助けてくれた紳士風の男を。あの人も胡散臭かったな、などと思い出していると、目の前に可愛い顔が迫っていた。
「僕が目の前にいるのに、どーして僕以外のこと考えるかなぁ」
いや、あなたが思い出させたんでしょ。
声にならないつっこみを入れながら、ゆっくりとその顔から遠ざかった。
「まぁ、僕が言ったんだけど」
そこ、自分でつっこんじゃう? つっこんじゃうんだ?
天然なの? それともこれも、計算なのか?
後者の可能性は、高いような低いような。今まで私が出会ったことのないタイプだった。
そもそも、私の世界ってそんなに広くないんだけどね。
「で、そのお兄さん……横田総一郎って知ってる?」
横田総一郎? 聞いたことあるような、ないような。
「お姉さん、世間に疎いの?」
可愛い顔が、私にもう一度近づいてきた。
「世間に疎いというより、興味がないのが正しいかも。私は私の世界で生きてるだけだから」
周りのことを気にして生きるのはめんどくさい。ニュースとかも、私の中を通り過ぎていく。
「天気くらいかな、この世で大事なことって」
「じゃあ、芸能人とか、業界人とか、ぜんぜん興味がない?」
「違う世界の人でしょ? その人達は私の生活には一切関係ないから、興味ないかな」
ちらりと過去の自分が浮かぶが、それは過ぎ去りし日々のことだ。今の私には関係ない。
「総一郎さんに興味がないとか、すごいね! まるで早紀ちゃんみたい」
瞳がキラキラとお星様を宿した。
「早紀ちゃんとやらが、好きなんだ?」
私の質問に、一瞬表情を曇らせた。
ビンゴ! と、内心ガッツポーズの私。そして、曇らせた表情とともに、手の力が一瞬弛んだのを、私は逃さなかった。
さっと手を引き抜いた。
「何の用事か知りませんけれど、もっと綺麗な人を当たってくれませんか?」
自分が平均以下なことくらい、ちゃんと知っている。
それなりに見えるようなメイクはしているけれど、それも自己流なので、けして上手とは言えない。
「あー! 油断しちゃった」
私の手が逃げたことに、うなだれた。どうやら、本気で油断したようだ。
おかしな子。
そう思ったら、小さく吹き出してしまった。
そしたら、きょとんとした瞳で彼は私を見ていた。
「何?」
「ううん、何でもない。今日はいいや、伝言。横田総一郎さんが、この間の僕の非礼をお詫びしたい、ということで今度お食事にでも」
「結構です」
相手が言い終える前に、口が動いていた。
知らない人間に突然親切にされるなんて、気持ち悪すぎる。そんな話に乗るような、馬鹿な女に見えるのか。
見えるから、こういう話の流れになったのか?
醜悪な顔立ちの私が、訴えるだのとか言い出したりしないように、口止めとかに近いのだろう。
「気にしてないので。というか、こういうことをされる方が、迷惑です。と伝えてください」
善意に見えることが、善意であるという確証はどこにもない。利用する価値もなさそうな私だけれど、頭のいい人達は、私の利用価値を何かしら見いだすのだろう。
甘い言葉にほだされて、信じたその先が断崖絶壁じゃないと、誰が保証してくれるだろうか。
自分の身は自分で守るしかないのだから。