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風ノ巫女伝  作者: 草紙


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2/2

第一章 三保の海で、世界がひらく日

 三保の海は、春の匂いがしていた。


 冬の名残りを少しだけ残した風が、

 波の上を走ってくるたび、冷たさといっしょに、

 どこか甘いような、潮と松の匂いを運んでくる。


 東雲桃花は、裸足の足先を、

 砂に埋めたり、波に預けたりしながら、

 「きゃっ」「つめた」と笑い声を零していた。


 今日の桃花は、いつもの巫女装束ではない。

 父と母が「たまには、ただの子どもでいなさい」と言ってくれた休日だ。


 淡いクリーム色のワンピース。

 胸元には、小さく刺繍された花。

 黒髪は耳のあたりでゆるく結ばれ、

 風に煽られては、ぴょんぴょんと跳ねている。


(うみの色って、ふしぎ)


 桃花はしゃがみ込んで、水面をじっと見つめた。


 昼間の海は、青い。

 けれど青と一口に言っても、

 空の青と、波の青と、深いところの青は、全部違う。


 光が差せば、銀色の鱗みたいにきらきらするし、

 雲がかかれば、すぐに暗く沈んでしまう。


 ──でも、桃花には、もうひとつの色が見えていた。


 波打ち際を歩く人のまわりに、

 薄い黄色がふわふわと揺れている。

 あれは「今日、楽しいなぁ」という気持ちの色。


 遠くで釣りをしているおじさんの背中には、

 うっすらと焦げ茶色のもやが立ち上っていた。

 きっと、「仕事に行きたくない」というぼやきの色。


 誰かの心が、大きく揺れ動いたとき、

 桃花の目には、そのひとの輪郭から、

 淡い色がにじむように見えるのだ。


 それが、桃花が生まれつき持っている「視えてしまうもの」。


 いい色もあれば、悪い色もある。

 桃花は、その意味を全部理解しているわけではない。

 ただ、「きれいだな」と思う色と、

 「さわっちゃいけない」と本能で感じる色があるだけだ。


 ──今日は、きれいな色が多い。


 海辺にいるひとたちの心は、おおむね穏やかで、

 柔らかな色が多かった。


 だから、桃花も嬉しくて、

 波と追いかけっこをしていたのだけれど──


 ふと、遠くに、ひとつだけ「さみしい色」が見えた。


 薄い灰色が、ぽつんと砂浜に座っている。


 それは、人影のかたちをしていた。


 


  ◆ ◆ ◆


 その女の子は、砂浜の上にぺたりと座り込んでいた。


 膝を抱えこみ、首だけを上げて、

 まぶしそうに海を見つめている。


 横には、スケッチブックと色鉛筆の箱。

 大きな丸い眼鏡。

 三つ編みにしたおさげが、風に揺れていた。


 春日珠姫は、今日、この海の絵を描こうと決めていた。


 家を出るとき、お母さんが言った。


「たまちゃん、今日の海、どんな色してるか、いっぱい見ておいで」


 それが嬉しくて、

 お気に入りのスケッチブックを抱えてここまで来た。


 けれど──いざ描こうとすると、手が止まってしまった。


 波は、じっとしていてくれない。

 こっちに来たかと思えば、すぐにまた沖へ帰っていく。

 白い波頭も、同じ形をしてくれない。


 描いているうちに、目の前の海と、紙の上の海が、

 ぜんぜん違うものに見えてきてしまう。


(むずかしい……)


 鉛筆を握った右手が、だんだん汗ばんできた。

 眼鏡の奥の視界が滲んでいく。


(きれいだな、とは思うのに……

 わたしには、ちゃんと描けない……)


 胸の中に、小さな空白がある。


 お父さんもお母さんも優しい。

 家には、甘えん坊の猫もいる。

 学校にも、話せる子はいる。


 それでも、ときどき、

 誰とも繋がっていないような気持ちになる瞬間があった。


 海を見ているときの、

 どうしようもない「ひとりぼっち感」。


 それを埋めたくて、

 珠姫はスケッチブックを開いたはずなのに──


(やっぱり、わたしには、むいてないのかな……)


 細く息を吐いたときだった。


「……ねぇ」


 頭の上から、小さな声が降ってきた。


 


  ◆ ◆ ◆


 桃花は、灰色のかたまりに向かって歩いていた。


 近づくにつれて、それが自分と同じくらいの背丈の女の子だとわかる。

 スケッチブックをぎゅっと抱きしめ、

 眉尻をしゅんと下げた横顔は、とても寂しそうだった。


(きれいな海なのに、なんでかな)


 灰色は、嫌いな色ではない。

 ただ、「さみしい」「わからない」「どうしたらいいのかわからない」が

 ぐるぐる混ざったときに、よく出る色だと桃花は知っている。


 放っておいたら、

 その色の中で、女の子が沈んでしまいそうで──


 桃花は、そっと声をかけた。


「ねぇ、だいじょうぶ?」


 女の子がびくっと肩を震わせて振り向いた。

 丸眼鏡の奥の瞳が、まん丸になる。


「……え?」


 近くで見ると、

 長い睫毛と、柔らかそうな頬。

 ほんのり日焼けした肌。

 風に揺れるおさげが、ちょっとだけ跳ねている。


 桃花は、女の子のまわりをふわりと包む灰色の中に、

 少しだけあたたかい色が混ざり始めているのを見た。


「ここ、すわってもいい?」


「あ……う、うん。どうぞ……」


 女の子の返事は少し頼りないけれど、

 ちゃんと隣にスペースを空けてくれた。


 桃花はそこに膝を折って座り、

 スケッチブックを覗き込んだ。


「わぁ……」


 そこには、何度も描き直された海があった。


 青。

 もっと濃い青。

 灰色がかった青。


 重ね塗りしたところは、

 紙が少しくしゃりとよれている。


「すごいね」


「……え?」


「ちゃんと“うごいてる海”になってるよ。

 ここ、ほら」


 桃花は、波線の重なったところを指先でそっとなぞった。


「おんなじ線じゃないから、

 ほんとうの波みたい。

 ぜんぶ同じだったら、つまんないよ」


 女の子の胸のあたりで、灰色が少し薄くなった。


「でも……べつべつで、ぐちゃぐちゃで……」


「ぐちゃぐちゃでも、きれいだよ」


 桃花は、迷いなく言った。


「あのね」


 自分でも、どうしてそんなことを言ったのかわからない。

 けれど、口からこぼれた言葉は、とても正直だった。


「わたし、こっちの海より、こっちの海もすきだよ」


 指差した方向には、本物の海。

 そして、スケッチブックの上の海。


 女の子は、ぽかんと口を開けた。


「……ほんとうに?」


「ほんとう」


 桃花は、にこっと笑った。

 その笑顔に、女の子のまわりの色が

 ほんの少しだけ、桃色に変わった。


(あ。きれい)


 桃花の胸も、同じ色でぽっと温かくなった。


「わたし、桃花。東雲桃花」


「とうか……?」


「桃のお花の、桃花。

 あっちの神社のこなの」


 松林の向こうに見える小さな社を指さすと、

 女の子は「あ……」と声を漏らした。


「しの、のめ……?」


「し・の・の・め。ひがしのくもって書いて、しののめ」


 指で空中に字を書いて見せると、

 女の子はくすっと笑った。


 笑ったときの顔が、とても可愛かった。

 灰色は、ほとんど薄まっている。


「わたしは……春日珠姫かすが たまき


「かすが、たまき……」


 桃花はゆっくりと名前をなぞる。


「“珠姫”って、なんかすごい。

 たまのひめさま、みたい」


「な、なんか、はずかしい……」


 珠姫は耳まで赤くしてうつむいた。

 けれど、その照れくさささえ、

 柔らかなピンク色を生んでいる。


「たまきって呼んでいい?」


 桃花が尋ねると、

 珠姫は少し驚いたように目を見開き、それから小さくうなずいた。


「……うん」


 桃花の心の中で、

 何かが「カチッ」とはまったような感覚があった。


 言葉が先に出ていた。


「じゃあ、珠姫。きょうから、ともだちね」


 その瞬間だった。


 珠姫のまわりの世界が、

 すこしだけ色を変えた。


 


  ◆ ◆ ◆


 珠姫の視界には“色”なんて見えない。

 けれど、自分の胸の中で、何かが鮮やかに変わる瞬間は、

 ちゃんとわかった。


(ともだち……)


 口の中で、そっとその言葉を転がす。


 学校にも「友だち」と呼べる子はいる。

 一緒に遊んではくれるけれど、

 なんとなく「グループ」の枠の中にいるだけの感じで、

 自分だけが少し外側にいるような気もしていた。


 でも、この子は。

 さっき会ったばかりなのに、

 まるで前から知っていたような声で「ともだち」と言ってくれた。


(なんでだろ……)


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


 こみ上げてきたものを誤魔化すように、

 珠姫は無理やり明るい声を出した。


「じゃあ……桃花ちゃんも、わたしの“ともだち”」


「うん!」


 桃花の笑顔が、春の光みたいに弾ける。


「いっしょに、海はしろ!」


「えっ、でも、スケッチブック──」


「あとでも描けるよ。

 いまは、いっしょにはしるのがいい!」


 言い切られてしまって、

 珠姫は思わず笑ってしまった。


「……うん。じゃあ、はしる」


 スケッチブックをそっと砂の上に置き、

 色鉛筆の箱のふたをきちんと閉める。


 その横で、桃花はもう立ち上がって、

 裸足の足先を波にちょん、と浸していた。


「珠姫、はやくー!」


「ま、待ってよ、桃花ちゃん!」


 二人は砂浜を駆け出した。


 


  ◆ ◆ ◆


 砂が、足の裏に弾ける。

 波が、足首をひやっと攫っていく。

 跳ねた水しぶきが、頬と髪にちいさな宝石みたいに張り付いた。


 桃花は走りながら、ちらりと隣を見る。


 珠姫の頬は、さっきよりずっと赤くて、

 眼鏡の奥の瞳は、生き生きとしていた。


(よかった)


 胸の中で、きゅっと何かが結ばれる。


 灰色だった色は、

 もうほとんど見えない。


 代わりに、珠姫のまわりには、

 明るい桃色と、柔らかな黄色がにじんでいた。


 楽しいときの色。

 誰かと一緒にいるときの色。


 桃花は、自分の胸の中の色も、

 同じように温かいのを感じていた。


「桃花ちゃん、あぶないよ!」


 大きな波が押し寄せてきて、

 桃花の膝のあたりまで水が上がる。

 体が少しぐらりと揺れたところを、

 珠姫があわてて手を掴んだ。


「ありがと、珠姫」


 握られた手は、小さくて、でもちゃんと温かくて。

 その温度が、指先からまっすぐ心臓まで届く。


(あ……)


 桃花は、手を握られたまま、

 その感覚を確かめるように、きゅっと握り返した。


「これで、もうたおれない」


「わ、わたし、そんなに力ないよ……?」


「あるよ。珠姫のて、あったかいもん」


 そんなふうに言われて、

 珠姫はまた、耳まで真っ赤になった。


「桃花ちゃんのほうが、あったかいよ……」


 波の音が、ざざん、ざざんと二人の足元で繰り返される。


 遠くで、カモメの鳴き声。

 松林のほうからは、風に揺れる枝葉のざわめき。


 世界は同じ音を立てているのに、

 さっきまでと、まるで違う場所のように感じられた。


 


  ◆ ◆ ◆


 少し走って疲れた二人は、

 また砂浜に並んで座った。


 今度は、さっきよりもずっと近くに。


 肩と肩が、少しだけ触れるか触れないかの距離。

 そこに、やわらかい風が吹き抜ける。


「……こんどは、いっしょに絵かこうね」


 珠姫がぽつりと言った。


「うん」


「わたし、海うまく描けないから……

 桃花ちゃんがとなりにいてくれたら、

 もうちょっと、がんばれる気がするの」


「じゃあ、となりにいるね。

 なみをいっしょに見て、

 おそろいの海、かこう」


 桃花が言うと、

 珠姫の胸のあたりの色が、

 いちど、ふわっと明るくなった。


 それから、珠姫は少しだけ迷って──

 そっと、桃花の袖をつまんだ。


「……ねぇ、桃花ちゃん」


「なぁに?」


「きょう、友だちになってくれて、ありがと」


 その言葉に、桃花の胸の中でも、

 何かがはっきり形を持った気がした。


「わたしのほうこそ、ありがと。

 だって、珠姫がいなかったら、

 きょうの海、こんなにたのしくなかったもん」


 珠姫は、目尻をすこし濡らしながら笑った。


 


  ◆ ◆ ◆


 その日の夕方。

 家に帰った桃花は、

 父と母に、三保であったことを一生懸命話した。


「おともだちがね、えをかいててね、

 なみがむずかしいって、かなしくなってたの」


「ふむふむ」


 宗仁は腕を組み、

 いつもの落ち着いた顔のまま、相槌を打つ。


 紫苑はキッチンから、お茶を運びながら耳を傾けている。


「でもね、“それでもきれいだよ”って言ったら、

 えへへって笑ったの。

 そのこ、珠姫っていうんだよ」


「春日の娘さんかしらね」


 紫苑が顔をほころばせる。


「なんだ、もう友だちになったのか」


 宗仁の声は穏やかだけれど、

 どこか嬉しそうだった。


「うん。きょうからずっと、ともだち」


 桃花が胸を張ると、

 紫苑はお盆を置いて、桃花の髪を撫でた。


「よかったわね、桃花」


「うん」


 桃花は、ぱぁっと笑って、

 両親の顔を交互に見つめた。


 そのとき、宗仁はふと、

 桃花の目元をじっと見つめる。


「……どうしたの?」


 桃花が首をかしげると、宗仁は小さく笑った。


「いや。

 桃花の目の中に、

 海と空と、誰かが映ってるな、と思って」


「珠姫かな?」


「そうかもしれんな」


 宗仁は笑いながらも、

 心のどこかで静かに思った。


 ──この子はきっと、

 出逢った人の記憶で、瞳を満たしていくのだろう、と。


 やがて、その瞳が見つめるものの中に、

 もっと大きな色──

 人の欲望や、祈りや、闇までもが映る日が来るとしても。


 今日だけは、

 この穏やかな海の色と、

 新しい友だちの笑顔だけで、

 満たされていてほしいと願った。


 窓の外では、

 夕方の風が、三保の方角から吹いていた。


 その風は、

 幼いふたりを結びつけた海の匂いを、

 まだほんのりと運んでいた。


 そのことに気づいていたのは、

 この家の三人と、

 どこか高いところから見ていた誰かだけだった。


 ──これが、東雲桃花と春日珠姫。

 ふたりの「ずっと一緒」の最初の一日。


 物語は、まだ、春の入口。

 本当に大きな嵐が来るまでの、

 かけがえのない前日譚だった。

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