理想と現実と告解と
鎌倉を散策しながら、アンチョビの味のついたナッツを買ったり、生シラスが乗っているアイスクリームを舐めたり、ヨモギ餅を食べていても、それほど時間は流れない。
何故なら白翔くんは買い物に時間をかけないことだ。悩むということがないのだ。
「あ、アイスだって、……あれ美味しくなさそう……」
「買ってきますね」
「いらないってば!」
という勢いで躊躇いがないのだ。
だから大混雑の小町通りを一周するのに一時間もかからなかった。一日歩いて回れるかもしれないのに、彼とのデートじゃたった一時間ももたなかったのだ。
「……海岸まで歩けるそうですよ」
「飽きたのね、この通りに」
「……俺、買い物に時間かけることがないので」
「……海なんて何年見てないかわかんない。見たい」
「よかった。そうしましょ」
それで二人でタピオカミルクティーなんか持って由比ガ浜まで歩くことになった。
道なりには観光っぽいものはなにもなく、ただ遠くに海が見える通りを歩いていくだけだ。
でも彼が最近あった研究所での話なんてし始めると歩いている時間は退屈しなかった。
「宮本さんが復帰されても喫煙所の前でずっとソシャゲをしていて……」
「副流煙狙いじゃん」
「後藤さんの奥さんも突撃してくるし……」
「場所ばれちゃってるじゃないの」
「中島さんからは交際の進捗を聞かれます」
「進捗があるの⁉ 交際に⁉」
十五分ぐらい歩いたら、その海は見えてきた。
「「海だ……」」
私たちはそんな見たままの感想をふたりで同時に放ち、それからケラケラと笑った。
海辺にはこの寒さにも関わらずサーファーが何人もいた。海の上にはその十倍ぐらいの人がいた。
「寒くないのかな?」
「動いている間、寒さは感じませんよ。止まると寒いかもしれませんけど」
「海ってなんか暗いね」
「暗い?」
「アニメとかドラマみたいに綺麗な色していないなって……」
「あれは夢の話ですから。それに昨日、雨が降ったんですよ。土砂も混じってます」
目の前の海は暗く濁った色をしていた。砂浜は十歩歩くと、靴が沈み始めた。
「靴が汚れる……」
「戻りませんか?」
「え、でも……こういうときカップルって水際まで行くんじゃないの?」
「靴に砂はいるとしばらく取れませんけど」
「わかる。帰ろう」
私たちは深夜ドラマのヒロインにもヒーローにもなれない。それが分かって、ケラケラ笑ってしまった。
白翔くんは「なにがそんなに楽しいんです?」と不思議そうだった。でも海岸を彼氏と歩くのは私にとってはパンをこねながら見る夢だったことを、彼にどう説明したらいいか分からなかった。だから結局ケラケラ笑いながら、砂浜を後にした。だから結局、由比ガ浜の滞在時間はまさかの十分だった。
けれど駅に戻ってからも私たちはそのことを離してはケラケラ笑った。あんなに歩いて辿り着いた海で、結局何もしないで帰ってきた自分たちにケラケラ笑った。
それは、とても楽しい時間だった。
「ごめんね、私、海辺できゃっきゃできる女の子じゃなくて」
「そんなあなたは嫌ですよ」
「なんでよー」
「場所に踊らされないあなたが好きですよ。砂浜で『靴に砂とか最悪』って言っちゃう、あなたが好きです」
彼の手はあたたかい。
「私も明日は変わるかもしれないんだよ?」
「そしたら俺が今日の内に殺してあげます」
「そっか……」
「なんでちょっと納得していらっしゃるんですか?」
彼の手をつないで歩いているのはとても楽で、とても楽しくて、このままどこへでも行けそうな気持ちになる。
でも――このままでは駄目なことぐらいさすがの私でもわかる。
「久留木さん」
「なに?」
「あなたのことが知りたいです」
「性的な意味?」
「どんな意味ですか、それ」
「……ふざけてみただけだよ。分かっている、ごめんね」
「……あなたが迂闊だったのは珍しい。説明してもらえますか?」
彼は私をベンチに導いてハンカチの上に座らせてくれた。私はそこに座り、ため息を吐く。
「白翔くん、聞かせてくれる? あなたの考えを」
「そして俺の感情を?」
「うん、……そうね。教えてほしい」
――断罪の時だ。
白翔くんは息を吐いてから、口を開いた。
「久留木舞。女流雀士。……少し調べればあなたの経歴は出てきます。けれどあなたの生い立ちは全く出てきませんでした」
「……女流雀士の生い立ちなんてAV女優の作り物の生い立ちぐらいの価値しかない」
「そうだとしてもあまりに出てこない。あなたの知人すら出てこないんです。徹底的に排除されている。どうしてでしょうね?」
白翔くんは私の右手を左手で掴んだまま離さない。
「ここまでくると意図的なものを疑った方がいい。あなたはなにかを隠している。高卒と言うことは公表していらっしゃる。でも母校は不明……とはいえ、あなたの苗字からあなたの住んでいるところは割り出せましたよ。今の住所も……あなたに案内される前にあなたの家は分かっていたんです」
「……珍しい苗字だからね、……特に関東ではあんまりいない……探そうと思えばすぐ探し出せる……」
「……ええ。……あなたの苗字が多いところの、いくつかの高校を調べたら、あなたの母校もわかりました。そこから、あなたの、……家族のことが分かりました」
「そこまで、調べたんだ」
「駄目でしたか?」
「……いいよ……私を暴けるのはきっと、きみだけだから……」
私は左手で顔を覆って、目を閉じた。罪人らしく、ただ目を閉じた。
「あなたはご両親とは絶縁関係にありますね?」
「……うん……」
「でもあなたには『母』がいる」
母。
私の家に来て、私を慰めて、私を起こして、私と食事をとって、あれやこれや喋る、中年の女性『達』。
「レンタルなんですね、あなたの母は」
「……月曜日と木曜日はちゃきちゃきしたおばさんに頼んでいるの。他の、突発的なヘルプのときは、ちがう人に母を頼む……、……気持ち悪いでしょう?」
「……母をレンタルする人の大半が『両親と疎遠だが、恋人に両親を紹介しなくてはいけない時』と聞きました。でもあなたは彼女たちを日常的に利用している」
「きみに紹介する気はない。彼女たちは私の母だから」
目を開いて彼の顔を見ると、彼は私を真っ直ぐ見ていた。
「実の親と和解ができないから金を払って赤の他人に母を演じてもらう私は、……気味が悪いでしょう?」
「……俺は、親に期待はしてきませんでした。だから今更親を求めたりはしない。でも、あなたは親と絶縁したのは高校卒業前と聞いています。そこまで育てた娘を手放す理由が彼らにはあった。そうしてあなたはその時に、不意にそれまで共に暮らしてきた人間に捨てられた。そのときの気持ちは、俺には想像ができません」
――あなたが何を考えているか分からない。
私は彼らにとって異物だった。
彼らの理解の範疇を越えた異物だった。中卒の彼らには私の知能は羨望と自慢の対象であり同時に『敵』だった。いつからから愛されるよりも憎まれて、私は育った。私がいることは彼らを苦しめて、私は彼らがいることで苦しんだ。私はそれまでの自分の努力を全て捨てて、彼らとの縁も切り捨てて、楽な道を選んだ。
彼らが関わることがなく、学歴も関係がない、この己の手だけで生きていける世界を選んだ。
それが一番楽だった。
それが一番――痛くなかった。
「私を作ってくれた両親のことは今だって忘れてはいないけど、連絡は取らないし、近況を調べたいとも思わない。ただ、たまに、……起きたら朝食の匂いがして、うんざりした声で親に起こされたくなる。……お金で、そういうことをしてくれる人がいるって、……分かったときにすぐ頼んでしまうぐらい、そういうのが必要だった」
それは『最初に眠れなくなった時に』頼んだものだ。そうしてそれからやめられないのだ。ずっと。でももうそれも効かなくなってきている。
「それでも、眠れない……分かってるの……駄目だってことぐらい……これじゃなにも解決しない……」
「……あなたにとっての親は、……」
彼のいいたいことがわかって、――カッと頭に血が上った。
「あの人たちは私の親を辞めたの! 頼めないでしょう! ないものは、どうにもならないっ!」
白翔くんの赤茶色の瞳は私を見ていた。咎めることも、気の毒そうでもなく、なんの感情も見せず、彼は私を見ていた。
「私が今更どれだけお母さんとお父さんを求めたって、……謝ったってどうにもならない! 私の考えていることの全部が、彼らの範疇を越えてしまう。どうしろっていうの‼ 無理なの、そんなの……私は彼らの子どもにはなれなかった、なにも考えない子どもには……だから一緒には生きていけない。見ている世界が違いすぎる。彼らがまともな教育を受けていればよかったかもしれないし、私が教育を受けていなければよかったかもしれない、でも、……もう駄目よ。もう、……全部駄目なの……でも……芸名をつけないのは、いつか……連絡をしてきてくれるかもって……期待している自分もいて……」
彼が私を抱き寄せてくれる。そのあたたかい体が私を抱きしめてくれる。あたたかくて、ぬくい。喉の奥が熱くて、吐きそうだった。
「……私、気持ち悪いでしょう?」
白翔くんは私の頭を優しく撫でた。
「気持ち悪くはありませんよ」
見上げると、彼は微笑んでいた。
「俺の親は死んでいますけれど、彼ら以外を親にはできません。妻も子どもも殺して自分も殺した身勝手なやつだとしても、あの男以外は俺の父ではない。……でももし他の人を親にできるなら、それが親だと認めてしまえればどれほど楽だろうと思ったことはあります。例えば叔父を……でも、駄目なんですよ」
「……どうして、駄目なの?」
彼はにこりと笑った。
「呪いかもしれませんね。……つまり、自分が自分にかけた、おまじないです」
彼が私を抱きしめる。その背中に手を回し返すと、そこに肉があった。生きた肉があった。実態があった。
「だから古い家族は忘れて、俺たちで家族になってみましょうよ、久留木さん」
偽物でも借り物でもない、彼がいる。
ぽろ、と自分の目から涙が落ちた。
「……それ、付き合ってすぐ言うこと?」
「あなたはもう俺の親に挨拶して、食事も一緒にしたんですよ?」
「え、……そんなつもりで来てない、今日……」
「あなたの親御さんに俺も挨拶しますよ。あなたが金で雇った人でも、なんでもいい。俺は好かれる努力をしますよ」
「……、……だったら月曜日に来てよ。ちゃきちゃきで、……詐欺に引っ掛かる、可愛いお母さんだよ。きっときみとは気が合わない」
いいですね、と彼は言った。
それはとても――優しい言葉だった。
「……暴かれるのって気持ちいいかもしれないね」
「そうでしょう? 俺がどうしてあなたを好きになったか、やっと分かりましたか?」
「それはちょっとわかんないけど」
「ちょっと!」
私が笑うと、彼も笑ってくれた。




