予感と出会いと事故と
深夜のコンビニエンスストアの前はタクシーが止まっていた。
運転席には帽子で顔を隠した運転手が眠っている。人生に余裕のある人は『こんな時間は働かずに家にいたらいい』と思うかもしれないが、需要があるからこういう可哀想な人が生まれるのだ。そんなタクシーを横目に『二十四時間営業』という可哀想なサービス業代表コンビニエンスストアに入った。
店員は休憩室にいるらしく、レジは無人だ。
ぐるりと中を見渡すと雑誌売り場に男性が一人いるだけだった(黒尽くめの恰好の、今時の若者らしい細身の男性だ。多分大学生ぐらいだろう)。
私はカゴを持ちストック品売り場に向かう。
高校生の時に男子と海水浴なんて行ったことがない私にできることなんて本格的なピザトーストを作るぐらいなので、一番高いトマト缶を選び、乳製品売り場で一番高いゴーダチーズを選んだ。さらに言えば、海なんて小学生のときの遠泳以来行っていない私だ。マッシュルームもカゴに入れた。ここまで来たら夜更かしを満喫しようと、さらに雑誌売り場まで足を進める。
――『鋼の女王』久留木 舞 女流雀王死守!
グラビア雑誌の隣に置かれた麻雀雑誌の表紙、愛想笑いを浮かべた自分と目が合った。この雑誌がグラビアと勘違いしてもらえるぐらい可愛い女流雀士になりたい人生だった、とその雑誌から目を逸らし、他の雑誌を眺める。
多種多様な雑誌が自分の一押しを表紙上部に持ってきて『見て!』『私を読んで!』と騒いでいる。どれも魅力的で、どれも生き生きしていて、枯れ果てた私が持っていていいがしない。ふと、先にいた男性が立ち読みしている雑誌が目に入る。その表紙には美味しそうなカレーの写真。とろとろのルウにごろごろと大きな具と食欲をそそる湯気……深夜に見るべきものではない。棚には『春に向けて!』『メイク!』『デート!』と女性雑誌も並んでいる。
だから私は『春服特集』に手を伸ばし……、その隣の『カレー特集』を手に取った。乾いている私が湯気に負けるのは仕方ないことだった。
雑誌を開いて、カレーを眺める。最近の激戦区は神保町らしい。グリーンカレーは作ったことないけれど、なにが入ってこの緑にしているのだろう。ピザトーストにしようと思っていたけれど、この際、カレートーストでもいいかもしれない。雑誌をめくり、つやつやのカレーを眺めて、唾をのむ。
ふ、――と、【なにか】に呼ばれたような気がして、雑誌から視線を上げる。
ガラスの向こうで、タクシーの『空車』の赤い文字が光っていた。その運転手は相変わらず眠っている。なんてことない光景のはずなのに、何故か私の目はそれから外せない。それどころか、ドク、ドク、と心臓がうるさく喚きだす。
――『ヤバい』。
嫌な予感がする。この、背中に氷を入れられたかのようなこの寒気。奥歯が抜けるようなこの悪寒。これは、『ヤバい』。
対面に座った親が役満に手をかけたときのようなこの『予感』、なにかが来る前の『予感』。
――目の前で、タクシーが動き出した。
一瞬で全身にあった倦怠感が消え失せる。
「危ない!」
私が隣に立っていた男性にタックルをかけるのと、自分の背後で破壊音が鳴り響くのは同時だった。
飛び散るガラス、ふっとぶ雑誌、飛んでいく商品棚。飲料品売り場のガラスケースに破壊されていくコンビニの風景が写る。背後で行われているその地獄絵図はコマ送りで、やたらとゆっくり流れていく。飛んで、潰れて、壊されて……。
「……、な、なに……?」
すべての音が止まってから振り返ると、無人のレジにタクシーが突っ込んでいた。
タクシーのチカチカ光るハザードランプを見て、なにが起きたのか理解できた。
「ダイナミック入店じゃん……」
場違いなネットスラングがこぼれてしまった。まさにそのネットスラングの通り、タクシーはダイナミックにコンビニの半分を破壊していた。しかしタクシー自体には大きな破損は見られない。バコン、と扉を開けて運転手は自分の足で下りてきた。ふらついてはいるが元気そうに見える。
休憩室からとびだしてきた店員が「まじかよ!」と叫んだが、彼もレジにいなかったから怪我はしていない。
よかった、死人はいない……そう思ったときに――チッ、と真下から舌打ちが聞こえた。
「あっ! ごめんね!」
私は男性を押し倒した挙げ句、今までずっとそのおなかの上に乗っていたことに気が付き、慌ててそちらを見た。
「え……」
男性の瞳を見た瞬間に――『ヤバい』――タクシーが突っ込んできたときとは比べられないほど明確に『その予感』が、足元から、腹の奥をえぐって、脳髄に駆け上ってきた。
私を見上げるその瞳には光が全くない。
彼は、まるで排水溝に集まった髪の毛を見るかのような目が私を見ていた。能面のように全く感情がない表情が私を見上げている。
『ヤバい』
彼の胸の上におかれていた私の手の平は、トク、……トク……と落ち着いた心音を聞く。あと少しで死んでいたというのに彼の鼓動はどこまでも落ち着いている。まるで、すべてが予定調和だったかのように、落ち着いた鼓動。冷たい視線。
『ヤバい』
彼の瞳には殺意がある。それも自室にもぐりこんできた羽虫に対して抱くような、罪悪感を伴わない殺意だ――邪魔だなあ――というそれだけの思い。それが『私』に向けられている。逃げなくてはいけないと思うのに、金縛りにあったかのように全身が凍る。
その人の腕が持ち上がるのを視界の端でとらえる。『ヤバい』。その手が私の命を刈り取ろうと――
「下りていただいてもよろしいでしょうか?」
彼の手が軽く私の肩を叩いた途端、金縛りがとけた。
「……ごめんなさいっ!」
慌てて下りると「いいえ」とその人は短く答え、すぐに立ち上がった。背後で店員とタクシー運転手が話しているのは分かるけれど、自分の鼓動が煩くて内容が聞き取れない。
――逃げないと。
頭の奥で急にそんな言葉が浮かんだ。そうだ。ここにいてはいけない。早く逃げないと――しかし、私の体がそれを実行する前に腕を掴み上げられた。
「ひっ」
氷の瞳が私を見下ろしていた。
「立てないんですか?」
うんざりしたようにその人が冷たく私を見下ろす。
「立てる……今、立つからっ……離して……」
自分の声が惨めに震えていることにさらに恐怖が沸き立つ。蛇に睨まれた蛙だ。ここにいたら『捕食』される。ここにいたら『死ぬ』。ただ見られているだけなのに恐怖が全身を襲う。掴まれている腕から鳥肌が立ち、全身が凍っていく。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫! 大丈夫だから……」
なんとか「離して」ともう一度言うが、その人はむしろ強く私の腕を掴み直した。
「足、怪我していますよ」
「え……?」
自分の右足を見るとニーハイが破れて血がにじんでいた。よく見れば足元に置いていたカゴもひっくり返っている。どうやら彼をタックルしたときに、私はトマト缶を足でつぶしたようだ。そこで切れてしまったのだろう。
「……いっ……いたい……」
気が付いた途端に痛み出す足をおさえると、手の平に血が付いた。
「ああ……痛そうですね」
ふ、と頭上で息を吐くように悪魔が笑った。
痛みに呻く私を見て満足そうに笑っている。寒い。怖い。どうしよう。どうしよう。どうしよう。死にたくない。殺されたくない。でも、どうしたら――
「怖かったでしょう?」
ふと、落とされたその声に、うんざりとした冷たさは抜けていた。
恐る恐る私の腕を掴んでいるその人を見上げると、『彼』は先ほどまでの無表情が嘘みたいに人当たりの良い笑顔を浮かべていた。
「もう大丈夫ですよ。本当に怖かったですね」
その顔も声も普通だ。普通の人が、普通に私を見下ろしている。
「……あ、……うん、そうだね……怖かった……」
なんとかそう答えると「そうでしょうね」と私に共感を示してから、彼は私の傍に膝をついた。彼の右手が私の右足の傷に触れる。痛みに私が顔を歪めると彼はすぐに手を離す。
「そんなに痛みますか?」
「うん……」
「失礼します」
「えっ」
彼は当然のように私を姫抱きにしてしまった。そのモッズコートからクロエの香りがする。
「ちょっと……っ」
「店の中は危ないので外に出ましょう」
彼はジャリジャリとガラスを踏み潰しどこかへ歩いていく。
「なんで抱っこするのっ⁉」
「あなたの靴じゃここを歩くのは危ないからです」
「なんでっ⁉ きみは大丈夫なの⁉」
「俺はミリタリーブーツなんでこのぐらいなら問題ないです」
「なんでそんなの履いているのよっ!」
「え? そうですね、……デザインが好みだからでしょうか?」
ドアがなくなったコンビニの外に出ると冷たい冬の風が頬に当たる。私が身を震わせると「寒いですね」と彼は笑った。
「下ろしますね」
「あ、うん……」
彼は私をコンビニ脇に設置された喫煙所のベンチに下ろしてくれた。それから「少し待っていてください」と彼は足早にコンビニに戻っていく。それを見送ってから、自分の体をぎゅうと抱きしめる。
「……なに、あの人……」
額に手を当てると汗をかいていた。
冬なのに前髪が額にはりつくほど汗をかいている。吐いた息が白く染まるのに、体の奥から熱くなっていた。体を折り曲げて額を膝につけ、自分の鼓動を聞きながら息を深く吸う。
『怖かった』。――でも、なぜ、あんなに怖かったんだろう。
「大丈夫ですか?」
戻ってきた彼が心配そうに声をかけてくれた。
眉を下げて『心から』心配しているような顔をしている。その顔は『普通』だ。
さっきの彼に対する恐怖は私の勘違いだったのだろうか。……そうかもしれない。そうではないかもしれない……。どちらにしろもう『やばい』という予感も、彼に対しても恐怖はなかった。ただ、疲れていた。
体を起こして「大丈夫」と答えると「無理しないでくださいね」と優しい言葉をかけてくれた。
「じゃあ、足を見せてもらいます」
「……は?」
「大丈夫です。俺、応急処置は得意なので」
「え? なに、その特技……」
「水かけますね。冷たいですよ」
「きゃっ! つ、冷たいんだけど……」
「そんな顔で見ないでください。冷たいって言ったでしょう?」
彼はミネラルウォーターで私の足を洗ってから、消毒液、ガーゼとテープを使って応急処置をしてくれた。「売り物?」と聞けば「そうですよ。コンビニにはなんでもありますからね」と笑う。応急処置を手早く済ませると、彼は財布を取り出した。
「ちゃんと病院に行ってくださいね。それから、ここに連絡してください」
「連絡……?」
「お姉さん美人だから単なる下心ですよ」
「は?」
私の膝の上に一枚の名刺と三枚の一万円札を置いて彼はにこりと笑った。
「は、なにこれ」
しかしそれを返す前に「じゃあ」と彼は足早に去ってしまった。
「……は?」
彼の姿がもうどこにも見えなくなってから、ようやく遠くから赤いテールランプが近づいてきた。私はそれがこちらに来るのを見ながら「嘘でしょ、これから事情聴取ってこと……?」とさらに疲れるのを感じた。
――このとき、『私達』のことを遠くから見ている男がいたなんて、私は勿論、知らなかった。