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とにかく親知らずを抜いたところが痛い

作者: 伏木 亜耶

田中雅人は32歳になっても、まだ自分の人生に確信を持てずにいた。中堅商社の営業部で働く彼は、いつも周囲の目を気にし、些細なことにも過剰に反応してしまう性格だった。同僚の女性からは「女々しい」と陰口を叩かれ、後輩からは「度胸がない」とせせら笑われ、上司の部長からは「決定力が薄い、もっと積極性を持て」と毎週のように叱責されていた。


そんな雅人が、ついに重い腰を上げて歯医者に向かったのは、左下の親知らずが耐え難いほど痛み出したからだった。長年放置していた虫歯が、ついに神経に達してしまったのだ。


「田中さん、この歯はもう保存できませんね。抜歯が必要です」


歯科医師の冷静な宣告に、雅人は青ざめた。注射も怖い、痛いのも嫌だ、でも痛みから解放されたい。そんな葛藤の末、彼は震える声で同意した。「わ、分かりました。お願いします」


麻酔の注射が歯茎に刺さる瞬間、雅人は目を固く閉じた。そして始まった抜歯の処置。メスで歯茎を切開し、歯を分割し、骨を削る音が頭蓋骨に響く。30分に及ぶ格闘の末、ようやく頑固な親知らずが抜け落ちた。


「お疲れ様でした。痛み止めを処方しますが、2、3日は腫れと痛みが続くと思います」


歯科医師の言葉通り、麻酔が切れ始めた夕方から、雅人の左頬は腫れ上がり、激痛が襲った。痛み止めを飲んでも効果は限定的で、夜も満足に眠れない。翌朝、鏡を見ると左頬がハムスターのように膨らんでいた。「うう、痛い。とにかく痛い」


会社に向かう電車の中でも、雅人はずっと頬を押さえていた。いつものように上司の機嫌や同僚の視線を気にする余裕など、まったくなかった。痛みが彼のすべての注意を独占していたのだ。


オフィスに到着した雅人は、まず給湯室で氷水を口に含んだ。冷たさが一瞬痛みを和らげてくれる。そんな彼の様子を見て、同僚の佐藤が声をかけてきた。「田中さん、顔が腫れてますけど大丈夫ですか?」「親知らずを抜いたんです。とにかく痛くて」


雅人の答えは簡潔だった。いつもなら「すみません、ご迷惑をおかけして」と謝罪から始まるところだが、痛みが彼の通常の反応パターンを封じていた。


そのとき、オフィスの窓の外で奇妙な光景が展開された。隣のビルの屋上から、巨大な触手のようなものがゆらゆらと立ち上がっていたのだ。他の同僚たちは慌てふためき、窓に駆け寄って騒ぎ始めた。「何あれ!?」「UFOかな?」「写真撮らなきゃ!」


しかし雅人は、頬を押さえたまま自席に座り続けていた。「田中さん、見てください!すごいことになってますよ!」佐藤に呼ばれても、雅人は振り返らずに答えた。「ああ、そうですか。とにかく親知らずを抜いたところが痛いんです」


その瞬間、不思議なことが起こった。隣のビルから立ち上がっていた触手が、まるで雅人の言葉に反応するかのように、するすると引っ込んでいったのだ。同僚たちが「あれ?消えちゃった」と困惑する中、雅人だけは氷水を口に含み続けていた。


午前中、営業部では重要な会議が予定されていた。大手メーカーとの新規契約についてプレゼンテーションを行う予定だったが、担当者の山田が突然の体調不良で欠席してしまった。部長の鈴木は慌てて代役を探していた。「田中、お前がやれ」


普段なら雅人は「え、私ですか?準備が不十分で、自信がありません」と辞退していたところだ。しかし、抜歯の痛みで頭がいっぱいの彼は、異なる反応を示した。「分かりました。とにかく親知らずを抜いたところが痛いんですが、やります」


彼の答えは簡潔で、迷いがなかった。そして会議室に向かう途中、またしても異常事態が発生した。エレベーターの中で、フロア表示パネルが突然異次元の文字で表示され始めたのだ。他の乗客たちはパニックに陥ったが、雅人は頬を押さえながら、まったく動じずに言った。「とにかく痛いんです。3階で止まってください」


すると、異次元文字は消え、エレベーターは正常に3階で停止した。


会議室には、大手メーカーの役員たちが待っていた。通常なら雅人は緊張で震えていたはずだが、親知らずの痛みが他のすべての感情を押しのけていた。「本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。田中と申します。実は昨日親知らずを抜きまして、とにかく痛いのですが、精一杯頑張らせていただきます」


雅人の率直な自己紹介に、相手方の役員たちは微笑んだ。彼らは雅人の正直さと、痛みをこらえながらも職務を遂行しようとする姿勢に好感を抱いた。


プレゼンテーションが始まると、雅人は痛みで集中力が削がれているにも関わらず、逆にいつもの過度な緊張がなくなっていることに気づいた。細かいことを気にする余裕がないため、要点だけを簡潔に話していた。「弊社の提案の核心は、こちらです」


雅人がスライドを指し示したとき、プロジェクターが突然異常な動作を始めた。映像が立体的に浮かび上がり、まるでホログラムのように空中に表示されたのだ。普通なら大騒ぎになるところだったが、雅人は頬を押さえながら淡々と続けた。「とにかく痛いのでシンプルに説明させていただきます。この技術により、御社の生産効率は30%向上します」


ホログラム映像は、まるで雅人の説明に合わせるかのように、データを立体的に表示し続けた。相手方の役員たちは、この革新的なプレゼンテーション技術に度肝を抜かれた。「素晴らしい技術ですね。これはどちらの会社の製品ですか?」


雅人は正直に答えた。「申し訳ございません。プロジェクターが故障しているようです。とにかく親知らずが痛くて、細かいことが気になりません。要点だけお伝えします」


この率直さが、逆に相手方の信頼を得ることになった。役員の一人が言った。「田中さん、あなたの会社は何か特別な技術を持っているのですね。ぜひ契約させていただきたい」


会議が終わると、鈴木部長は信じられない様子だった。「田中、どうやってあのホログラム技術を?」「分からないんです。とにかく親知らずを抜いたところが痛くて」


雅人の答えは相変わらず同じだった。そして午後になると、さらに奇妙な出来事が続いた。


昼休み、雅人は近くの公園で氷水を飲みながら痛み止めを服用していた。頬の腫れは引かず、痛みも続いていたが、不思議なことに朝よりも楽になっている気がした。そのとき、公園の池で異変が起こった。水面から巨大な泡がぼこぼこと立ち上がり、中から見たこともない魚のような生物が顔を出したのだ。周囲の人々は驚いて逃げ出したが、雅人はベンチに座ったまま、頬を押さえて言った。「とにかく痛いんです。静かにしてください」


すると、不思議な生物は水面に沈んでいき、池は元の静けさを取り戻した。


午後のオフィスでは、さらに驚くべき事態が待っていた。コンピューターのモニターに、次々と意味不明な画像が表示され始めたのだ。同僚たちは慌ててIT部門に連絡しようとしたが、雅人は冷静だった。「とにかく親知らずが痛いので、集中できません。普通に仕事をさせてください」


彼がキーボードに触れると、コンピューターは正常に戻った。そして画面には、なぜか今朝の契約に関する完璧な資料が表示されていた。資料の精度は雅人が普段作成するものを遥かに超えており、まるで未来の技術で作られたかのようだった。


夕方、雅人が帰宅する途中、地下鉄の駅で大きな騒動が起こった。電車が駅に到着しないまま30分以上が経過し、駅員も原因が分からずパニックになっていた。乗客たちがイライラし始める中、雅人は頬を押さえながらホームのベンチに座り、ぼそっとつぶやいた。「とにかく痛いんです。早く家に帰りたい」


その瞬間、電車が滑るように駅に滑り込んできた。しかもその電車は、通常の車両とは明らかに異なるデザインで、まるで未来から来たような流線型だった。「この電車、新型ですか?」乗客の一人が駅員に尋ねたが、駅員も首をかしげるばかりだった。


雅人は痛みをこらえながら電車に乗り込んだ。車内は信じられないほど静かで快適だった。そして、通常なら40分かかる自宅までの道のりを、わずか15分で到着してしまった。


帰宅した雅人は、鏡で自分の顔を確認した。腫れは少し引いてきたものの、まだ痛みは続いていた。痛み止めを飲んで、冷たいゼリーを口にしながら、今日一日の出来事を振り返った。奇妙な現象の数々。そのすべてが、自分が「とにかく親知らずを抜いたところが痛い」と言ったときに解決に向かっていた。偶然にしてはあまりにも不可解だった。


その夜、雅人は痛みで何度も目を覚ました。そのたびに氷嚢で頬を冷やし、痛み止めを服用した。そして朝を迎えると、今度は会社で更なる異常事態が待っていた。


オフィスビル全体の電源が突然落ち、エレベーターも止まってしまった。停電は周辺一帯に及んでいるようで、復旧の見込みは立たなかった。同僚たちは階段での移動を余儀なくされ、パソコンも使えない状況に困り果てていた。しかし雅人は、相変わらず頬を押さえながら、淡々とつぶやいた。「とにかく親知らずが痛いです。仕事をしたいのに」


すると、彼の席のパソコンだけが突然起動した。そして画面には、停電の原因と解決方法が詳細に表示されていた。さらに驚くべきことに、その情報は電力会社の技術者でも知り得ないような高度な内容だった。


雅人は、画面の指示に従って電話をかけた。「もしもし、電力会社ですか?田中と申します。とにかく親知らずが痛いのですが、停電の件でお電話しました。○○変電所の第3系統で絶縁不良が発生していませんか?」


電話の向こうで慌ただしい声が聞こえた。技術者が現場を確認すると、まさに雅人の指摘した箇所で問題が発見され、30分後には電力が復旧した。


雅人の不思議な能力は、次第に周囲の注目を集めるようになった。同僚の佐藤は、一連の出来事を目撃していて、雅人に直接尋ねた。「田中さん、最近何か特別な能力を身につけたんですか?」雅人は頬を押さえながら、困惑した表情で答えた。「特別なことは何も。ただ、とにかく親知らずを抜いたところが痛くて。痛み止めも効きが悪いし、夜も眠れません」


その週の金曜日、雅人の部署には緊急事態が降りかかった。重要な顧客からのクレームで、製品に致命的な欠陥があるという報告が入ったのだ。通常なら調査に数日かかるところだったが、雅人が資料を見た瞬間、問題の核心を見抜いた。「とにかく痛いので細かいことは分かりませんが、この部品の素材分析が間違っているように見えます」


彼の指摘は的確で、再検査の結果、実際に分析ミスが発覚した。しかもその分析技術は、一般的な商社の社員が知り得るレベルを遥かに超えていた。


部長の鈴木は、雅人を別室に呼んだ。「田中、最近のお前の活躍は目を見張るものがある。何か秘密があるのか?」「秘密というか、とにかく親知らずが痛いんです。それ以外は普通だと思うんですが」


鈴木部長は首をひねった。雅人の変化は明らかだった。以前の優柔不断で自信のない姿は影を潜め、代わりに的確な判断力と実行力を見せるようになっていた。しかし本人は、痛みのことしか考えていないようだった。


その日の午後、オフィスに見慣れない男性が現れた。50代と思われる眼鏡をかけた人物で、名刺には「東京理科大学 物理学部 教授 山本博士」とあった。「田中雅人さんですね?お話があります」


山本博士は、ここ数日間の異常現象について詳しく知っているようだった。「あなたの周りで起きている現象を調査しています。協力していただけませんか?」


雅人は頬を押さえながら答えた。「すみません、とにかく親知らずが痛くて、よく分からないんです。どんな現象でしょうか?」


山本博士は驚いた表情を浮かべた。「ご本人が一番よく知っているはずですが…。隣のビルに出現した触手、地下鉄の未来的な車両、停電の即座の解決。すべてあなたが関わっています」


雅人は記憶を辿った。確かにそんなことがあったような気がするが、痛みで頭がいっぱいで、詳しく覚えていなかった。「私が何かしたんでしょうか?とにかく痛くて、他のことを考える余裕がないんです」


山本博士は興味深そうに雅人を観察した。「もしかすると、それこそが鍵なのかもしれません。詳しく調べさせていただけませんか?」


翌日、雅人は山本博士の研究室を訪れた。そこには高度な計測機器が並んでいた。「まず、脳波を測定させてください」


検査の結果は驚くべきものだった。雅人の脳波パターンは、通常の人間とは明らかに異なっていた。特に痛みを感じているときの波形は、これまで観測されたことがない独特のパターンを示していた。「興味深いですね。痛みによって通常の思考パターンが抑制され、代わりに何らかの潜在能力が活性化している可能性があります」


山本博士の説明を聞いても、雅人には理解できなかった。「とにかく痛いんです。いつ治るんでしょうか?」


その後の一週間、雅人の周りでは更に奇妙な出来事が続いた。会社のコンピュータシステムが突然高度なAIのような機能を示したり、故障した機械が彼の近くで自然に修復されたり、複雑な数学的問題が頭の中に自動的に解答として浮かんだりした。しかし雅人本人は、相変わらず親知らずの痛みにだけ関心があった。「とにかく痛いです。この痛みさえなくなれば、他に何も望みません」


山本博士は、連日の観察と実験を通じて、仮説を立てていた。「田中さん、あなたの能力の源は、実は痛みそのものではないかもしれません」「どういうことでしょうか?」「痛みによって、普段の雑念や不安が抑制され、意識が純粋な状態になっている。その状態で、あなたは問題の本質を直感的に把握し、最適解を無意識に導き出している可能性があります」


雅人は首をかしげた。難しい理論よりも、痛み止めの方がありがたかった。ところが、その日の夜、決定的な出来事が起こった。


夜中の2時頃、雅人は激痛で目を覚ました。痛み止めを飲もうとしたとき、鏡に映った自分の姿を見て驚いた。左頬の腫れがほとんど引いていたのだ。そして痛みも、これまでとは質が違っていた。鋭い痛みではなく、鈍い違和感程度になっていた。「あれ?治ってきてる?」


翌朝、会社に行くと、同僚たちの様子が変わっていた。いつものように雅人に注目しているが、何か期待するような目で見ていた。「田中さん、今日も何かすごいこと起こるんですか?」佐藤の質問に、雅人は困った。「すみません、今日は痛みが楽になって…特に何も」


その日、オフィスでは何も異常なことは起こらなかった。コンピュータも正常に動作し、プレゼンテーションも普通のプロジェクターで行われた。雅人の判断力も、確かに以前より向上していたが、超人的なレベルではなかった。


山本博士からの連絡で、雅人は再び研究室を訪れた。「痛みが軽減されるとともに、異常な脳波パターンも弱くなっています」検査結果を見ながら、山本博士は説明した。「あなたの場合、強い痛みが意識の焦点を単一化し、通常の思考の制限を外していたのです。そして『とにかく痛い』という一点にしか注意を向けられない状態で、問題解決に対する直感的な能力が最大限に発揮されていました」


雅人にとって、これは複雑な気持ちだった。痛みが治ることは嬉しいが、同時に自分の特別な能力も失われつつあることを意味していた。


完全に痛みが引いた2週間後、雅人は自分の変化に気づいた。超人的な能力は失われたが、以前の優柔不断で自信のない性格も変わっていた。「田中、最近のお前は別人のようだな」鈴木部長の言葉通り、雅人は確実に変わっていた。細かいことを気にしすぎる癖は残っていたが、重要な判断を下すときの迷いは格段に少なくなっていた。


「痛みで他のことを考えられなかった期間に、自分の本当に大切なものが見えたような気がします」山本博士との最後の面談で、雅人はそう話した。「興味深いことに、あなたの脳波パターンは完全に元に戻ったわけではありません。痛みによって一度活性化された能力の一部が、恒常的に残っているようです」


それから雅人の生活は、劇的ではないが着実に改善していった。仕事では的確な判断を下すことが増え、同僚からの信頼も厚くなった。女性の同僚からも「最近、頼りがいが出てきましたね」と言われるようになった。


親知らずを抜いてから2か月後、雅人に大きなチャンスが訪れた。新規事業部の立ち上げメンバーに選ばれたのだ。「田中、お前なら任せられる」部長の言葉に、以前の雅人なら「本当に私で大丈夫でしょうか?」と不安を口にしていただろう。しかし今の雅人は違った。「ありがとうございます。精一杯頑張ります」シンプルで力強い返答だった。


新規事業部での仕事は困難の連続だった。しかし雅人は、痛みの期間に培った集中力と直感的な判断力を活かして、一つ一つの問題をクリアしていった。もちろん、以前のような超人的な能力はもうなかったが、代わりに地に足のついた実力を発揮していた。


ある日、プロジェクトで行き詰まったとき、雅人はふと思い出した。「そういえば、とにかく痛いって言ってたときは、複雑なことを考えずに済んでたな」彼は意図的に思考をシンプルにし、問題の核心だけに焦点を当てた。すると、意外にも解決策が見えてきた。痛みは去ったが、その期間に学んだ思考法は残っていたのだ。


半年後、雅人の新規事業部は会社で最も注目されるプロジェクトとなっていた。彼のリーダーシップの下、チームは次々と困難を乗り越えていた。「田中さんって、前はもっとオドオドしてませんでしたっけ?」新入社員の質問に、古株の佐藤が答えた。「親知らずを抜いてからかな、変わったのは。あの時期は大変そうだったけど、結果的には良い転機になったみたいだね」


雅人自身も、あの痛みの期間を振り返って思うことがあった。激痛によって、普段気にしていた些細なことがどうでもよくなった。そのおかげで、本当に重要なことだけに意識を向けることができた。そして何より、痛みをこらえながらも仕事を続けた経験が、自分に対する確信を与えてくれた。


1年後、山本博士から久しぶりに連絡があった。「田中さんの事例を論文にまとめました。『強制的注意集中による潜在能力覚醒の一例』というタイトルです」


研究の結果、雅人のケースは極めて稀な現象だったことが判明した。強い痛みによって注意が一点に集中し、普段の思考パターンが強制的に変更された結果、潜在的な能力が一時的に覚醒したのだ。「ただし、最も重要なのは、その期間に獲得した新しい思考パターンが、痛みが去った後も部分的に保持されたことです」


山本博士の説明によれば、雅人は痛みによって偶然にも、高度な集中状態を体験した。そしてその体験が、彼の脳に新しい神経回路を形成したのだという。「つまり、私が変わったのは偶然だったということですか?」「偶然の要素もありますが、痛みに負けずに日常を続けたあなたの意志力も重要な要因でした」


2年後、雅人は新規事業部の部長に昇進していた。彼の部署は会社でも最も成果を上げる部門として知られていた。昇進祝いの席で、同僚の一人が冗談めかして言った。「田中部長、また親知らずを抜いたら、もっとすごくなるんじゃないですか?」雅人は笑いながら答えた。「勘弁してください。あの痛みはもう十分です」


しかし心の中では、あの痛みの期間に感謝していた。もしあの時、痛みを理由に会社を休んでいたら、今の自分はなかっただろう。


ある日、雅人は山本博士から興味深い報告を受けた。「田中さん、あの時の異常現象について、ついに真相が判明しました」博士の研究によれば、雅人の周りで起きた超常現象は、実は高度な科学技術の産物だったのだ。「隣のビルの触手、地下鉄の未来的車両、ホログラムプレゼンテーション。これらはすべて、極秘の実験プロジェクトの一環でした」


政府の研究機関が、都市部で新技術のテストを行っていたのだが、雅人の特異な脳波パターンが、これらの技術と偶然共鳴してしまったのだという。「あなたが『とにかく痛い』と言うとき、脳から発せられる特殊な周波数が、実験装置の制御信号と干渉していました。結果として、あなたの無意識の要求に応じて技術が作動していたのです」


つまり、雅人が「静かにしてください」と言えば触手が引っ込み、「早く帰りたい」と言えば高速電車が現れ、「仕事をしたい」と言えばコンピューターが復旧したのは、すべて科学的な現象だったのだ。「では、私の判断力の向上も?」「それは純粋にあなた自身の能力です。痛みによって集中力が高まり、直感的思考が活性化された結果です」


雅人は安堵した。自分の成長は、超常現象によるものではなく、苦痛を乗り越えた結果だったのだ。


3年後、雅人は会社の取締役に就任していた。彼の下で働く部下たちは、彼のリーダーシップスタイルを高く評価していた。「田中取締役は、どんなに複雑な問題でも、本質を見抜くのが上手いですね」部下の一人がそう評価した通り、雅人は物事をシンプルに捉える能力に長けていた。それは、痛みによって強制的に思考が単純化された経験から学んだものだった。


ある日、新入社員の研修で講師を務めることになった雅人は、自分の経験を話すことにした。「私は32歳のとき、親知らずを抜きました。その痛みは想像を絶するものでしたが、結果的に私の人生を変える転機となりました」聴衆の新入社員たちは、興味深そうに耳を傾けた。


「痛みによって、普段気にしていた細かいことが気にならなくなりました。同僚の目線、上司の機嫌、失敗への恐れ。それらすべてが、痛みの前では些細なことでした」雅人は続けた。「そのとき学んだのは、本当に重要なことは意外に少ないということです。そして、集中すべきポイントを間違えなければ、多くの問題は解決できるということです」


新入社員の一人が手を挙げた。「田中取締役、でも痛みがなくなったら、また元の性格に戻ったりしませんでしたか?」雅人は苦笑いした。「実は、痛みが完全に引いた直後は少し心配でした。『また優柔不断な自分に戻るのかな』って」


「でも大丈夫でした。痛みの期間中に身につけた『本質に集中する』という習慣は、痛みがなくなっても続いたんです。まあ、相変わらず細かいことは気になりますけどね」会場に笑いが起こった。


5年後、雅人は独立して自分の会社を立ち上げていた。「シンプルソリューションズ株式会社」という社名の通り、複雑な問題をシンプルに解決することを専門とするコンサルティング会社だった。会社のモットーは「本質に集中せよ」。雅人が親知らずの痛みの中で学んだ教訓が、ビジネス哲学となっていた。


山本博士も、雅人の成功を祝福してくれた。「あなたの事例は、逆境がいかに人を成長させるかの素晴らしい例です。論文は国際的に注目され、多くの研究者に影響を与えています」博士の研究によれば、強制的注意集中による能力覚醒は、適切な条件が揃えば再現可能だという。ただし、雅人のような劇的な変化は極めて稀なケースだった。


「でも博士、私みたいに親知らずを抜いた人は世界中にいるのに、なぜ私だけに?」雅人が疑問を口にすると、博士は笑いながら答えた。「実は、政府の極秘実験エリアの真上で働いていて、かつ親知らずの激痛で特殊な脳波を出していた人というのは、統計上ほぼあり得ない偶然なんです」


「つまり、運が良すぎたということですか?」「運と言えば運ですが、最も重要なのは、困難な状況でも諦めずに前進し続けることですね」雅人は、自分の経験を通じてそう結論づけていた。


10年後、雅人は業界で知られる経営者となっていた。彼の会社は急成長を続け、多くの企業から問題解決のアドバイスを求められていた。ある日、雅人は古いアルバムを見返していて、親知らずを抜く前の自分の写真を見つけた。そこには、不安そうで自信のない表情の男性が写っていた。


「あの時の痛みがなかったら、今の私はいなかった」雅人は心からそう思っていた。痛みは辛い経験だったが、それがなければ自分の潜在能力に気づくことはなかっただろう。妻となった元同僚の佐藤(旧姓)は、夫の変化を一番近くで見てきた人だった。


「あなたが変わったのは、痛みのおかげじゃない。痛みに負けなかったからよ」彼女の言葉は的確だった。多くの人は痛みや困難に直面すると逃げ出してしまう。しかし雅人は、どんなに痛くても日常を続け、責任を果たそうとした。その姿勢こそが、真の成長をもたらしたのだ。


雅人の会社では、新人研修の最初に必ず「親知らずの話」が語られるようになった。それは単なる武勇伝ではなく、困難に立ち向かうことの重要性を教える寓話として機能していた。「困難は避けられないものです。しかし、その困難にどう向き合うかで、その後の人生が決まります」


雅人の講演を聞いた多くのビジネスパーソンが、自分なりの「親知らず体験」を見つけ、それを乗り越える力を身につけていった。山本博士の研究も発展を続けており、「田中現象」として学会でも知られるようになった。強制的注意集中によって潜在能力を引き出す技術の研究は、医療やスポーツの分野でも応用されていた。


「でも、あの政府の極秘実験って、結局何だったんでしょう?」ある日、雅人が博士に尋ねると、博士は苦笑いした。「実は『次世代都市インフラ実証実験』という名目でしたが、要するに『もしもの時の都市防衛システム』のテストだったようです。触手はビル間通信アンテナ、未来電車は緊急時高速輸送システム、ホログラムは情報伝達システム…といった具合に」


「なるほど、それで私の『とにかく痛い』という脳波が制御信号と共鳴して」「そういうことです。ただし、実験は私の論文発表後に中止されました。『民間人の脳波で制御されるシステムは危険すぎる』という判断だったようです」


雅人は笑った。「私の親知らずが国家機密を暴いたということですね」「ある意味そうかもしれませんね。でも、あなたが得たものの方が遥かに価値があったと思います」


15年後、雅人は50歳を目前にしていた。彼の会社は国際的に展開し、世界中の企業から問題解決の依頼が舞い込んでいた。ある日、歯の定期検診で歯科医院を訪れた雅人は、担当医師から興味深い話を聞いた。


「田中さんの親知らずの跡、とてもきれいに治癒していますね。当時のカルテを見ると、相当な大手術だったようですが」雅人は微笑んだ。あの時の激痛は今でも鮮明に覚えているが、それはもはや苦い思い出ではなく、貴重な財産だった。


「先生、もし今度親知らずを抜くことがあったら、痛み止めは少なめでお願いします」「え?なぜですか?」「痛みから学ぶことも多いので」医師は困惑した表情を浮かべたが、雅人は本気だった。もちろん、積極的に痛みを求めるわけではないが、困難から逃げない姿勢は失いたくなかった。


帰り道、雅人は空を見上げて深呼吸した。あの時、「とにかく親知らずを抜いたところが痛い」と言い続けていた32歳の自分に、今なら声をかけることができる。「その痛みは無駄じゃない。きっと君を強くしてくれる」


雅人が62歳になった年、彼は自分の半生を綴った自伝を出版した。『とにかく親知らずを抜いたところが痛い~些細な痛みから始まった人生の転機~』というタイトルの本は、多くの読者に勇気を与えた。特に、現在困難に直面している人々からの反響が大きかった。


「私も今、辛い状況にありますが、田中さんの本を読んで希望が見えました」「小さなことで悩んでいた自分が恥ずかしくなりました」「痛みや困難の意味を理解できました」そんな感想が数多く寄せられた。


雅人は講演会でよく話した。「私の人生を変えたのは、親知らずの痛みではありません。痛みに向き合い、それでも前進し続けた自分の意志です。皆さんにも、きっとそんな力があります」


最後の章で、雅人は現在の心境を綴った。「あの時の激痛は、確かに辛い体験でした。しかし今思えば、それは人生からの贈り物だったのかもしれません。痛みが教えてくれたのは、本当に大切なものを見極める目と、困難に立ち向かう勇気でした。


些細なことに悩んでいる時間があるなら、本当に重要なことに集中しなさい。そして、どんなに痛くても、辛くても、自分の責任は果たしなさい。その先に、必ず新しい自分が待っています。『とにかく痛い』という単純な言葉の向こう側に、実は人生の真実が隠されていたのです」


雅人の物語は、多くの人に愛され続けている。それは単なるサクセスストーリーではなく、誰にでも起こり得る日常の中に潜む成長の可能性を描いた物語だからだ。親知らずを抜いた痛みから始まった奇妙な1か月は、一人の男性の人生を根底から変えた。そしてその変化は、痛みが去った後も永続的に続いていた。


些細に見える出来事が、実は人生最大の転機となり得る。雅人の体験は、そのことを私たちに教えてくれる。そして今日も、世界のどこかで親知らずを抜いた人が、「とにかく痛い」と呟いているかもしれない。もしかすると、その人の人生も、これから大きく変わるのかもしれない。


ちなみに、山本博士の最新の研究によると、「強制的注意集中状態」は親知らずの抜歯以外でも発生する可能性があるという。ひどい二日酔い、激しい筋肉痛、重度の花粉症など、「とにかく○○が辛い」という状態になれば、理論上は同様の効果が期待できるらしい。


ただし博士は警告する。「効果を期待して意図的に痛みや不快感を求めるのは危険です。雅人さんのケースが特別だったのは、痛みから逃げずに日常を続けたことです」


そう、痛みの向こう側には、新しい可能性が待っている。でも大切なのは痛みそのものではなく、それに立ち向かう心なのだ。


今でも雅人は、歯が痛くなると少しだけわくわくしてしまう自分がいる。「また何か新しい発見があるかも」なんて思ってしまうのだ。妻の佐藤は、そんな夫を見て苦笑いする。「あなたって、本当に変わってるわね」


「とにかく親知らずを抜いたところが痛かったからね」雅人は今でも、困ったときには決まってこの言葉を口にする。それは彼にとって、困難に立ち向かう呪文のようなものになっているのだった。

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