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今私は、人生最大と言っても過言じゃないほど後悔している。
ちょっとコーヒーの匂いが恋しくなって、カフェくらいなら一人で行っても大丈夫だろう。そう思っても、誰も私を責めないよね……といって、実は自分で一番自分を責めているのだけど。
まさか、私が昼休みに社外へ出てくるのを見張っているなんて、想像できないでしょう?
相手は横田グループの海外部門だか何かのリーダーなんだから。
本人が自ら出てくるなんて、誰が想像出来た?
せめて玲一氏か総一郎氏にでもメールをして、外へ出てくるべきだった。
携帯は握りしめているけれど、たぶん、それを操作することを目の前の女性は許してくれないだろう。
双子よりも拓海に似ている女性が、横田家の長女だとすぐに悟った。
「貴女が、風間花梨ね」
値踏みするような視線が、私の頭から足先へ向けられた。
嫌悪感がはしる。これは、本能が危険を告げているに違いない。
逃れたいけれど、まるで獲物を見つけた肉食獣のように鋭い眼光は、私の動きを止めるには十分すぎた。
「あなたは、どちら様ですか?」
誰かなんて何となくだけぢど、わかっているし、知りたくもない。でも、人に名前を尋ねるときには、自分の名前を名乗るのが、道理ってものだよね。
と、自分の中で小さく言い訳をした。
「あら、申し訳ないわね。ご挨拶が遅れましたけれど、私、横田愛子。総一郎や玲一、拓海の姉です」
艶然と微笑む姿に背筋が凍った。
「どうも、はじめまして」
動揺を悟られないように、至極自然な振る舞いを心がけた。
こういうとき、表情にあまりでないと言うことで救われる。おそらく相手は私が動揺しているなんて、思わないだろう。そうであって欲しい。
「私みたいな平凡な人間に、用事があるとは思えないのですけど」
「当たり前です」
ぴしゃりと言い切られた。
そこまで言わなくても、と思いつつも言葉を飲み込んだ。
「貴女が、玲一をたぶらかしたと、私が知らないとでも思っていて?」
たぶらかすって何のことですか。目の前の人物は日本語を喋っているのに、私には理解できなかった。
「ええと?」
「総一郎ももちろん、優秀だけれど、横田グループのトップに相応しかったのは、玲一なのよ」
私にとって、誰が横田グループのトップだろうがどうでも良いし、そもそもどうして私が玲一氏をたぶらかしたと言う、ありもしない事が、事実のように語られているのだろうか。
冷静そうに振る舞っているけど、頭から湯気が立ち上っているのが見えた。
うん、これは話は出来ない。
でもきっと、私を逃がしてはくれない。さてどうしたものだろうか。
「理解していて?」
ゆっくりと距離を縮めて来る。
昔のゲームみたいに、コマンドが頭に浮かぶ。
たたかう
にげる
どうぐ
ええと、この場合は。
素早く携帯をポケットから取り出して、時間を確認した。
「あの、休憩時間終わってしまうので戻ります!」
携帯には12:49と表示されていた。
コマンドは「にげる」に決定!
さすがに仕事を言い訳にしたので、突っ込まれなかったけれど、舌打ちをされた。
それでも、この場から逃れられるのだから、マシだった。
「いいわ、そのうちきっと、ゆっくり話す時間が出来るだろうから」
その自信は一体どこからわいてくるのだろうか。横田家の人間はそう言う風にプログラムでもされているのだろうか。
そんなことを考えながらも、私は携帯を握りしめて会社へと戻った。
その途中、横田の双子に「お姉さんがきたよ」と、簡潔なメールを送信しておいた。
「災難だったな」
今日私を迎えに来たのは、玲一氏だった。
災難とか言う割に、面白がっているのを隠しもせずに堂々と笑っているあたり、玲一氏らしいなと感心させられてしまう。
「災難と言うより、何を言っているのか少しもわからないけど、圧倒的な空気を纏っていました」
「何を言われたんだ?」
「ええと、玲一氏をたぶらかしたと」
言い終える前に、玲一氏は吹き出していた。
「こんな目立たなくて、平凡な花梨に、いつ俺はたぶらかされたんだ?」
色々と余計だけれど、どれも違っていないだけに、言い返せない。
「私が知りたいです」
「愛子は知らないんだ。花梨が、高校の卒アルとかのクラスのフリーページにすら載せられてないくらい、地味で目立たないってことを」
「ちょ、なんでそんなこと知ってるんですか!?」
悲しいけれど、高校の卒業アルバムのフリーページには、私の欠片すら見つけることができなかったのだ。目立たないように行動していたのが、仇となったようだ。
誰にも気づかれない自分が、とても切なかった記憶がある。
「想像で言っただけだったんだが、本当なのか?」
「……」
「まぁ、卒業アルバムに写って無くたって、人生なんにも問題ないさ!」
何も言えないでいると、フォローされた。
それが地味にじわじわと心をえぐるんだよ! と、玲一氏に訴えたい。わかってはもらえないと思うけれど。
「面白くないのかもなぁ。俺はいきなり家を飛び出ていくし、総は総で早紀にしか興味がないからな。一応経営者としては、動いているようだけど」
「そう言うものなんですか?」
「愛子はああ見えて、俺たち二人を溺愛していたからなぁ」
遠くを見ながら玲一氏は言った。でも、それは違うと思った。
いや、間違ってはいないんだろうけど、愛子さんは総一郎さんも確かに大切に思っているのだろうけれど、それ以上に玲一氏に執着しているのだと思う。
その理由は私にはわからないけれど。
「拓海は?」
一瞬だけ鋭く瞳の奥が光ったのを、私は見逃さなかった。
「めんどくさい家だね」
触れちゃ行けないことが多すぎる。別に触れたいワケじゃないけれど、何も意図せず発した言葉すら、時々地雷だったりする。
そんな事をいちいち考えていたら、おそらく玲一氏とは会話はできないだろう。
「そ、だから俺は出て行った」
これ以上は触れないでくれ、という合図のようだと思った。
「ありがとな」
突然、ぽんと頭を撫でられた。
「え?」
「総が言ってた。花梨は引き際が上手いと」
ただ、人の顔色を窺っているだけ。嫌われるのが怖いだけ。
大したつきあいの人じゃなくても、嫌われたくはない。嫌われるのはとても辛いから。
そして、嫌われるような事をした自分の事も、嫌いになってしまうから。
だから、顔色を窺ってしまう。ずっとこうやって生きてきた。
もう私の一部になってしまっていて、今更直すとなると、もの凄く大変だと思う。
「そんなこと、ないですよ」
「自己評価はこの際関係ない。総はそう言っていた、という事実を伝えたまでだ」
「そっか」
なぜだかわからないけれど、玲一氏の言葉はいつもストンと心にはまる。むちゃくちゃ言っているように見えるときも、ちゃんとその先のことを見越して話していたりするし。
双子の姉が、玲一氏に横田グループを継がせたかったのは、そう言うのもあるのかもしれない。
「さてと、作戦会議だな」
昼休みなら、出なければ良いだけ。
でも、雑務で買い物に行かなきゃ行けないこともある。だからって、行かないという選択肢は、ない。
会社で一番の新人の私が率先して動かなければ、お局様に「先輩が~してるんだから、代わりますとか言うべきじゃないの?」とか言われる。
正直な所、行ける人が行けばいいし。やれる人がやればいい。気づいた人がやっているなら、その人から無理矢理取り上げてやるのも、なんかおかしいような気がする。
考え方の相違は当たり前だけれど、あちらが先輩なので聞かないわけにはいかない。
「そうですね、会社まで来ちゃったんですから、今までのままじゃダメですね」
どうでも良いことを考えていたことに気づいて、私は現実へ戻ってきた。