5
手を伸ばせば届く距離。
それだけで俺は満足していた。ただ、一つだけ懸念しているのは、姉である愛子だ。
あいつは、俺を溺愛していた。
たぶん、身体の弱かった俺を、心配していたのだろう。
俺は虚弱体質で、いつも外で遊んでいたり、父親に色々な所につれて行かれる愛子や総一郎を羨ましく思っていた。俺はいつでも部屋に閉じこめられて、待たされていた。
愛子や総一郎が話してくれる全てが、新鮮で、それだけが唯一外のつながりだった。そのことを、愛子はとても気にしていた。
家に帰ってくれば、習い事があろうとも俺の元へ顔を出していた。
色んな検査をされた。が、俺の体調が悪い理由なんて、見つからなかった。
時々呼吸の仕方すらわからなくなり、俺は酸素マスクをつけられて、ベッドに縛られた。
そんな毎日が続き、俺はとうとう逃げたのだ。
死んだって良いとすら、思っていた。
なぜならば、俺は生きてはいなかったから。ただ、生かされて、生き永らえていただけ。
外の世界がみたかった。
初めて見る外の世界は、魅力的で、俺は苦しさを忘れて走って走って走り回った。
行き着いたのは、小さな公園。
俺が奇跡の女神に出会った、俺の運命を全て塗り替えた、少女。
それから、俺のボロボロだった身体が嘘のように、力を取り戻した。
同じ公園に行っては、遠くから、その少女を見守っていた。
俺の変化を、愛子が見逃す訳がないと、知ったのはその随分後のことだった。
いつしか僕という一人称から俺へと変わり、高校も残りわずかになっていた。
俺は何の目的もなく敷かれたレールの上を歩いていた。別にそれで構わなかった。疑問に思った事だってなかったのだ。
俺の女神はいつの間にか公園には現れなくなり、公園に足繁く通う俺に不信感を抱いた愛子に問いただされるようになり、俺も公園からは離れていった。
高校の授業はつまらなかった。
否。全てがつまらなかった。自由を得たはずが、俺は不自由で仕方がなかった。
そんなとき、俺はもう一度俺の女神に出会ったのだ。
真夏の正午。
綺麗に生えそろえた、小さな丘になったその真ん中で、スマホから音を垂れ流し、その音に歌を乗せていた。
俺は邦楽は聴かない。だから、その歌が何の歌なのかはわからなかった。
けれど、俺の女神は周囲の事などお構いなしに、何かを求めるかのように、ただがむしゃらに歌っていた。
その歌声に、その姿に、俺は魅入られた。
うるさいくらいの蝉の声すらも、彼女の歌声を引き立てているようだった。
無意識に彼女の方へ足が動いていた。
かさっと、音がたってしまった。
その瞬間女神は歌をやめ、ゆるりと緩慢な動きでこちらに視線だけを向けた。
光の宿らない、まるで漆黒の闇がその瞳には広がっていた。
俺の知らないところで、彼女は深い闇へと落ちた事を、俺は悟った。
俺が何も考えずに、ただレールの上をのんびりと歩いている間に、彼女は絶望を味わっていたのか、そう思うと悔やまれた。
はっと、彼女の瞳に光が戻る。
気まずそうに照れ笑いを浮かべて、スマホから流れていた音を消した。
「ええと」
「歌の、邪魔しちゃったかな?」
「い、いえ。こんな所で歌ってて、変な人、ですよね」
確かにこんな所で、自分の世界に入り込み、一人で歌っているのは、変というか、その次元を越えているような気がした。
それでも、彼女ならば、それも許されるような気がした。
「あの、内緒にしてくれませんか?」
俺には彼女の提案が何の事なのか、すぐには理解できなかった。
「学校さぼって、こんなところで歌ってるなんて、知られたら……」
よくよく見ると、彼女が着ているのは近くの中学の制服だった。夏休み前とはいえ、この時間帯にここに居ることは、不自然だった。
おどおどと、顔色を窺うような上目遣い。その瞳があまりにも自信なさげに揺れるから、抱きしめてしまいたい衝動にかられた。
「俺もさぼりだから、他人の事はとやかく言えないな」
どうにか衝動を抑え込み、なるべく普通を装って応える。
時間が過ぎて、瞳の光は変わっていても、その身体が纏う空気は何も変わっていなかった。
何とも言えない空気が暫く流れた。
聴きたいことは山ほどあるのに、それを尋ねて良い空気ではなかった。
何度か公園で会っているうちに、花梨は俺に心を開いてくれるようになり、名前を教えてくれた。
「いじめ、られてるんだ」
日陰で並んで座っていると、ぽつりと花梨は呟いた。
「お母さんに言ったんだけど『馬鹿言ってないで、学校いきなさい』って言われちゃった」
花梨は自嘲気味に笑った。
その姿があまりにも痛々しかった。花梨が時折見せる切なげな横顔は、味方が居ないという、中学生の少女が背負うには、あまりにも辛い現実だった。
「どこにも、居場所なんて、ないんだ」
ゴウっと強い風が吹いたその刹那、消え入りそうな声で花梨は呟いた。その声は俺の胸にナイフのようにぐさりと刺さった。
居場所を与えられ、レールを歩く俺。
居場所が無いと、泣くことも出来ずに孤独に耐える、花梨。
爪が食い込むほど、手を握り、どこか遠くを見据える花梨。そんな花梨に、俺はかける言葉を何一つ持っていなかった。
「俺が、作る」
無意識に言葉が漏れていた。
「え?」
花梨は聞き取れなかったのか、小さく首を傾げながら俺へ視線を移した。
いつもは空を映している花梨の瞳に、俺が映った。
「いや、なんでもない」
俺にとって、花梨は命の恩人だ。だから、俺はその恩返しをしたい。そう思った俺は、親の敷いたレールから外れることを決意した。
久しぶり過ぎて、どんな展開にするのか忘れたって言う・・・。