小公爵様、就寝のお時間です ~没落令嬢、不眠の幼馴染の睡眠記録係になる~
ヒーローはきっちり1から手順を踏むタイプではないので、苦手な方はご注意ください。
くるくるの黒い巻き毛が、モーブ色の地味なドレスの肩で跳ねた。
公爵夫人の侍女たる伯爵令嬢アリシア・コベットの黒い瞳は、何も見逃すまいと絨毯に残る丸い足跡をブーツで踏みながら追う。
普段大人しい彼女が逃げ出すのはここに来て三年、初めてのことだ。
「待って、いい子だから……っ」
お屋敷の端から端まで駆けたせいで喉が喘ぐ。
以前は平気で弟妹を掴まえていたのに、と考えた時、最高級の羽箒に似たふかふかの尾が揺れながら、廊下の奥、分厚い扉の中へ消えていくのが見えた。
行き止まりだ。
22という年齢には幼く見える顔を輝かせ、アリシアは駆ける。
主人から「近づかないように」と言われていた部屋だと気付く余裕もなく、窓もない部屋の大半を占めるのが天蓋付きの豪奢なベッドで、客用寝室にしては奇妙だと思うこともなかった。
四方に降ろされた分厚い天蓋の隙間からするりと内側に入り込む尾を求めて、ゴブラン織りと薄いシフォンを搔き分ける。
暗がりの中振り返ったペルシャ猫はやっと追いかけっこに飽きたのか、ちょこんと座った。白い毛並みを羽毛布団と同化させながら、灰色の目でじっと見つめてくる。
「さあ、奥様がお待ちかねですよ」
身を乗り出し両手を伸ばしたアリシアだったが、突然その体が何者かに布団に沈められた――ふわふわに埋もれて気付かなかった、細いけれど筋ばった両腕に背中を抱き寄せられて、暖かい胸板に押し付けられる。
どこか甘い香りがして、巻き毛をふわふわと撫でられた。
頭をもたげて目を瞬けば、繊細な金の睫毛に縁どられた薄い菫色の瞳がぼんやりと笑んでいた。
「おはよう、僕の可愛い奥さん」
女性と見紛う顔立ちに相応しい、細く柔らかな声が響いて――吐息が耳をかすめた瞬間アリシアの右手が唸り、パン! という小気味よい音がそれらをかき消した。
***
寝間着から白いシャツとベージュのスーツに着替えた線の細い青年が、公爵夫人の隣で硬直するアリシアに、深く頭を下げる。
「先ほどは大変失礼いたしました。言い訳というか説明を申し上げると……寝ぼけていて」
顔を上げれば朝日を溶かしたような金の髪が揺れた。ばつが悪そうな白皙の頬には赤みが残っている。
「……私も大変ご無礼を」
冷静さを取り戻したアリシアが何とか返答してソファに腰を下ろすと、華やかな美貌の夫人は膝で撫で回していた愛猫を降ろした。
「こちらこそごめんなさいね。息子は叩かれて当然のことをしたもの。私の親友、あなたの亡きお母様に申し訳が立たないわ」
アリシアは夫人と真向かいに座った青年を見比べる。印象は違えどよく似た顔立ち。
記憶よりは薄いけれど穏やかな菫色の瞳と、その下のより黒くなったクマ。
――公爵家の長男、隣国に留学中のはずの、同い年で幼馴染のフィルだ。
アリシアの母とローランド王国有数の名家でもあるドーソン公爵家の夫人は学生時代からの親友で、結婚後も親交があった。その縁で彼が寄宿学校に入るまではよく遊び、以降も長男長女ということもあり母の葬儀や留学前の挨拶など節目には顔を会わせていた。
懐かしく思うと同時に、今まで屋敷に彼の気配を感じなかったという事実に動揺する。
「奥様、ご令息は留学中と伺ってましたが……」
「息子の友人が、不眠で倒れたと手紙をくれたの。だからひと月前に呼び戻して、密かに療養させていたのよ。最低限の使用人にだけ知らせてね」
ティーカップを置いたメイド長が心得たように席を外し、応接間に三人だけになると、アリシアは震える唇を開いた。
「療養中だなんて本当に、申し訳ありません。
それに小公爵様が『奥さん』と。もしご結婚されているなら重ねてお詫びしなければ。それから奥様の目に留まらないうちに、図々しいですが次の就職先の紹介状を……」
アリシアの実家・コベット伯爵家は、領地の度重なる自然災害のせいで、端的に言って貧乏だ。女学校は出たが、社交界デビューでなく将来の賃金のため。今も仕送りをして弟妹たちの教育費に充てている。
公爵夫人は好意で雇ってくれた上に何かと気にかけてくれるが、いつまでも甘えてはいられない。
結婚を知らなかったことは寂しいが、やはり部外者なのだ。今がその機会なのかもしれない。
そんな決意を込めたアリシアの言葉に、公爵夫人は笑い出した。
「まさか、婚約者だって決まってないのよ。でもそうね、そういうことなら――」
侯爵夫人は何事か得心したように頷くと、青い瞳でひたと彼女を見据えた。
「私はあなたの自立を応援したいと思っていたわ。でも」
「は、はい」
「少々お転婆だけれど、女学校の成績も優秀だし家族思いのいい子だわ。おまけに幼馴染で、息子の秘密を知ってしまった」
「知ってしまった?」
「ええそうよ。この子の瞳、昔はもっと濃い紫だったでしょう?
紫は王族にまれに現れる未来視――王女殿下だったお祖母様譲りの予言の力の証なの」
予言、と繰り返しつつ戸惑っていると、夫人は微笑んだ。
「そうね……予言の力のせいで悪夢を見て、力を使い切ってしまえば瞳は本来の色に戻る、と言ったら信じてもらえるかしら」
確かに公爵夫妻も彼の弟も、青い瞳だ。それに出会った頃の彼は分厚い前髪とつば広の帽子で目元を隠していた。子供の素直さでそういうものだと思い込んでいた。
「力を知るのは家族と一部の王族だけ。色々あって不安に思ったから、身の安全も考えて留学させていたの。
でも今は何より息子の健康が心配。
……それでね、今朝のことで確信したわ。昔からあなたがいるとよく寝られたのよ。人助けと思って息子の妻になってくれないかしら?」
アリシアは思わず見返したが、夫人の眼は真剣そのものだった。
「まさか添い寝を……?」
「その……僕は予言を、夢で視るのです」
フィルが躊躇いながら口を開けば、アリシアの顔は蒼白になった。
***
「小公爵様、おはようございます。朝ですよ」
アリシアは天蓋の内側から聞こえる寝息の変化に、テーブルに並べたカップふたつにハーブティーを注ぎ、ランプを灯した。
一か月前の運命の日。あの後、ドレスの採寸と新しい部屋の用意がされ、諸々の書類の記入と瞬く間に婚約、結婚と話が進んだ。数日後には仮の妻になって今に至る。
「ふぁ……おはようアリシア」
欠伸交じりの声と共に天蓋が細い指で開かれる。
純白のふかふかから体を起こしたフィルが微笑み、カップに口を付ける姿は妖精のよう。
数年ぶりの再会にアリシアも当初こそどう接すればと戸惑ったが、穏やかな様子は変わらず、程なく緊張は解けていった。
アリシアは早速、クマの濃さ、布団のずれ具合、額に手を当て体温チェックして記録用ノートに書きこむ。
天気は晴れ、室温22度、湿度そこそこ、睡眠時間……朝3時から7時まで。昨夜の寝言……「なし」。顔色、昨日よりは良さそう。
「今日もよく寝れたよ、ありがとう」
成長につれ落ち着いていた不眠はここ3カ月で急激に悪化し、2時間続けて寝られたら幸運という状態。アリシアとの再会時も疲労の限界だったそうだ。
それが見守りを始めてから少し長くなった。呻き声が時折天蓋から漏れるものの、今日は何事もなく4時間も寝られた。ものすごい進展と言っていい。
「そろそろ窓のある部屋に移りませんか? 朝日を浴びてお散歩をして」
「……君が言うなら、そうしようかな」
「良かった。落ち着かなければすぐ戻しましょうね」
匿われている、夢見が悪いせい、呻きや予言を聞かれないため。どれが理由でも、四六時中、この暗い部屋で臥せっているのは心にも不健康だ。
「でも、寝ようと焦らないでいいですよ。弟妹なんてあらゆる手を使っても起きていたがって――そもそも布団で大人しくしてないんです。ベッドにいらっしゃるだけで偉いですよ。……あの、大丈夫ですか?」
頬が少し赤くなったかなと顔を窺うと、ついと視線でベッドの隣を示された。
「……お茶、ここで一緒に飲まない? 奥さんなんだから」
「いえっ、これが正しい距離ですっ。奥様に託されたのは、妻とは名ばかりの睡眠記録係ですから!」
つまり夫人の結婚の提案は、「寝室にいて不自然でない」が一番の理由で結婚は手段でしかない。添い寝係でなくて良かった、とは心底思ったが。
アリシアは急いで、彼にとっては目覚めの、自身にとっては仮眠前の一杯を飲み干した。
「そうだね……巻き込んでごめんね。『奥さん』が予言だと母が勘違いをして」
夫人が結婚を勧めた、二番目の理由がそれだ。
「すぐに誤解は解けますよ」
「でも昔から、君が側にいると安心してよく眠れるのは本当なんだ。この羊も留学に持って行った」
枕元の、くたくたの羊のぬいぐるみをひと撫でする。
5歳くらいの頃、怖い夢を見て眠れないと言うのでプレゼントしたものだ。実際、伯爵家でうたたねの最中に叫んで起きる姿を何度も見たことがある。
「悪い夢を食べてくれるんだったね」
「子供の思い付きです」
指を針で刺しながら作ったそれは、今見ると縫い目がガタガタで恥ずかしい。「ずっとお守りにしてたからね」と言われれば肩をすぼめる。
お茶を飲み終えたフィルは公爵夫妻から頼まれている、わずかな仕事に取り掛かった。
サイドテーブルに積み上がった手紙に目を通していけば、みるみるうちに表情が曇っていく。
「いくつかは王太子の側近の名前だ。留学先から姿を消せば露見するのも時間の問題だったね。
ここ数年彼らの興味は専ら、王太子の子がどちらに産まれるか――自分で何とかできるものを視て欲しいだなんておかしいね」
王太子には妃の他に愛妾がいるとの噂は、アリシアも耳にしたことがある。
「予言を夢で視るのは家族の秘密ですよね?」
「お祖母様は起きて視ていたから。間違いでも、そう思わせておいた方が危険が少ないかなと。
困ったね。後で伺うとだけ伝えておこう」
手紙を除け、別の手紙を手にする。
「母の友人からの相談は――うん、きっと失せ物は彼女の、無断借用が好きな甥の手元にある。確か趣味のクリケットで賭け負けていたし。
こちらの子爵夫人の相談は……その場に鏡があったはず」
絹のように柔らかい雰囲気と声が、こういう時は少しだけぴんと糸を張るようだ。
彼に直接でなくとも、予言をあてにしているのかどうか、しばしば相談事が持ち込まれるらしい。
「本当に予言ではないんですか?」
「お祖母様も似たようなことをしていたそうだよ。僕のは単に記憶力と可能性の検討だけどね」
「私にもよく助言をくれましたね」
アリシアが何かを失くしたり困った時には、いつも的確なアドバイスをくれた、と思い出す。
近所の子供と揉めた時も、言われた通りにしたら相手の態度が柔らかくなった。
母の葬儀でも、弟妹たちの前だと我慢していたら、泣いてもバレない場所に連れて行ってくれた。
「あ、でも誤解しないで。君には義理じゃない」
彼は微笑むと、また手紙に軽く目を通し始める。
「それと予言は、夢は見ても忘れることがあるから、原因を除くために寝言を記録することになったんだろうね。母は力なんてない方がいいって考えている」
彼が手紙を分類し終えたのを見届け、アリシアは立ち上がる。
「朝食とホットミルクをお持ちしますね」
「食事は後にして、昔みたいに羊を数えてよ。声を聞いていたら眠くなってきた」
フィルがまた布団に潜り込むので、アリシアは椅子を寄せて腰かける。
「私で宜しければ。……羊が一匹、羊が二匹……」
かつて亡き母親が語ってくれたように。体力の限界でソファに倒れ込んだ彼にかつてしたように。
ゆっくり羊を数えていくと、細い指がそっと伸びてきて、肩口で揃えたふわふわの巻き毛に触れた。
「……覚えてる? 眠れるまで1万匹も数えてくれたこと。君の声は優しくて、黒毛の羊みたいで……」
うとうとと、フィルの声に眠気が混じり始めて瞼が閉じる。
ほっとしたアリシアが顔を少し近付け、おやすみなさいと呟いた時――突然扉がバン、と開いて侯爵夫妻が雪崩込んできた。
「――起きたかフィル!」
「あなた、静かにしてください」
ぱっちりと目を開いてしまったフィルの顔がいつもより近くて、アリシアはばっと体を起こし、慌てて壁際まで退き礼を取る。
「小公爵様はただいまお休みのお時間です」
お邪魔をしてごめんなさい、と嬉しそうに夫の腕を引っ張る夫人だが、夫たる公爵は手の中の立派な封書を掲げてみせた。
飾らない人柄は知っているものの、きっちり撫でつけた髪と肩書きに違わぬ風格を前にして、羞恥と緊張とで膝が震える。
「王太子殿下の既知から、会いたいとの手紙だ」
「……恐れながら今は小公爵様のご健康に関わります」
「息子への忠義は大したものだが、これは我が義娘、フィル・ドーソン夫人――君宛てだよ」
アリシアが目を丸くして固まると、布団が跳ねのけられる。
慌てて駆け寄り、床に降りたフィルのふらつく背を支える。服の上からでも分かるほど頼りなく、勉強一筋のすぐ下の弟より細いくらいだ。
「ありがとう。……お父様、それはつまり殿下から僕への脅迫状でしょうか」
「お前には依頼の手紙が届いているはずだがね」
おっとりとした口調で尋ねるその声は、アリシアが握る封筒の上から添えられた指と同じくらい、冷えていた。
「なるほど」
彼はサイドテーブルの「後処理」の手紙の山から膨らんだ一通を再び手に取り、封を開けた。中から、便箋が一枚と紐状の羊皮紙が現れる。
羊皮紙には意味のない文字の羅列が書かれており、しかも徐々に字間が離れていく奇妙なものだった。
「……どちらの女性からの手紙なのか、予言して欲しいそうですよ」
***
アリシアの、実家で必要に迫られて上がった裁縫や編み物の腕は、フィルをもこもこの白羊にして応接間の長椅子に座らせていた。
目の前のローテーブルには、王太子宛ての手紙である細長い羊皮紙と、空の花瓶。
もうすぐ依頼主――王太子の側近で侯爵家の嫡男が、予言を聞きに訪れる。真の依頼人が来ないなら好都合と、体調不良を名目に招いたのだ。
「手紙の送り主が王太子妃か愛妾のマイヤー伯爵夫人か。筆跡で分からないなら、これは『暗号』の問題だよ」
毛糸のネックウォーマーから顔を覗かせるフィルの顔は真剣だ。アリシアが心配して見やれば、
「大丈夫、父に許可を貰ったよ。もう君を怖い目に遭わせない。今日で終わりにする」
彼が依頼を引き受けた直接の原因はふたつ。
ひとつは手紙の「予言をせよ、さもなくばアリシア・ドーソンは(無実の罪で)裁かれるだろう」の記載。括弧内はフィルの補足だ。
もうひとつは、マイヤー伯爵夫人がアリシアに会いたいと同時刻を指定してきたこと。
妻を危険に巻き込んだと、罪悪感を抱いたらしい。
「あの、終わったらそのまま寝ていいですからね。暖かいものを飲んで、頭と足先は涼しく……執事さんの言うことをよく聞いてくださいね」
指の冷えを思い出し、薄紫のドレスで着飾らされたアリシアは長椅子の周りをうろうろしていたが、夫人に「時間よ」と声を掛けられて振り向く。
「ありがとうございます、奥様」
「奥様じゃなくてお義母様でしょう。ふふ。娘っていいわね」
嬉しそうな夫人に、フィルは何度目かの念を押す。
「アリシアを一人にさせないで」
「任せて頂戴」
「はい、私も公爵家の名を汚さぬよう頑張ります」
――そう頷いたはずだったが。
十分後、東屋でアリシアは一人、マイヤー伯爵夫人と自分を隔てるテーブルが小さいことを少し恨んでいた。
庭に出た途端、厄介なトラブルが起こったと公爵夫人が呼ばれてしまったのだ。客人を待たせている東屋はすぐ先で、目が合ってしまえば敵前逃亡できない。
伯爵夫人の年齢は十は上。円熟味を増した美しさと品のある仕草は、同じ伯爵家でも何もかも違う。胸元が開いた大人びたドレスを着こなし、豊かな栗色の髪を華やかに結っている。側に控える侍女も彼女に花を添えていた。
「あなた、少し前まで侍女だったそうね。ご実家への援助は十分なのかしら?」
初対面の挨拶と雑談をやり過ごした後、伯爵夫人の艶やかな唇から出た突然の言葉にアリシアは怯む。
「……今まで私には過ぎた給金と教育、愛情を頂きました」
「どれくらい援助すれば離婚してくれる? そもそも公爵家に相応しくないでしょう?」
アリシアは伯爵夫人が王太子の愛妾なのもどうか、と良識で思う。が、権力というものの複雑さと大きさ、国母になれば立場をひっくり返せる可能性も知っている。子が夫でなく王太子の子だと証明できれば。
公爵家にも最初から釣り合うと思っていないし、契約上の妻だ。
だから発言内容には動じなかったが、口を挟むには相応の理由があるはず、と考えれば何と答えれば良いか、心臓が煩い。恩師の教えを辛うじて思い出し、まずは微笑して――、
「我が国の予言の力を絶やさないよう、王家の血筋を入れた方がいいと思うの」
――微笑できなかった。
たぶん弟妹の世話で、駄目なものは駄目と叱ることに馴れ過ぎていた。
そして、幼馴染への親愛の情のために。
アリシアの脳裏に、悪夢に飛び起きる小さな子供の姿が蘇る。若き公爵夫人の目の下にクマがあったことも。
今までフィルに婚約者がいなかったのは、強い予言の力を懸念したせいでもあったのかもしれない。公爵夫人の心配が痛い程に分かる。
――彼と彼の子を、これ以上意図的に苦しめるなんて、できない。
「……望まれない限り、離婚いたしません」
彼女は自分の幼い顔では迫力が不足の自覚はあったが、きっぱり拒絶した。
「それより、今日のご訪問を王太子殿下はご存知でしょうか」
カマをかければ伯爵夫人の喉が上下して、顔がほんの少し強張る。弟妹たちがいたずらを誤魔化すより、ずっと嘘が下手だ。
……これは彼女の勇み足か王太子へのアピールかな、とアリシアは考える。
「殿下は関係ないわ、親切に助言しに来てあげただけよ――失礼な方ね。もういいわ、用件は済んだから。帰ります」
もしや人質ではなく、時間稼ぎだったのかもしれない。
思い付きがたちまち焦燥に変わり、伯爵夫人が立ち上がるよりも早くアリシアは東屋を飛び出した。ここは使用人が何とかしてくれるだろう。
早足に戻って来た公爵夫人が驚く脇を通り抜け、柵に手をかけ飛び越えて。
客間の扉まで、あと少し。
「――フィル!」
***
息を切らして扉を開ければ、フィルが客間の長椅子に横たわる姿が目に入った。布と毛糸に半身を埋めている。
早足で近づけば寝息が聞こえてくる。アリシアは急いで床に膝をつき、異変はないかと唇に耳を寄せ、そこでやっとローテーブルを挟んで座る若い紳士の存在に気付いた。
例の王太子の側近だ。コートを着てすっかり帰り支度を整えている。
「小公爵夫人におかれましてはご機嫌麗しく」
「ご挨拶が遅れました。おもてなしできず……旦那様も眠ってしまい失礼を」
「いえいえ、最後の予言でお疲れなのでしょう」
アリシアが紳士の満足げな笑みに曖昧な微笑で応じた時、フィルがゆっくりと体を起こした。瞼を開けば公爵夫人と同じ空の青が現れる。
「……確かに。後はお二人でごゆっくりお過ごしください。もう邪魔は入らないでしょう」
紳士はそれでは、と帽子を上げて部屋を出ていく。
扉が閉められると、アリシアは眉根を下げてフィルを見つめた。
「眠ったふりをされましたね」
「君は大丈夫だった? ……良く分かったね」
「私は平気です。それにひと月、いえもっと長く傍にいれば寝息の変化くらい分かります」
「寝たふりは相手が安心して、何でも話してくれるから便利だよ。ほらここに座って、説明するよ」
アリシアはフィルの横に座り、用意された紅茶で乾いた喉を潤すと、一番気になっていたことを尋ねる。
「予言はどうなりましたか」
「予言どころか、僕でなくても解決できる問題だよ。あれは初歩的なバトン状暗号……知ってる? 見る方が早いね」
フィルは一枚の紙とハサミを取り出すと縦に細く切り、細長い棒に巻き付けた。そして文字を縦に、一行、二行と書いていく――ひつじがいっぴき、ひつじがにひき。
最後まで書き終わってから棒から外せば、紙紐に意味不明な文字の羅列が現れる。
「手紙には署名はなく『子供ができたかもしれない』という内容が書いてあった。これは殿下も工夫して解読したはずだね。
だからね、問題は送り主が何を使って文字を復元させようとしたか」
「というと?」
「同じ太さの棒でしか再現できないからだよ。
初めは、殿下が二人の一方にだけ贈った、自身とお揃いの何かかなって考えた。でも女性二人に同じものを贈ることもあるし、先の男性は心当たりがないというし。
それで後半の字間が妙に空くのを手掛かりに、何をバトン代わりに使ったのか考えてみたんだ」
フィルはもう一枚紙紐を作り、今度はテーブルに置かれたままの、空の花瓶にくるくる巻き付ける。安定のため下部に行くにつれ直径が太くなる。
「こんな風に徐々に太くなる、個人を特定できそうなもの。長さと太さが丁度腕と同じで――ね、僕の予想はここまで。
それで理屈は伏せて、こんな腕の持ち主だと教えたんだ。予言っぽくね」
お茶のお代わりを注ぐ執事が、一世一代の演技でしたよと苦笑している。
「二人の腕の判別が付くか、そして分かったと送り主に告げるかどうかは殿下次第。腕を覚えている方を愛している確率は高いかなと思うけど、手紙自体狂言かもしれない。
何にせよ、殿下が自分を見つめ選択するきっかけなだけだね。
……まあ、僕が何を言っても父がうまくやってくれるらしいから、きっと大丈夫だよ」
そこでフィルはふわ、と小さな欠伸をする。今度は本物だ。
「寝たふりで疲れたから、今から寝室に行ってもいい? それでもし予言の寝言を言えたら、こっそり教えてくれるかな」
彼が瞼をぱちぱち瞬き指を近付けると、半透明の青い花弁が指先に乗って、瞳には再びもとの薄い紫が現れた。
「……えっ、あのっ」
「お祖母様が作り方を残してくれていたんだ。それに君のもこもこのおかげで、気付かれずに付けられた。
――殿下がアリシアに危害を加えようとしたから、こっちも最後の予言だって思わせるために利用させてもらったんだよ」
「あれ、でも予言が言えたら、って?」
「良く気付いたね。視たくないものを視てしまうことは沢山あるけど、視たいものを全く視れないと言ったことはないよ?」
穏やかにアリシアを見つめるフィルに、彼女は騙されたと呆然とする。
「僕は昔からこの力が嫌で仕方なかった。だから自分で力を使い切れるかどうか、随分試したんだ。一人の夜が怖かったから、将来一緒に寝てくれる人の夢を見たいって願った」
「あの、それって」
「ただあの日アリシアが見れたのは予言じゃなくて、ただの夢見がいい日だったんだけどね」
平然と好意を告げられてアリシアは固まり、落としかけたティーカップを横から伸びた白い指が支えた。
***
「小公爵様、就寝のお時間です」
あの日寝言で「黒い羊」とだけ言ったフィルは、翌日には本来の青い瞳を取り戻した。
それから窓のある部屋で寝るようになり、朝に起き、昼間は散歩をして食事をしてと、少しずつ健康的な生活を取り戻している。
アリシアの記録係の役目も終了して、今は寝る前に様子を見に来るだけだ――時折、羊は数えているけれど。だから寝言を記録せずに済んでほっとしている。寝つきがいい日に、彼女の名前が混じり始めたから。
「今後他の方に聞かれると問題が。別の寝言になりませんか」
ある日決意してベッドサイドで尋ねれば、半身を起こし寝支度をしていたフィルは首を傾げた。
「大丈夫だよ。寝室に奥さん以外を入れる気はないからね。……奥さんは続けてもらえるの?」
「心配ですし、望まれる限りは」
「アリシアにとって僕は夫じゃなく、ずっと世話の焼ける幼馴染なのかな」
フィルの両手が伸びたかと思った瞬間、二人横向きにベッドに転がる。冗談には大胆な、でも昔に戻ったような行動にアリシアは狼狽える。
「嫌? 変なことはしないよ」
「嫌では、ないけど」
「良かった。僕の子供の頃の夢はね、大きくなったら君を寝かしつけることだったんだよ。いつだって誰より遅くまで起きて頑張っているから」
優しい声と眼差しに包まれ、ふわふわと頭を撫でられ――母の葬儀でもそうしてくれたとアリシアは今更思い出す。
自然と瞼を閉じる。とても居心地がいい。やがて続いた寝不足のせいか強張っていた四肢が次第に緩み、眠気が波のように押し寄せてくる。
「眠い? 寝ていいよ」
「……フィル。ただの契約結婚なのに」
「ただの、って思ってるの、公爵家で君だけだけどね。……そうだね、僕の今後が決まったら改めて話そう。まず、予言で視たから好きになった訳じゃないってところから」
アリシアは問い返そうとしたが、小さな欠伸が漏れるだけ。
「……予言。黒い巻き毛の羊の夢を視ていたんだ」
ふわふわの白いものに包まれる気配がした――もう限界だ。
耐えられずに意識が眠りに落ちる直前、アリシアは耳元で優しい声を聴いた気がした。
「――おやすみ、僕の優しい羊」