蚊
ぶんぶん飛ぶのが蜂ならば、ぷんぷん飛ぶのが蚊である我である。
「ふっふふ、さぁて今年もそろそろ人間どもの血を吸いに出かけるとしようかのう」
我は蚊の女王にして蚊としては異例なことに何十年と生きているいわゆるところの特異個体。数年前に不意を突かれて冷凍庫に閉じ込められそこで何年か氷づけにされ、しかしどっこいなんとか生き延びてこの夏ようやく解き放たれたというわけである。
正直、自分でもよく生きていたと感心するし驚くしかない生命力である。
ただ何年もロクに栄養補給していないだけに回復は急務であった。普通の蚊のように血以外にも植物の蜜など吸って生きることも出来るのだがやはり栄養効率を考えれば一番に狙いたいのは動物の血でありそして飛んでいる我の眼科には真夏の夜の住宅街が広がっている。今宵、ここが狩り場となるわけだ。
「最初の獲物は……お?あそこの家の窓が少しだけ空いておるの。さっそく侵入じゃ」
思い立ったら迅速行動、我は羽を震わせターゲットに決めた家へと突入を敢行する。二階の一室の窓、網戸と網戸の隙間の僅かの合間に身をするりと滑らせ通り抜け難なく侵入成功し、しかしそこに人間の姿はなし。どうやら寝室とかではないらしい。
「探索開始じゃ」
なるべく音を立てぬよう、同時に不意打ちを喰らわぬよう警戒しながら飛んでいく。
最初の部屋から廊下に出るといきなり異臭を感じ取った。うっすらと白い煙も漂っている。
「うっ、これは……」
廊下を隅々まで見回し――見つけた。壁際に赤く輝きながらゆっくり渦巻き状に回転していく光源、蚊取り線香を。そこから放出される煙は触れるどころか接近するだけでも蚊には非常に効果抜群なのだが
「ぬるいのぉ。我を仕留めたくば最低でもこの廊下だけで二十は設置するべきじゃわ」
そんなことしたら火災報知器とかに引っかかりそうじゃが。そんなこと考えながら我はなんなく煙の効果範囲を華麗に避けて進んでいく。余裕がありすぎて板野サーカスじみた曲芸飛行まで誰に見せるでもないのに披露してしまったわ。
「くんくんくん、人間はこの部屋じゃな」
廊下を抜け、二酸化炭素感知能力とかそういうのを駆使してさっくり人間のいる部屋に入るとそこにはいたいた、ベッドの上ですやすや寝ているちびっこがいた。
「ではいただきまー――っは!?」
我は一直線ターゲットを突撃した、そのつもりじゃっただが間一髪のところで気づくとすっかり軌道を変えられていた。目の前には昆虫を誘引する光を放ちそしてバチバチと電気的な音を断続的に響かせるマシーンがある。まさか個人のお部屋の中にこんなものが設置されているとは想定外。
「誘蛾灯で虫をビリビリ一網打尽にするあれか!くっ、本能的に吸い寄せられる……!」
必至に理性を総動員し誘引効果から逃れようとするのだが体はなかなか言うことを聞かない。近づけば近づくほど電気の音は当然デカく聞こえだし心拍数はばくばくと急上昇。
あと数センチまで近づいてしかしどうしても体はそちらへ向かい
「もうダメか!?」
諦めかけたそのとき。我はTVでこういう文章が出たときがめちゃくちゃイラッとするのじゃがこの時ばかりはそんなご都合主義に感謝することとなった。
ぱん、というなにかが切れるような音と共に誘蛾灯の光が消えたのじゃ。誘蛾灯だけでない。見ると部屋の中にあるコンセントに接続するタイプの電化製品が軒並み待機状態のランプさえ消していた。
「停電か!!間一髪じゃ助かった!!」
この機を逃すわけにはいかぬ。我は全速力で飛翔しベッドに近づく。熟睡する人間の子供、その半袖から露出した腕にかぶりと噛みついてちゅーちゅーと血を吸い始め――
「今年も蚊に刺された子供全然いないみたいっすね先輩。全国規模で調べても5歳以下は一件も報告ないですよ」
ある医学系の研究所、昼休み中の雑談で後輩にそんな話を振られ防疫に詳しい先輩は「そうみたいだね」と冷やし中華をすすりながら頷いた。白衣にタレがびちゃびちゃ跳ねてシミになっているが午後からの仕事前にどうせ着替えるので気にしていない。
「やっぱりこれってのはあれなんすか?先輩が前に教えてくれたえーっと」
「人間の蚊に対する進化の兆し」
「そうそうそれそれ。具体的にどんな話だったっすかね」
一度話したことをもっかい説明するのを先輩は露骨に面倒くさがったが、後輩が柏餅をおごるとすぐにしゃべり出した。
「人間を一番殺してる生き物が蚊、っていうのは知ってる話だよな。人間が人間殺す話とかはまぁ別として」
「いろんなウイルス媒介しますからねモスキートさんは。ちょっとの水あればどこでも増えますし」
「そんな蚊に対して人間が対応して進化したって不思議な話じゃなかろうだろう?ここ数年、そんな進化したっぽい子供が世界中で増えてるのさ」
具体的には、と先輩はスマホをいじり論文を読み
「ざっくり言うと蚊が血を吸ってもかゆくならない」
「あらそれはいいことで」
「そして血を吸った蚊はその場で即死する」
「あーら過激」
「具体的な原理とかはまだ未解明なんだけどね。おかげでこれからの世の中、少なくとも人間の生活圏で蚊を見る機会は激減すると個人的には予想してる」
しみじみと語りながら先輩はそうなった時代に思いをはせる。暑気を洗い流す涼やかな夕方の風、縁側で居眠りするどこかの誰か。風鈴がちりんちりんと音を立てるその傍らにはしかし蚊取り線香の姿はどこにもなく、先輩は少しだけ寂しい気持ちになる。
蚊の女王ももちろんとっくに死んでいた。




