月の光
窓の傍で椅子に肘をついて、ぼんやりと外を見ている。
巨大な満月が闇夜に浮かんでいた。
月明かりが静かに辺りを照らしている。
足元にはスズがわたしの足に身をもたせかけている。
「父上も兄上も、昔は違った」
月と闇夜と静寂は、時に追憶をひっぱりだしてくる。
黙って聞いてくれるネコも、その手助けをする。
目を閉じると古い記憶が蘇ってきた。
夏の離宮。どこかの森の中。
まだ若かった父と、三人の母たち。
ボンクラ以前の兄たちと自分は、笑い声をあげて小川で遊んでいた。
――だれの船が早いか競争だ。
――イク兄さま、ずるいぞ。
――すごいな、ヤンの船はあんなところまで行ってしまった。
子供たちの笑い声。
それを見ている父や母たちの笑い声。
降り注ぐ夏の日差し。遠くで歌う鳥。
頬を何かが伝った。ああ、わたしは涙を流しているのか。
スズがよじ登ってくる気配がした。
そっと舌で涙をすくってくれる。
静かに瞼を開くと目が合った。そして反らせなくなった。
いつもは黒いスズの瞳が、月光を受けて濃く蒼色に光っている。
まるで宝玉のような色。高貴で優しい色。
そのままスズは手を回しわたしを抱きしめた。
柔らかな胸の中に、ゆっくりと閉じ込められる。
慰めるように小さく鳴く。
「スズ。お前は」
その細い腰と背中にわたしの手も回った。
「優しい娘だね」
声は涙に濡れていたが、構わなかった。
その夜、わたしはスズの腕の中に守られながら眠りについた。
冷飯ぐらいの末っ子王子にも仕事はある。
午前中は政務をするようになった。
ハンコを押せばいいだけの仕事だ、だれにもできる。
また城を抜け出したいが、どうやらスズはここが気に入っているらしい。
というより、寝台の広さと柔らかさ加減が好きなようだ。
まさか寝台を担いで旅をするわけにもいかない。
そして可愛いネコの願いはなんでも叶えてやりたい。
だから仕方なしにハンコを押し続けている。
最初は散々文句を言っていたカイドウ、リンドウも何も言わなくなった(その代りわたしに対する言葉づかいはひどくなっていった)。
女官たちも耐久性がついたのか、ちょっとやそっとのことでは動じなくなった(キムザ化とわたしは呼んでいる)。
午後になるとしょっちゅう、城内をうろつきまわっているわたしとスズは、人々の格好の話題となっているらしい。
「幼児趣味だったのか、我が弟は」
ボンクラその一は、嫌らしい笑いを浮かべてスズを見た(そして、スズの美しい礼をみて言葉を失った)。
ボンクラその二は無言でスズをねめまわした(にっこり笑ったスズになぜか顔を赤らめた)。
婚約者のセリナに遭遇すると、二人で逃げた(「おばちゃんが追いかけてくるぞ、そら逃げろ!」)。
夜は、勿論一緒に寝る。
身体を重ねればスズは可愛い声を上げて何度も果てたし、そうでないときも、まるで獣のように、ぴっとりとくっついて寝た(寝相の悪いスズに殴られるのは、よくあることだった)。
ある日、母に呼ばれた。
扇を弄びながらイライラと言う。
「セリナをほったらかしにして、頭の悪い小娘と日々過ごしているそうではないか」
あの女が告げ口をしたのか。
らしいといえば、らしいな。
婚約者としてセリナを宛がったのは、この母の意である。
同族の貴族の娘は、わたしを愛しているように振舞った。
それが感にさわる。
あいつの演技などとっくにばれている。
白々しさは、時に腹が煮えるほどの苛立ちを連れてくる。
「お前にわたくしの今後がかかっているというのに、しっかりしてもらわなければ……」
母たちの世界もそれなりに大変らしい。
後宮は表とは異なる独特の権力が渦巻いている。
女ならではのオドロオドロしさもふんだんにある。
ボンクラ二人は、その鈍感さ故に未だにここに住んでいるが、わたしはこの後宮が大嫌いだった(大嫌いだーと大空に向かって叫んでもいい)。
だから父にうまいこと言って、城の一室に移り住んだ。
「母上なら、わたしがいなくても立派にそのずる賢さで世間を渡っていけますよ」
「何という事を、母に向かって」
中高年特有のかなり気声に耳を塞ぐ。
「お前が今の生活を改めねば、こちらも考えがある」
「……わたしのネコにもし何かしでかしたら」
低い声が出た。
「母上といえども容赦はしませんからね」
では失礼、と、体を震わせている母を背にとっとと退出をする。
部屋に帰ると件のネコは寝ていた。
キムザの膝の上で。
「スズ! わたしというものがありながら……!」
思わず悲しげな声を出すと、老女は勝ち誇ったように微笑んだ。
「お静かに。お嬢さまが目を覚ましてしまいます」
「なにを言っているのだ、お前は。そこをどきなさい……こら、スズ。お前は誰の膝でもよいのか」
よだれをたらして寝ているスズを抱き上げると、寝ぼけた鳴き声を出した。
「せっかく気持ちよく寝ていらしたのに、起こすことはないでしょう」
「そんな年をとった皺だらけの膝の上など気持ちよいはずがない」
「まあ、殿下。わたくしの膝はまだ瑞々しゅうございます」
「嘘をつけ、嘘を。第一わたしのほうがピチピチしている」
「なんちゅうアホらしい言い争いをしているのですか」
呆れた声をだしながら、カイドウが入ってきた。
しかし、その手にはネコじゃらしが握られている。
「いや、これは、その辺に生えていたのでなんとなく……」
城内にネコじゃらしが生えているものか。
まったくわたしのネコときたら。
目の前で振られているネコじゃらしに、フンフンと手をのばすスズをみて、ため息をついた。
氷のような老女も、うるさいお付きも夢中にしてしまのだ。