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今度は三人称の練習
「早紀逃げなさい!」
花梨は大声を上げた。視線の早紀がよろりと立ち上がったところだった。
「私は大丈夫だから逃げて」
花梨は頬を強く打ち付けられた。
「黙りなさい!」
花梨の頬を叩いたのは愛子。
何がどうしてこうなったのか、早紀は混乱していた。
花梨とホテルでお茶をしていただけ。それだけだったのに、気づいたら愛子がSPを引き連れて乗り込んできた。それに素早く気づいた花梨が早紀のことを突き飛ばし、自分を囮にした。
「早く、早く、早紀!」
「でも、花梨ちゃんが……」
早紀の瞳には涙が滲んでいた。
「私は大丈夫。多分、この人の用があるのは私だから」
「あら、よくわかっているわね」
「嫌な予感っていうのは、嫌なくらい当たるってことは知ってるからね」
花梨は挑戦的に微笑んだ。
早紀はその姿をみて、花梨はやはり年上なのだと改めて思った。
「そんなわけだから、小鳥ちゃんは言伝お願いね。ただし、総一郎には言ったらダメよ? わかったわね」
「絶対に助けにいくから……!」
そう言い残すと、早紀はぎゅっと手に力を入れて走り出した。
「ふふっ。誰が本当に横田家を継ぐのが正しいのか、これで玲一がわかってくれればいいのに」
愛子は早紀の後ろ姿を見ながら、満足そうに微笑んだ。
「さて、その小娘をラボへ連れて行くわ」
ロケバスのような大きな車に乗せられると、花梨は目隠しをされた。両手は手錠でしっかりと固定されており、逃げようとしても、愛子が連れてきたSPに阻止されるのが容易く想像できたので、大人しく付き従うことにした。
車が発射すると、エンジンの音に乗って、ラジオの声が聞こえてきた。
『今夜もよろしく!』
その声は横田拓海のそれと似ていた。
「今日もうちの可愛い弟は頑張っているわね。ふふ」
満足そうな愛子の声。似ているもなにも、本人のものだったのかと、花梨の心にほんのりと闇の中に光が灯った。
暗闇は怖くない。ただ、ラボと呼ばれた場所がどういったところで、どうなるのか。
自分が餌なのか、それとも目当ては玲一と見せかけて、自分自身なのか。花梨には愛子の心は読めなかった。
玲一に聞いた『特別な金糸雀』の可能性を秘めた自分。しかし、花梨にはピンとこなかった。自分が特別なんて、あまりにも現実離れしていたから。彼がそうと信じる理由は、早紀の力の発現だけじゃないような気がするが、花梨にはそれ以外に浮かばなかった。もし聞いたとしても、玲一は答えてくれないだろう。
『さてさて、皆さんいかがお過ごしですか? 一気に涼しくなって、この時期夏バテしちゃってる人も多いんじゃないでしょうか?』
横田拓海の声が静かな車内に響き渡る。
花梨は拓海の声が好きだった。横田拓海といえば、今一番人気の若手声優。花梨のやっているスマホの乙女ゲームの攻略キャラクター、王道である『俺様』の声をあてていたり、人気漫画のアニメ化の主役だったり、ナレーションや海外映画の日本語音声などもやっている。
まさに旬の人物。
花梨も初めて横田拓海に出会ったとき、思わずオタクである自分を隠しきれずに披露してしまったという、なんとも恥ずかしい過去がある。
『秋は黄昏時っていって、どうしても気持ちも落ちてしまう人も多いんだって。知ってた? だから今日はそんな皆に少しでも元気を届けられたらと思っています』
不思議だなと、花梨は思った。こんな風に平和なラジオが流れているのに、自分は目隠しをされ、どこへ連れて行かれるのかも不明だというのに。
その温度差が、逆に花梨に現実を突きつけた。
どれだけ車は走っただろうか。横田拓海のラジオも終わってしまうと、ラジオも切られてしまい、愛子の呼吸と自分の呼吸の音が聞こえるだけになっていた。
花梨が意外に思ったのは、愛子は拓海のやることをちゃんと見ていたということ。玲一の話だと、玲一と総一郎に入れ込んでいた、ということだったが、やはり姉にしてみれば一番下の弟もちゃんと可愛いのだなと思うと、愛子の事を見直した。
そんなことを思っていると、エンジンの音が止まった。
「行くわよ、立って」
花梨は手錠を引っ張られて無理やり立たされた。
足元が見えなくて、歩くのが怖い。視界がなくなる、ということがこんなにも怖いことだと思うと、盲目の人たちの苦しみが、ほんの僅かだけど、理解できたような気がした。
「もういいわよ」
愛子の声と共に、視界が開けた。眩しくてすぐには目を開くことができなかった。
「手錠はそのままにさせてもらうから。携帯はここでは無意味だから、そのままお守りとして持っていればいいと思うわ」
花梨は乱暴に背中を押されて、床に倒れた。
愛子は一瞥もくれずに、その場を去っていった。
愛子にとって花梨は、自分の大切な玲一をかどわかして、横田の家から離れさせた元凶。憎むべき相手。ただそれだけ、風間花梨という個には少しも興味を持たなかった。
花梨はポケットに入っているスマホを取り出して、電波の状況を確認した。
愛子が言っていた通り、圏外と表示されていた。
『ここじゃ携帯電話は無駄ですよ』
どこからともなく男の声が聞こえた花梨は、あたりを見回した。
あるのは白い壁だけ。誰も見えない。
『君の部屋の向かいに僕はいるんだ。他にもいるけれど、君が何者かというのを測りかねているみたい』
「ええと……声がするのは、向かいというか耳の横のような気がするんですけれど」
花梨は一応壁に触れて耳を当ててみるが、なんの音もしなかった。
『きっと僕らは直接は会話できないと思うよ』
「どういうこと?」
花梨には、男の言っていることが少しも理解できなかった。
『ルイスは回りくどいのよ』
今度は艶やかな女の声が響いた。
「えーとえーと……」
『私たちは愛子に連れてこられて、ここで研究の対象になっているの』
研究、という言葉を聞いて花梨が連想できるのは、金糸雀だけだった。
『といっても、私たちが愛子に話せることは何一つとないのだけどね』
『そうだな』
花梨を置いて二人の会話が続いた。
『で、私たちはあなたの意識に直接語りかけてるのよ』
「……夢?」
花梨は思い切り自分の頬をつねった。
「痛っ」
痛みが夢ではなく、現実だといういことを花梨に知らしめた。
『悲しいけれど、これが現実なんだよ』
ルイスと呼ばれた男が、呟くように言った。
『でも、おかしいのよね。あなたが金糸雀だとしても、こんなに簡単に話ができるなんて』
特別な金糸雀、という話は聞いていたが何が特別なのかもわからないし、そもそも花梨が過ごしてきた日々を思い返しても、日常は普通に溢れていた。
『やはり、目覚めたのかしら?』
『それとも、もしかしたら新人ちゃんが、僕らの特別な存在なのかもしれないよ?』
「まさか」
『まさかぁ』
花梨と女性の声は同時に発せられた。
『今までとなんか、こう、違うんだよね。セイは何か感じない?』
『感じないわよ。女性に興味があるだけじゃないの?』
『そりゃ、もちろん興味はあるさ。ここじゃセイか、愛子しかいないからね。新しい女性となれば、また新鮮でいいじゃないか』
セイと呼ばれた女性は深い溜息をついた。
『あなたはそればっかりね』
『こんなところに繋がれてしまった僕には、それくらいしか楽しみがないじゃないか』
『繋がれてるのはあなただけじゃないでしょ、私も。あと、新人ちゃん』
『そうだ、新人の君の名前を聞いてなかった』
ルイスは思い出したかのように、花梨へ意識を向けた。
「風間花梨よ」
『カリンっていうんだ。ジャパニーズスナックに、かりんとうってあるけど、関係ある?』
「少しもありません!」
『ルイス……あなた、ちょっと頭弱い?』
セイの呆れた声が静かに響いた。
『ジョークに決まっているだろう?』
ルイスの溜息が漏れた。
「あの、特別な金糸雀って何なんですか?」
『新人ちゃんなら知らなくても仕方ないかもしれないな』
『そうね。でも、知らない方が幸せって事もあるのよ? それは金糸雀という存在そのものを問うてるのと同じ事だし』
「特別な金糸雀が、金糸雀の存在を問う……?」
自分が特別だと言う仮説を、玲一によって立てられていた。
しかし、その仮説に至る理由は聞かされていなかった。
うっすらと自分では、早紀の歌を聴いたことが何か関係しているのだろう、と思えるだけだった。
『まぁ、今日はもう夜遅いから、また明日にしましょう』
『時間はたんまりあるからな』
テレビの電源が切れたかのように、花梨の頭の中は真っ黒になった。