再会にはカレー
改札を出て人の流れを避け柱の前に立ち、ポケットから携帯を取り出そうとした瞬間――ぞっと寒気が走った。『捕食される』。昨日ぶりのその恐怖に咄嗟に構えをとる。
「また会えましたね」
目の前に『彼』が立っていた。
一目見ればどうして忘れられたのだろうというぐらい、ハンサムな顔立ちをしている。年は私よりも少し下だろう。昨日と同じ黒のモッズコートにミリタリーブーツを身に着けた彼が、私に歩み寄る。
「昨日ぶりです、久留木さん」
「……そうね」
彼に名前を知られたことはとんでもない失態だったような気がする。
こみあげてきた生唾を飲み下し、彼の目を真っ直ぐに見る。目を逸らすのは負けだからだ。だから全力で睨みつける。しかし彼は赤みがかった茶色の瞳を細めて「そんなに見られるとドキドキしちゃいます」とふざけるだけで、雀士の本気の威嚇をいなしてしまった。
私は拍子抜けした。
「……昨日はありがとう。それでお金返していいかな?」
「ここじゃなんですから喫茶店にでも行きましょうか」
「え、なんで?」
「あはは」
「笑い事じゃないんだけど……」
しかし彼は話を聞く気はないのか歩き出してしまった。お礼も言えていないしお金も返せていない私はついていくしかできない。渋々その隣を歩きながら「なんなの?」と聞くと、彼は私を見て「なにがです?」と笑った。
「きみ、別に女に困ってないでしょう? こんな年増に声かけなくていいんじゃない?」
「二十九歳は年増じゃないですよ」
「は? なんで知ってんの……?」
「俺は二十一です。医学部三年生。それから株式会社バスタルドの社長をやっています。学生実業家というやつですね」
「は? 聞いてないんだけど?」
「彼女はいません」
「だから聞いてないんだよね、きみの個人情報は……」
彼はくすくすと笑う。品の良い笑い方だった。
彼は私よりも頭一つ分大きいのにとてもゆっくりと歩いてくれ、車道側を歩いてくれ、人がぶつかりそうになれば私の肩を引き寄せてくれた。紳士的な青年だ。なのに私は彼に対して少しも警戒を解くことはできなかった。
「ここでいいですか?」
「なんでもいいよ」
彼が案内してくれたのは歴史を感じられるレトロな喫茶店だ。
煙草臭いところや傷だらけのビニール椅子、銀色の灰皿などは雀荘を彷彿とさせる。私には落ち着くデザインだが若い子には人気がないのか、店内は年配の客が多い。店の二階席に向かう階段下のスペースの席に向かい合って座ると、彼は私に灰皿を差し出した。
「私は吸わない」
彼は意外そうに目を丸くした。
「麻雀を打たれる方は吸われるものかと……」
「調べたの?」
「珍しい苗字ですから」
やはり彼に名前を知られた時点で面倒だった。
私は財布から名刺を一枚取り出す。彼は私の名刺『女流雀士 久留木舞』を受け取ると「雀士ってどんなお仕事されるんですか」と聞いてきた。
「興味ない女の興味ない仕事のこと、聞いて楽しい?」
「どうしてそんなに警戒してらっしゃいます?」
「女は急に声をかけてきた男を警戒するもんなの」
「先に押し倒してきたのは久留木さんじゃないですか」
「語弊がある言い方はやめてくれる⁉」
何言ってんだこの小僧、とまでは口に出来なかった。何故なら、――彼は耳まで赤くしていたのだ。
「すいません……こういうこと言うの、恥ずかしいですね……」
彼の表情は純粋な少年のもので、私は咄嗟に「すいませんカレーライス二つください!」と叫んでいた。
「カレーライス好きなんですか?」
「うるさいっなんなの、きみ! 絶対、そんなキャラじゃないでしょ!」
「そんなキャラと言われましても……俺をなんだと思っていますか?」
「なんだとって……」
そこで言葉が止まる。
……なんだろう。
目の前の彼は好青年に見える。でも、私の中の誰かが『信じるな』と言っている。『信じたら殺されるぞ』と言っている。
だから私は彼を睨むことしかできない。彼はそんな私を見て、困ったように笑った。
「久留木さん、俺を嫌いでもいいのでひとつお願いがあります」
「……なに?」
「俺の会社で足をちゃんと診てもらって下さい」
「……あなたの会社ってどこにあるの?」
彼は、この国で最も有名な大学附属病院の名前を挙げた。
「受付で俺の名刺を出してもらえれば話は通りますので」
そこまで言うと、立ち上がり「怖がらせてごめんなさい。二度と連絡しませんから」と寂しそうな顔と声で言ってきた。その言い方が気に食わなかった。だから私も立ち上がり、彼の胸を人差し指でつつく。
「別に連絡しないでなんて言ってないでしょ。なんなのその言い方」
「え、いやでも……だって、俺はあなたを怖がらせたいわけじゃなくて……」
ごにゃごにゃと聞き取れない小さな声でなにかを呟く。それにもムカついて一歩距離を詰めると、彼は私から目を逸らして顔を赤くした。
「松下くん、きみはなんなの? なにを隠してんの?」
「あ、俺の名前覚えてくれているんですね。ありがとうございます」
「いや……だからそんなピュアな反応しないでくれる? 医学部生なんて女食い放題でしょ?」
「ちょっと、近いですよ……」
「私が痴漢しているみたいな言い方やめて!」
「いや本当に近いですってば、久留木さん……とにかく俺の会社に……俺は迎えが来てしまったので案内できませんが、俺のところはこの日本で最も技術に安心がおけるところですから」
「迎え?」
喫茶店の入口の方から「白翔!」と彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
そちらを見るとスーツを着た中年の男性がこちらに向かって歩いてくるところだった。松下くんに「知り合い?」と聞くと「ええ、まあ……」とうんざりしたように彼が答える。そして歩いてきた男性は、いきなり松下くんの胸倉をつかんだ。
「ちょっと! あんたなにしてんの!」
「あ、大丈夫です、久留木さん。この人、前時代的な人間なので仕方ないんです……」
「仕方ないことないでしょ! 離しなさいよ! そんなことしなくても会話はできるでしょ、馬鹿じゃないの!」
全く抵抗しない松下くんからそのおっさんを引きはがすと、彼らは目を丸くして私を見た。その顔はやけに似ていて、それにもムカついた。「なんなの」と松下くんに聞くと、彼は「なんでしょうか、中島さん」とおっさんにその質問を投げた。おっさんはムと顔をしかめる。
「分かっているだろう? 『事情聴取』だ、署まで来てもらうぞ」
「また俺が悪いと決めてかかっている時の顔をしていますよ。そんな風に決めつけて、中島さん、今まで俺が悪かったことがありましたか?」
「今度の悪さは『殺人未遂』だ。お前がいくら言い逃れしようが来てもらう」
「仕方ないな。……久留木さん、お願いですからね。ちゃんと足の怪我を看てもらってくださいね」
彼は私にそう言い残すと「早く来い!」と叫ぶおっさんに連れられて喫茶店を出ていってしまった。
「……なんなの、あの子……『殺人未遂』? 昨日の事故、『やっぱり』松下くんのせいなの? ……っていうかお金!」
残された私はお金を返していなかったことと、店員さんが届けてきたカレーライス二つを前に途方に暮れるしかなかった。