強制インプット
大学の校門にはたくさんの人がいた。
大学生ともなれば十代か二十代前半の人ばかり、要するに若々しい肌の人ばかりだ。そんな中で膝を出している年増の女とは、なんと場違いだろう。こういうところに来るとショートパンツを身に着けることが限界であることを悟らされる。
でも、好きだから、辞めたくない。
――それにしても、眠い。
ため息を落としてから、辺りを見渡す。
「人多いな……」
この中から私が松下くんを見つけるのも、松下くんが私を見つけるのも無理だろうと思ったけれど、「久留木さん、こちらです」と遠くから響く声がした。
そちらを見ると、手を振って歩いてくる、今日も今日とて真っ黒な松下くんだ。私も手を振り返し、彼に駆け寄る。
「おはよう松下くん、今日も真っ黒だね」
「そうですね。持っている服を一色にしておくと選ぶ手間が省けるので」
とんでもない理論を述べる松下くんは、イケメンでなければ似合わない格好をしている。黒のモッズコートに黒のセーターに黒のジーンズに黒のミリタリーブーツ。しかもどれも高そうだ。
金持ち狙いの女の子か、病んでいる女の子にはすごくモテそうな恰好ではあるけれど、残念ながら私はそのどちらでもない。
「きみだったら、もう少し明るい色の方が似合うと思うけど」
嫌味たらしくそう言ってみる。
服装に文句をつけられるなんて、さすがの松下くんも気分を悪くするかと思ったのに、彼はにこにこ笑顔で「じゃあ今度選んでください。楽しみです」なんて少しもへこたれない。私はまたため息をついてしまった。
「なんですか、そのため息」
「……周りがみんな若い分、私はすごく老けて見えるでしょう? わざわざここで私を選ぶような人はいないんじゃないかしら?」
言外に『松下くんも冷静になって、私の事いやになったんじゃない?』という意味を込めたのだが、彼はクスクスと笑うばかりだ。
「久留木さんは誰よりもかわいいです」
「いや……かわいいとかじゃなくて、ここの人たちは若くて私は年増なの。そして女は若い方がいいの。分かる?」
「ふふ」
「笑い事じゃないんだけど……」
「ところで久留木さん、この一週間は変わりありませんでしたか?」
松下くんが急に話題を変えた。
「え? 特になにもなかったよ。普通だった」
「へえ、そうですか……」
妙に含みのある言い方と、妙に含みのある笑みだ。
「なに?」
「いえ……俺はちょっと色々あったので……久留木さんに影響がなかったならよかったなあ、と……」
「ちょっと待って、なに? 怖い話?」
「まあ、とにかく講義室に行きましょう」
「は? いや、ちょっと待ってよ!」
にやにやしながら先を歩く松下くんの後を慌てて追いかける。
「ねえ! ちょっと待ってよ、足が長い!」
「俺、股下一メートルあるんで」
「うっそ、やばくない?」
「嘘ですよ。そんなの計ったことありません」
「なんなの! もう! 止まってよ!」
松下くんは振り返ると、その右手を私に差し出した。
「……なに?」
「手をつなぎましょうよ」
黒い手袋がはめられたその手を睨むと、彼が眉を下げて笑った。『やばい』という予感は今もある。
「俺の手、いやですか? そんなに、……どうしようもなくいやですか?」
けれど、彼の声が少し泣きそうに聞こえた。
だから私は――、予感を無視して、その手を取った。
「もう走らないでよ。私、走るの嫌いなんだからね!」
彼は私の手をじっと見た後、にんまりと笑った。ちょっと顔が赤くなっている気がしたから彼から目を逸らすと、彼は私の手をぎゅうと強く握る。
「ええ、ゆっくり歩きましょう。もったいない」
「……っていうか、だからさっきの話はなんなの?」
「ふふ、あとでお話しします。今はとても気分がいいから思い出したくありません」
「なにを⁉ ねえ! なにがあったの、怖いよ!」
しかし松下くんは話してくれず(手も離すこともなく)私を大きな講義棟の大きな講義室に連れて行った。
「どのあたりの席がいいですか?」
「聴講生だし、後ろの方がいいな」
「そうですね、そうしましょう」
彼は一番後ろの席に私を案内してくれた。一番後ろの席から講義室を見渡す。百人ぐらいは入れそうな広い講義室だ。
「随分と広いね」
「そうですね。人気のある講義は広い講義室を使いますから」
「ふうん……人気あるんだ、この擬音語の授業……でもこんなふざけたテーマの授業をこんなエライ大学でやって意味あるの?」
「面白くてキャッチーな講義を数本入れることで生徒のモチベーションを保っているんですよ。面白講義の受講は抽選があるんですが、聴講だけであれば教授の許可さえあればこそっと入れてもらえるんですよ」
「へえ……そうなんだぁ……わざわざ許可とってくれたんだぁ……ありがとうねえ……わざわざ頑張ったことをわざわざ伝えてくれるのねえ、きみは……」
「ふふ、どういたしまして。久留木さんのためなら容易いことです」
私の皮肉は華麗にスルーされた。ため息を吐く。
「松下くん、それでこの一週間きみになにかあったの?」
「講義が始まりますね」
「こんにゃろ」
松下くんの足を軽く蹴ると、彼はクスクスと笑った。
「それじゃあ始めますよー」
そんな挨拶から始まった『擬音語のみで会話する』講義は、そのふざけたテーマの割にはふざけた内容ではなかった。様々なコミュニケーションを体系立てて分類し考察していく内容で、まじめなものだ。講師のよく通る声は耳に心地が良いけれど、その内容は想像より面白くない。
配られたレジュメをぺらぺらとめくっていると、松下くんがクスクスと笑った。
「飽きちゃいました? 麻雀の講義もありますよ」
「こんな風に麻雀の説明をしちゃうの?」
「こんな風かどうかは分かりませんが……そっちも受けてみます?」
「変な説明を聞いたせいで自分の麻雀が打てなくなったら困る……」
「そんなことありますか?」
そんなことをポツポツと話しつつ、講師の話していることをレジュメにメモを取る。
効果的なオノマトペの使い方など今まで考えたことがなかったけれど、言われてみれば『たしかに』と思うことばかりだ。同じように効果的な体の使い方というのは考えたことがなかった。効果的な体での表現、擬音語での表現を組み合わせれば、言語の壁を越えて最大限意思を伝えることができる……結構面白い講義内容だ。
と、私が頑張って聴講しているのに、松下くんが私の耳に息を吹きかけたりする。
「構ってくださいよ、久留木さん」
「ちょっとうるさい、後にして」
「ふふ、そうですね、ごめんなさい」
松下くんの右手は私の左手をぎゅうと握りしめている。彼は左手で筆記を続け、私を見ながら講義を聴講している。じろりと横目で睨んでも握る手の力が強くなるだけだ。
「……きみ、この授業受ける意味あった?」
「ありますよ。コミュニケーションは相手が理解してこそです」
「……私に受けさせることに意味があったってこと?」
「今度俺と一局対戦してください。俺は麻雀のルールは知りませんけど、あなたのことが知れるなら、けちょんけちょんにされたいです」
プロの雀士にそんなこと言って、と怒ってあげてもよかったのだけど、私を見る松下くんの目が言葉よりも雄弁で、なにも言えなかった。