「幸せ教えていいんかい」
「条件はただひとつです、どんなことがあっても常に笑っていてください。そうすればこの札束は一週間後、あなたのものになります。とても簡単でしょう?」
片岡志保はお金が欲しかった。とくに何が欲しいということも無かったが、今の自分を幸せにするのは自由に使えるだけの金銭だと信じて疑わなかった。
一生で一度の大恋愛と思っていたそれは、向こうの浮気という、何とも陳腐で平凡な理由での幕切れだったし、その後、傷心した志保の慰め会続きに、気を紛らわすための衝動買いで、二人のため、とコツコツ貯めていた貯金はあっという間に底をついていた。
残高が六円になっている通帳をしばらく見つめ、乱暴に鞄に押し込める。そして銀行から出ようと自動ドアのセンサーに感知された瞬間、一人の女性とぶつかった。そうすると周りから音が消え、世界が時をとめた。ただし、志保と、その女性を除いて。
黒髪を一つに結び、グレーのパーカーにジーンズ。手にはシェルの小さなバッグを持った若奥さん風のその人は、突然話しかけてきた。
「あなた、お金がほしくはないですか?」
「は?」
「聞くところによると、ここ最近ずいぶんと浪費されているそうですね。あ、すみません。申し遅れました。わたし、こういうものでして」
そう言うと、彼女は一枚の名刺を差し出した。
「しあわせびょうどういいんかい……?」
「ええ。人の幸せというのは、ある程度の分量が決められているんですが、時々こうしてあなたのように少なすぎたり、あるいは多すぎたりする人がいるものですから、できるだけ公平を期すために、こちらから出向いて、与えたり貰ったりしているんです」
「はあ……」
(疲れているんだ。きっと私、遊びまわった疲れが溜まって、店先で倒れてしまったんだ。そういうことにして、この面白い夢を楽しんでしまおう。)あまりの出来ごとに、志保の頭はそうして受け入れ態勢を整える。
「あのう、聞いてらっしゃいますか?」
「え、あ、はい。すみません。聞いてます聞いてます。」
「それならよかった。大抵の人は怖がって倒れちゃうんですけどね。あなたは資料の通り、順応性に優れておられるようで安心しました。とりあえず、あまり長いことこの状態を保っていることができないので、さっそく本題といきますけど、あなたの年齢だと…まあこのくらいあれば幸せだと思うのですが、いかがですか?」
彼女は赤茶色の巾着袋に入った札束を三つほど取り出して見せた。志保は声も出さないまま、ひたすらにうなづく。
「だだし条件が一つだけあります」
「……はい」
「一週間ずっと笑っていてください」
「えっと……それだけですか?」
「はい。そのことだけを守っていただければ、これは全てあなたのものです。いかがですか?守っていただけそうですか?」
「もちろん!たったそれだけでお金が貰えるなら喜んで!」
「では、明日から一週間、どんなときでも笑顔でいるよう心がけてください。心からでも、作り笑いでも、どちらでも結構です。悲しんだり怒ったりしてしまった場合、このお話は無かったことになってしまいますので気をつけてください。なお、判断はこちらに任せていただきます。では、急ぎ足になってしまいましたが、説明は以上です。頑張ってくださいね」
志保はうすら笑いを浮かべながら適当に返事をした。すると、自転車にベルを鳴らされ、手には巾着袋を持ち、銀行の前に立っていた。
「まさか……」
それまで夢だと信じ込んで楽しんでいたことが現実だと知り、急に怖くなった志保は、思わず巾着を花壇に投げ捨てた。しかし次の瞬間、彼女の言っていた「条件」を思い出す。
「笑っていれば三百万……」
志保は急いで巾着を拾い上げ、笑顔で自宅へと帰った。
それから毎日かかさず笑顔でいるように心がけた。アルバイト先の使えな先輩に散々嫌みを言われても、思い切り、足のスネをベッドにぶつけても、つまらい友人ののろけ話を聞いてる時でも、どんなときでも笑顔を作った。
一日目は、心底愉快だった。楽勝だ、などと言い、鼻歌なんかを歌いながら過ごした。
二日目も、どうってことないじゃない、などと強気の姿勢でいられた。ただ、三日目、四日目となると、さすがに笑えないような事態にも遭遇して、笑顔を強制されることを苦痛に感じ始めていた。五日目は少しばかり泣きたい気持ちになったが、それを許すことが出来ずに、とても不気味な顔で笑う自分の姿を鏡で見ていた。
そして七日目。約束の十分前。志保はとうとう泣きだした。
すると、あのときの彼女が現れて言う。
「せっかくあともう少しだったのに、どうして泣いてしまったんですか?」
「わたし、毎日笑顔でいるだけでお金が貰えるなら、すごいラッキーだ、それって幸せだって思ってたんです。笑っていた方が毎日幸せな気分でいられるって、そう思ってたんです」
「私もそう思いますよ?ちがうんですか?」
「全然違うんです。面白くもないのに、楽しくもないのに、嬉しくもないのに笑うって、何ていうか……辛い時より、もっとつらいんです。何が楽しくて、何が悲しいのか分からなくなってしまいそうで、怖くなってしまって、耐えられなかったんです。だからもう、お金は要りませんから、このお話は、無効にしてください」
「いいですけれど、お金があれば、あなたの好きなものをいくらでも買えるし、もしかしたら、そこで本当に笑顔になれるものも見つかるかもしれませんよ?いいんですか?」
「いいんです。大金積まれて得た笑顔なんかより、きちんと悲しみやなんかを経て、自然に笑顔になる瞬間を、きちんと味わいたいんです」
「そうですか。あなたがそうおっしゃるなら、私はそうするまでです」
「ありがとう」
志保がそう、涙を流しながらも笑顔で一言つぶやくと
「うん、いい笑顔。とても幸せそうです」
と、彼女がぽつりとこぼし、次の瞬間、居なくなっていた。
「やー、今回も一苦労だったなあ」
「あ、例の失恋しちゃった女の子?」
「そう。ギリギリまで粘るからひやひやしたけど、やっぱり人っていうのはそういう風にできてるんだねえ。神様もうまいこと創ったよ。一つの感情だけじゃ生きていけないようにするなんて。うらやましいよね、彩があってさ」
「そうだねえ。ま、幸せの分量が~なんて嘘っぱちばっかならべてたのには笑えたけど」
「まあまあそう言わないで。まだあの子は信じてると思うけど、いつか必ず気付くよ、幸せがどんなものか。どんなことを、自分が幸せと呼べるのか。あ、いけない!次のとこいかなきゃ。じゃあ、またこの仕事片付いたら会おうね!」
「はーい、頑張ってね。っと、わたしも行く時間だった」
彼女たちはそれぞれ町へ消えていき、それまで話していたスタバのテーブルの下には、名刺が一枚落ちていて、社名に引かれた修正テープはほとんどはがれてしまってた。
「幸せおしえて委員会」
あまり得意なジャンルでは無いけれど、たまには他へもチャレンジしようと思い書いてみました。こういった作品は、綿密な設定をし、その細やかな心遣いで読者を惹きつけるものがほとんどだと感じています。ただ自分にはそういった技術は無いので、本が好きではない、ファンタジーに疎い、そういった方にもさらっと読んでいただけるように努めてみました。重くならず、テンポよく、ファンタジーで夢のある世界も素敵だな、と感じてもらえれば幸いです。