残滓
冬も終わりの頃、ひょっこりハヅキが訪ねてきた。
「元気かなって思って」
それにしても、君は本当に王子だったんだな。
「相変わらず野望を抱いているのか」
「それはそれ、これはこれ」
首をすくめて笑った。
「しばらく厄介になってもいいかな。ジンの城にも興味があるんだ」
「それは構わないが」
城の門まで迎え出たわたしにスズも勿論付いてきている。
「あの時の女の子だね。随分と美しくなった」
丁寧に礼をするハヅキに、スズもペコリとお辞儀をした。
わたしの部屋で呑気に茶を啜る男に、かつての暗さはない。
吹っ切れたような、妙に明るい雰囲気だった。
「そういえば、君の探し人はどうなった」
「あの時点でもう分かっていたことなんだけど」
茶器を卓に戻しながら、ハヅキは言った。
「他の男とくっついていたよ。母から聞いて仰天した」
ティエンランの女王は、幼少期の頃事情があって、ハヅキ宅に預けられていたそうな。
「血は繋がっていないが、妹には間違いあるまい」
大学生となったハヅキは、ある商家の家庭教師をしていた。
そこで知り合ったのが、運命の女だったらしい。
「年上のくせに子供とひっくり返って遊んでいる、無邪気な人だった。妹と同じ名でリウヒといった」
スズが顔を上げた。
「お前はまたそんな菓子屑をつけて」
手で払ってやる。
「ジンからの旅人で、田舎の出身だと言った。が、教えてもらった二言は、どこの部族や村の言葉でもなかった」
「どんな言葉だ」
ハヅキの口から出たのは、聞いたこともない発音でさっぱり分からなかった。
「分かるか、スズ」
分からない、と首を振った。
「結局見つからずに、ティエンランの母の元へと帰ったが、母は宮廷に入った後だった。ほら、女王に子が生まれたからね」
「ああ、それは知っている。ヒスイという名の王子だろう」
たしか父も祝いの品を送っていたような記憶がある。
「リウヒは、ぼくの母の所に一人で身を寄せていたらしい。だが、その男が迎えにきて、仲良く去って行ったそうだ」
「そうか」
「ま、それもあって、ちょっと自棄になっていたのかもしれないな。ティエンランと違ってジンは歴史が深い。図書室の入室許可がほしいんだ。調べたいこともいっぱいあるしね」
にっこり笑ったハヅキだったが、カイドウ、リンドウはこの男を嫌った。
「何か思惑があって近づいているようにしか考えられません」
「どうもヤン・チャオさまにたかっているように見えます」
スズはどうでもよさそうだった。
ハヅキも今までの客人とは違い、スズに興味を示さなかった。
「そうは言うな」
お付き二人は不満そうに口を尖らせた。
「余りにも長期滞在するようならば、丁重に叩き出すから」
――あの人は。
ぬくぬくとした蒲団をぽふぽふといつものように叩きながら、スズが思い出す様に言った。
――想い人と一緒になっていたら、あんなに悲しそうな顔をしなかったのにね。
「ハヅキのことか」
こくりとスズが頷いた。
――見えないところから血を流しているみたいに、痛そうな顔をしている。
「そうか」
むしろ吹っ切れたような感じだったと思ったが、腹に一物二物抱えていれば面倒だ。
しばらくはリンドウかカイドウを張り付けるか。
それにしても、寝台の上で他の男を話題にされるのは気に入らない。
「気に入らないぞ、スズ」
噛み付くように口づけをすると、スズが笑った。
笑い声はその内に甘い鳴き声に変わった。
季節はゆったりと移ろい春が来た。
獣たちが穴倉から顔を出す時期だ。
わたしとスズも外へ出るようになった。
池に行きたがるスズと二人で手をつないで歩く。
衣をたなびかせてあるくスズは、本当に美しかった。
人々の目線と称賛を引き連れてわたしの隣をトホトホと歩く。
池のほとりにくると、スズはしゃがんだ。
魚たちが寄ってくる。しかしその中に主はいなかった。
――黒いのがいない。
「そうだな」
庭師を呼んだ。聞けば冬をこせずに死んだらしい。
「スズ。もうあの黒い鯉はいないのだそうだ」
――どうして。
「死んだ」
スズは黙って池を見ている。その目から涙がポロポロと溢れた。
憎き敵に、なにか通じるものがあったのだろうか。敵だからこそ。
しゃがんだままそっと手を合わせた。
初めて見る死者への追悼だった。
「スズ。おいで」
抱き上げると、嗚咽を上げた。
――もっと遊びたかったのに。
「そうだな」
気分を変えてやる為に厩に行った。
「少し馬を走らそうか」
そのまま城を出て、城下を抜けた。
――どこへいくの?
「どこへでも」
目的もなく走らせ、小高い丘に登った。
燃えるような太陽が西の果てへと沈んでゆく。
馬を止めてしばらく二人で眺めていた。
スズはわたしの胸に顔を預けたままじっとしている。
――あのね。
「どうした」
――黒いのはきっと、あそこまで泳いで消えたの。だから、また新しく反対側から生まれてくる。
「太陽信仰か。物知りだな、スズは」
――もし、あなたが死んだら、西の果てで待っていて。
悲しいほど切実な声でスズはそう言った。
――あたしが死んだら、必ずあそこで待っているから。だから、
「それ以上は言うな」
スズの言葉を己の口で封じた。
その先へ歩もうとするな。急いて転がろうとするな。
まだ、今は。
多分わたしは怯えていたのだろう。このほんの少し先の未来に。
離れた唇から、スズは
――約束ね。
吐息のように囁いた。
太陽が消え、山際に茜の残滓が残る。
やけに目に沁みた。