前編 夢
目覚めたのは見知らぬへやだった。
正確には知っている部屋に似た知らない部屋だった。
板張りの床に、小窓が付いただけの質素な壁が左右にあり、入り口の観音開きは格子戸になっていて外からも内からも見通せる。
格子戸の正面には神棚のように神具が置かれた棚があり、その中央には覆いを掛けられた鏡が安置されている。
つまり、ここは神社の中だ。
3畳ほどしかないこのお堂で目が覚めた。しかし、そこは荒れて朽ち果てて埃まみれだった。格子戸は片方が外れその辺に倒れているし、小窓の雨戸となる突き上げ窓も外れて無くなっている。
そして、荒廃ぶりに拍車をかけているのが、目の前で食事に勤しむ小動物。狸だ。
「えーと、どういう状況だ?」
記憶から眠りにつく前の状況を必死に思い出そうとする。しかし、霧がかかったように思い出せない。
何よりも全身が怠く重い。そのつらさが先に来て頭が思うように回らない。
「だー無理だ。これ。」
思わず声が漏れる。予想以上に大きな声が出ていたらしく、狸が食事を止めてこちらを見ている。
「あー、悪い悪い。大声出して。」
狸に謝る。すると、
「だ、誰ですかあなたは?どこからいつの間に入ってきたんですか?」
狸が喋った。それよりも誰何された事に引っ張られた。
「それが全然思い出せない。まさに気が付いたら此処にいた、としか答えようがない。」
「意味が分かりません。ここは僕の大切な家です。出てってください。」
「出ていけと言われてもな。風邪なんか目じゃない程に全身怠いし、ついでに頭も重い。動ける気がしない。」
「病気ですか。・・・それじゃあ放り出す訳にはいかないですね。良いでしょう、特別に僕の家の一部を使用する許可を与えましょう。」
凄く尊大な態度だが、貸し与えられたのは良しとする。また瞼を閉じるとすぐに睡魔がやってきて、意識を持って行った。
その後も、寝ては起きるを繰り返した。覚醒する度に徐々に体が軽くなっていく気がする。
一方の狸は、時折居なくなっては狩りにでも出かけているのだろう、次の時にはまた何かを食べている。後は毛づくろいをしたり寝ていたり。喋った事とこちらを恐れないこと以外は普通の狸だ。
ふと目を覚ますとその時は狸はいなかった。ちょっと残念に思う。
何とか体を起こしてみる事にした。無理はできないが、少しぐらいは歩けそうだ。
格子戸に近づいて外を眺めた。
「・・・こりゃあすげぇ。」
記憶の中ではこのお堂の格子戸の前は参道が続いて、やや開けた場所になっていたと思う。
しかし、今目の前に広がるのは圧倒的な量の木々だった。
よく見ればかつての参道だったらしい場所に石畳の面影が残ってはいるが、それらを覆いつくすように木が生えている。
見たこともないような巨木があたり一面を覆いつくしている。
上を仰ぎ見てもはるか上空で枝葉が伸びてこの神社を覆い隠している。
「どうやったらこんな事になるんだよ。」
自分の知っている木々はこんなに大きくなるまでに数百年とかかかるはず。それがこんな短期間に。
そこで疑問が生じる。最初にここで起きる前のいまだ思い出せないが所謂、日常、というものがあったと仮定して、そこからどれくらいの時間が流れているのだろう。
一日や二日では無い事は、この木々が教えてくれている。
悶々としていると、茂みが揺れてちょうど狸が獲物を咥えて帰ってきた。
そのままお堂の中へと入り、いつもの定位置に獲物を下すと、
「起き上がれるぐらいには回復なされたんですね。よかった。」
食べますか?と聞かれたが全く空腹は感じていなかったので遠慮した。
「君の家で寝させてもらったのでだいぶ体調が戻ってきた。感謝するよ。その上で一つ聞きたいんだけど良いかな?」
「僕に答えられる事でしたら。」
「どのくらい寝てた?」
「どのくらいとは?」
「日数的には?」
「難しいですね。僕たちはあまり日付を意識しないので。あ、季節は大事にしますけどね。今日も昨日もあまり区別しないので。」
「・・・なるほど。」
会話はできるが相手は狸だ。日にちに対する意識はそんなものかもしれない。
「それに一日なんて長くなったり短くなったりしますからね。僕たちが楽しい時間が早く過ぎるように感じる様に、お天道様も嬉しい時や楽しい時は素早い歩みで、つらい時や悲しい時はゆっくり歩くのでしょう?」
「・・・」
「そして、あまりに悲しい事がありすぎると、お部屋から出てこなくなるんですよね。」
「・・・あ、えっと、多分、そうかな。」
改めてここが自分の知っている常識が通用しない場所だと痛感した。そもそも、狸が喋るのだ。
「そういえば、狸さんの名前をまだ聞いてなかったな。」
相手が人でなくても、会話をする以上名前を聞いておくのは礼儀だと思った。
「僕の家には代々名乗ってきた名前が有ってですね。」
狸が得意げに喋る。しかし毛の奥に隠れた表情筋の微細な動きは見えず、どのような顔をしているかはわからない。
「我々一族の遥か昔の英雄譚より拝借して、チャガマ、というのです。・・・意味はよく分かりませんが。」
狸の英雄譚がチャガマとは、やはり常識がずれているのだろうか。
「それより、先ほどあなたがおっしゃった、タヌキ、ですが・・・。
初めてその言葉を聞きました。・・・いや、何処かで聞いたことがあるような。」
「君たちみたいな生き物を、狸、と呼ぶのではないのかい?」
「いえ、全く。・・・あ、思い出した。」
何かを閃いたチャガマはするりとお堂から出ていくと、
「すぐに戻ります。」
とだけ言って、茂みの奥に消えていった。
待ちぼうけ。木々の向こうにかすかに見える青空には雲がゆっくり流れている。はたして今日の御天道様のご機嫌は幾許なものか。
再度茂みが揺れて狸が現れた。しかし、今回はもう一匹ついてきている。今度は狐だった。
「ご紹介します。僕の友人で結構博識なイナリです。」
「どうも初めまして、イナリと申します。」
狐の名前はイナリだった。合点はいくがひねりは無い。
「イナリの一族は口伝にていろいろな言い伝えが伝わっていて、その中に先ほどの、タヌキ、があったような気がして。」
そのまま、チャガマはイナリの方を向く。イナリが続く。
「そうですね。言い伝えの中にカミサマと言われる方々が、彼らの事を、タヌキ、そして我々の事を、キツネ、と呼んでいたそうです。」
「・・・カミサマと言われる方々、か。」
それが知っている神様と同じものなのかはわからないが、少なくとも言い伝えのあたりまで時代をさかのぼらないとそう呼んでいる人が居ない。
おや?全然別の疑問が浮上してくる。
「チャガマさん、イナリさん。一つ聞きたいんだけど、自分と同じような、人、っていうんだけど、見たことある?」
「あなたのような方ですか?うーん。」
チャガマの反応から答えが分かる。彼らは他の人に会ったことがない。この世界には人は居ないのかもしれない。
「私も見たことはありません。しかし、ヒトも言い伝えで出てきますね。カミサマに似た、でもカミサマほど凄くなくいっぱい居た生き物だったはずです。」
大体あっているだけに凄くないと言われても反論できない。
「でも言い伝えの中でカミサマがヒトになったり、その逆もあったりするので基本同じ生き物として扱ってますね。」
彼らの言い伝えでは神様と人は同列に扱われるらしい。聞く人が聞いたら発狂しそうな話だ。
「では、あなたもカミサマなのですか?」
不意に、チャガマが聞いてくる。
「あなたは自分でヒトである言った。そしてヒトとカミサマは同じもの。であるならあなたはカミサマなのですね。」
節穴だらけの三段論法を飛ばしてきた。
「いや、違うよ。人ではあるけど神様では無い。そんなに凄くない。」
「えー、何かできないんですか?混沌から天と地を作るとか、海をかき混ぜて島を作るとか。」
目をキラキラさせて聞いてくる。完全にヒーローにあこがれる少年少女のそれだった。
「すまないがそんな事は出来ない。できることと言えば・・・、このお堂の壊れた所を修理するぐらいかな。できる範囲で。」
お堂の中の壊れた個所が目に付く。完全に修復するなんて芸当はまず不可能だが、外れているだけとかなら、なんとか。
「それでも十分凄い事ですよ。なにせ僕たちでは修理なんてできませんから。現状維持で手一杯です。」
「では、問題は解決したようなので私はそろそろ失礼します。丁度ご飯を食べようとしていたところを、彼に強引に連れてこられたのでお腹がペコペコです。」
そう言うとイナリは踵を返して帰ろうとした。その時、
「まあもう少しゆっくりしていけばどうかな。じきに通り雨が降る。それが過ぎ去ってからの方が帰りやすくはないかい。」
自分の口から思いもかけない言葉が漏れた。なぜそんな事を思ったのだろう。
「本当に雨が降るのであれば、そうしたいところですが。」
と、イナリが食い下がるが、その体に水滴が数滴垂れる。
その数は一気に増えて、雨となった。
慌てて皆でお堂の中に駆け込む。我々が無言の中、屋根を叩く無数の雨音だけが響く。
「・・・当たりましたね。」
イナリが驚きながら言う。
「当たってしまったね。」
自分の事ながら当惑して応じる。
「凄いですね。」
チャガマだけは、楽しそうに続ける。
「やはりあなたはカミサマなのですね。」
否定したいところだが、言葉に詰まる。
「そういえば、このお堂は、ジンジャ、という場所でカミサマの住処だと言い伝えられています。そして、あなたはここ、ジンジャ、にいきなり姿を現した。」
こちらもこちらで妙な論法で攻めてきた。
「やはりあなたはカミサマなのですね。」
もうチャガマの言葉を否定できる材料が手持ちにない。
その後、少し話しているうちに予想通り雨が止んだため、イナリは帰っていった。
客人が帰ったことで少し気が緩んだか、一気に疲労と眠気が襲ってきた。チャガマへの挨拶もそこそこに意識は途絶えた。
その後も起きては寝ての繰り返して、体調が良い時にお堂の修理と言っても、外れているのを直したり散らかっているものを片づけたりする程度だが、をしながら時が流れていく。
日にちの経過は相変わらずわからない。ただ、あまり気にならなくなってきた。同居人のチャガマの動物らしいその日その時を生きる姿を見ているせいかもしれない。
ある時、また別の来客が訪れた。自慢の黒い羽根を羽ばたかせ枝に止まったのは烏だった。
「あなたが森で噂のカミサマですね。お初お目にかかります。」
どうやら既に森中に噂は広まっているらしい。今更の否定はできそうにない。
「あ、ヤタさん。」
いつの間にかに横にいたチャガマが烏に向かって話しかける。どうやら知り合いらしい。
「紹介しますね。こちらはヤタさん。ああやって飛べるので色んな所を見たことがあるので、結構博識です。」
会釈のように羽を羽ばたかせる。こちらも頭を下げる。ヤタと言う名前だが足は2本の普通の烏だ。
「早速ですが、あなたの噂をミハシラ様も聞いたらしく、是非とも会ってみたいと仰せで。私はその伝言役です。」
「ミハシラ様とは?」
隣にいたチャガマに聞いてみる。
「この森で一番の長老様です。はるか昔からここに住んでいる方で、結構博識です。」
はるか昔から住んでいるということは、もしかしたら何が起こったのか知っているかもしれない。ヤタの方に向き、
「こちらとしてもぜひともお会いしたいです。」
「それは良かった。ただミハシラ様は動けませんので、カミサマにお越しいただくことになりますが。」
「どこか体調が悪いのですか?」
「あ、そういう訳ではなく。植物ですから。」
「・・・なるほど。」
ヒントは多数あったのに、気が付かなかった。喋るのは動物だけだろうと勝手な憶測をしていた所をつかれた。
「ヤタさん達はミハシラ様を寝床にしていますからね。よく伝言役を頼まれるそうです。」
「ミハシラ様なりに、色々思うところがあるらしいです。ご本人は動くことが出来ないので色々歯がゆいところがあるそうで、そんな時は私の出番というわけです。」
ばさりと羽を動かすヤタ。皆に崇められるミハシラ様の伝言役はきっと誉れ高い役なのだろう。
「では改めて、ミハシラ様までの道案内をお願いできますか。」
「わかりました。と言ってもすぐそこですけどね。」
ヤタの視線の先は、神社の裏手の方だった。
記憶の中の神社を思い出す。神社の裏手には鎮守の森があったはず。そこにある小道を進んだ先にしめ縄で祀られた御神木があったのを思い出した。
「もしかして、小道の先にあるしめ縄とか柵とかで囲われた御神木の事ですか?」
「よくご存じですね。まあ柵はほとんど朽ちて柵っぽいものになってますが。」
そうして皆で神社の裏手にある元鎮守の森を目指した。
神社の表の開けた場所だった所ですら鬱蒼とした森になっているのだから、元々森だった裏手は予想通り更に凄いことになっていた。
「道は・・・有るのか?」
「とりあえずは有りますよ。ミハシラ様に続く唯一の道ですから。ただ、カミサマほどの大きさの物が通らないので、もしかしたら通りにくいかもしれませんが。」
言い終わる前にチャガマは茂みに分け入っていく。小動物にとっての道が人にとっての道となりうるとは限らない。
大量の下草をかき分けて、何とかついていく。ふと見上げれば巨木の向こうの青空を悠々と飛ぶヤタ。
「ひどい格差だ。」
愚痴りながら、何とかついていく。やがて少し開けた場所に出る。
その中央にいた。他の樹木の様に密集するのではなく一本だけが鎮座している。見上げてもなかなかてっぺんが見えない。
周りの木々も十分巨木だが、それらより頭1つ2つとびぬけている。幹まわりも大きく近づくと、壁にしか見えない。
当然のように先回りしていたヤタが、ミハシラ様の上の方に止まっている。こちらを一瞥すると降りてきた。
「ミハシラ様は上ってきてほしいと仰せです。」
「登っていいんですか。」
いくら本人が良いといっても、相手は御神木にもなっていた老木だ。下手に体重をかけたら枝を折ってしまうかもしれない。
「大丈夫だそうです。枝や蔦を使って上まで来てほしいそうです。」
「そうですか。」
そこまで言われてしまえば、やるしかない。全身をフルに使って枝を一本一本登っていく。心配したほどは弱っておらず枝を折ることもなく登れた。
ある程度まで登ると、視界が開ける。どうやら周りの木々の高さを超えたようだ。
どこまでも広がる青空に見入っていると声が聞こえてくる。
「ようこそ。」
「お邪魔しています。素晴らしい眺めですね。」
「そうだな。風景を見るには特等席だろう。」
「今日はお呼びいただきありがとうございます。」
「いやいや、礼には及ばんよ。ただ老人が話し相手を求めただけだ。」
「自分程度で良ければいつでも。」
「ははは。ここでただじっとしたまま時が流れ過ぎるのを見ているだけだと、どうしても何かをしたくなるんだよ。」
「歯がゆいといった感じですか。」
「そうだな。・・・例えば逆を向いてごらん。」
そういわれて掴まりながら慎重に体の向きを反転させる。
今まで見ていたのは神社から鎮守の森を見ていた方向の先。そちらは森が続きやがて山裾になってと大自然が広がっている。
体の向きを変えながら考える。記憶の中のあの頃の神社の先はどうなっていたか。
小高い丘のような地形の上にあった神社。その参道へと続くの階段は険しく長かったはず。
その階段の先にはるか昔は水田だったらしいが人口増加でそれらはすべて住宅地と成った。そんなちょっと郊外に行けばどこにでもあるような風景が広がっていたはず。
一陣の凍えるような冷たい風が吹き抜ける。
そこは住宅地だった物が広がっていた。神社の荒廃がまだかわいく古びてる程度と思えるほどに、完全に廃墟と化したコンクリートの何かが視界一面を覆っている。
草も木も一切生えていない、壊れた住宅だけがある世界。ただただ冷たい風だけが吹きすさぶ世界。
それを見た時、自分の動悸が激しくなるのを感じた。無意識の内に唇を噛みしめ、指先は驚くほど冷たい。
「君はどうして此処に来たのか?」
「・・・」
「なぜあの町はあんな姿をしているのか?」
「・・・」
「君の事を待っている人を思い出してあげなさい。」
そこが限界だった。視界はチカチカして耳鳴りが襲い、気を失った。




