チートは外れ値
とにかくお金を返さないといけない。
私はカレーライスを食べきってから、彼の会社とやらがあるという病院に向かった。彼の言う通りに病院の受付で名刺を見せると、病棟ではなく『研究棟』という建物に案内された(様々な病気の研究を行っている施設らしい)。松下くんはここの一室を借りているそうだ。
研究棟の入り口近くの街路樹には吸い殻がたくさん落ちていた。こんな汚いところで何を研究できるのだろうと思いつつ、渡されたセコムカードをかざしその建物に入ると「こっちです!」とひとりの青年が手を振ってきた。
「待ってましたよ、久留木さん!」
「……はあ……誰?」
「時任です! 松下さんの部下です!」
時任くんは松下くんよりは年上で私よりは年下の小太りの青年で、どことなく犬っぽかった。
「ねえ、私はお金を返したいだけなんだけど」
「いやいやいや! 足診せてください! だって松下さんはヤバいんですよ。まじでヤバいんです。だから松下さんが絶対治せって言うから絶対治しますから!」
「ヤバいってなに……?」
彼はニコニコと笑いながら私を建物の奥へと引っ張っていく。廊下にはたくさんの貼り紙がしてあり、誤飲注意やら改装工事についてやら、忘れ物一覧まで情報が出ていた。外部の人間が読んではいけない気がしてならないが、いいのだろうか。ぼんやりとその壁の情報を読み流しつつ、彼についていく。
「ねえ、私の足はすでに擦り傷なんだけど」
「いいからいいから! あ、ここの説明しますね!」
「いや別に興味ない」
「いいからいいから!」
彼の勢いに押されてその建物の奥へと進みながら、ぺらぺらとその説明を聞き流す。要するに、この研究棟は日本を代表するすごいところってことらしい。そんな大層なところで擦り傷を診てもらうアラサー……色々と厳しいものは感じる。
「松下くんは私に嫌がらせしたいだけでしょう、これ」
「まさか! 擦り傷だってばい菌はいっちゃったら怖いんですよ?」
「はいはい……そうかもね……」
「つきましたよ! ここが僕らの城です!」
時任くんに連れられてその『株式会社バスタルド』と表札がかけられた扉を開けると、様々な機械が置かれている近未来SFみたいな部屋だった。見たことない機会ばかりだ。それに壁際の棚には様々な賞状やトロフィーが並んでいる。時任くんは私の視線に気が付くと「これは松下さんがとったものですよ」と彼の功績を説明してくれた。
やっぱり難しいところは分からなかったが、松下くんは医学部生でありながら『とある病気』に有効な治療法の先駆者だそうだ。そして三年前に「この治療法を実践するには起業するのが一番速い」と会社を創立したそうだ。要するに、頭がいい偉い人ということだろう。
「へえ。若いのにすごいね。漫画みたい」
「そうそう! 松下さんはチートなんですよ!」
皮肉で言ったことが褒め言葉で通ってしまった。実にうさん臭くて、鼻で笑ってしまう。
「その、チートの松下くんって彼女いないの?」
「そういう話、今まで全然聞かなかったんですよ。めちゃくちゃモテるんですけどね! でも中途半端なことはしない人で、……だから『久留木さんに傷を残すな』って言われて、ついにそういう感じなんだなあって!」
「そういう感じ? どういうこと?」
「うちの人間みんなもう大盛り上がりですよ!」
「勝手に盛り上げられても困るんだけど……」
苦笑しながら時任くんから目を逸らすと、扉のガラス越しに中を覗いている人がいることに気が付いた。大きな鼻のその男性は親の仇でも見るかのようなすごい顔をしていたが、私の視線に気が付くとあっさりと去っていった。
「……なんだろう?」
「え? なんですか?」
「今ね、鼻の大きな人が中を覗いていたのよ。ドラマの家政婦みたいだった」
時任くんは「あー……」と苦笑する。
「多分、ナギさんですね」
「ナギさん?」
「別の研究チームの人で優秀なんですけど僻みっぽいっていうか、松下さんのことを目の敵にしてんですよー若いのに優秀なのがムカつくみたいな……それに最近は喫煙所が外になったのが面倒くさいとかで苛ついていてーもう一瞬即発みたいな?」
「逆恨みじゃん。睨んでいい理由にならなくない?」
「ですよねー、でもよく来るんですよ」
「睨みに? 暇なの?」
「あはは、かもしれません、……あ。今日はまじでナギさん暇かもしれませんね。ナギさんの研究チームの人が死にかけているんで」
「なにそれ、大変じゃん」
それは多分部外者の私に言っちゃいけない話だとは思ったが、面白そうだったので聞き役に回ることにした。
「実は、今日ですね……」
時任くんが話すことによると、今日の明け方に研究棟の入り口近くで原因不明の呼吸困難を起こした研究者がいたそうだ。発見されたときには意識不明の重体、そしてその発見者が松下くん。松下くんが的確な応急処置をしてから隣の病院に運び、一命は取り留めたが未だに意識が戻っていないらしい。
明け方というなら昨日のコンビニの後、ということだろうか。
あんな体験のあと職場に戻っていたのだろうか。どういう神経をしているのか分からないが、――ぞく――とあの寒気を思い出した。
「……それ、松下くんが【なにか】したんじゃないの?」
「【なにか】ってなんですか?」
「……松下くんって目を合わせたら人殺せそうじゃない?」
「あははっ! 久留木さん面白いこと言いますね!」
時任くんはけらけらと笑った。
「……でも松下くんって『ヤバい』んでしょう?」
少し声色をかえてそう聞いてみると時任くんは笑顔のまま「ありえないですよー」と言った。その顔からはほんのすこしの疑いも見えず、また拍子抜けしてしまう。そんな私に「そんな面白ミステリー起きないっすよ」と時任くんは笑った。
「倒れた人、元から気管支が弱いそうなので、アレルギーとかじゃないですか? 松下さんも間が悪いというか運が悪いというか……」
「それじゃなんで松下くん警察に連れて行かれたの?」
「あ、やっぱり捕まっちゃいましたか?」
「捕まる? 逃げてたの?」
「松下さん言ってたんですよ、『第一発見者っていっても事件でもないのに……今日逃げ切れば無駄な時間を過ごさなくて済むかなあ……』って……あの刑事さんは松下さんのこと構いたがるから捕まると面倒なんですよ」
「構いたがる?」
「親戚らしいです。自称保護者みたいな? 面倒くさいですよね、そういうの」
「……学生の内はそうかもね」
私は、もう学生ではない。
女子高生のときにプロ、アマチュア混合の麻雀大会で優勝し、大学進学を辞めて麻雀の道を選んだ。それは道なのかという獣道だった。それをなんとか走り抜けた今となっては、実家の安心感、保護者がいる安心感はなににもかえがたいものだったとわかる。でも、このようなところにいるエリート学生には、まだこのありがたさはわからないのだろう。
「でも……ひどいね。松下くんはただ人助けしただけなんでしょ?」
「ですよねー。ナギさんが『お前がやったんだろう!』って松下さんに掴みかかったりしなかったらそれでおしまいだったのに」
「へ? なにそれ? 松下くん変なことでもしたの?」
「人命救助してただけですよ。単なる言いがかりですよ、言いがかり。そもそも松下さんが人殺すなんて非効率的なことするわけないのに」
「……非効率ってどういう意味?」
「え? そのままの意味ですよ?」
時任くんはにこりと笑って首をかしげた。昨日感じたような化物に睨まれているような恐怖を覚えたが、私も笑顔で首をかしげておいた。