過つ
妙な暑さに魘されて意識だけが覚醒した。
店主は居るのだろうか。耳に意識を込めても衣擦れの音も呼吸さえ聴こえない。静かだ。
思い返せば、蝉の声も道中聞かなかった。
風を肌に感じる事もなく、汗が伝い落ちていくだけ。眼を閉じいてるため、それが鮮明に感じられた。
畳に滴る。雫が畳を叩く音が大きく耳に届いた。
寝苦しさに聴力が尖るようだった。
そして背越し、引き戸の向こうから話し声を拾った。
大半の好意を得難い、耳障りな高い声。それに加えて隠しきれない陰気さや何かしらの嫌悪感が強く滲んだ口調はごく最近耳にしていた。
半ば夢ではないか。瞼の向こうに年齢以上に老け込んだ女主人の姿が像を結び、背越しの声に口や表情を一致させた。
依頼主とのやり取りの再現だった。
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『でしたら、幽霊ってものは人の情でしょう。誰しも後ろ暗い所はありますよ。長く生きていればい心苦しい出来事は抱えていましょう。
恨んでいるのではないか、罰を与えてくるんじゃないか。
そういう怯えが幽霊を現に表すに違いないのですよ。屋敷の者は言葉にしないで胸の奥で納得しております。不気味に思うのも、恐ろしいと震えるのも自罰でございましょう』
少なからず、そのような性質であったこともありました。
ですが、始点があるのです。これを知り、何故かの原因を取り去ることで幽霊を祓うことができます。
もっと根源的な始まりを教えて頂けないでしょうか。これはこの屋敷に起因する現象に違いないとわたしは考えております。違いますか。
『あたくしが自罰と言ったでしょう。火事です。
このあたりの誰でもしっておりますよ。聞いてごらんなさいな。亡くなったものがおります。生き残った者の悔いでしょうよ。
死者は年月を経ながら生者に影を落としていくものです。木陰のような安らかなものでありましょうし、陰のような場合もございましょう。ここに限っては陰でございますから』
亡くなった方を教えて頂けますか。
『六人です。名前は代筆した者にお聞きくださいな。思い出したくありません。帰ってくださいませ』
分かりました。では五日後にまた伺います。なぜわたしを呼んだのでしょう。
自罰とおっしゃるあなたは、幽霊を恐れているとよりも諦観しているようにも思えるのです。
幽霊払いを決心された理由をしりたいのです。
『屋敷以外の者にも姿を見せたと聞いて許せなくなったからです。他所様に悪さをした以上、あたくしは罰するつもりでした。』
罰する、と言いましたか。
しかし行方不明の二名に関係があるとは…
『あたくしは、その幽霊が特定の誰かとなるのならば、あの女に違いないと考えております。あたくしはこの家に嫁いだのですから、あれを罰する権限があると考えております。さぁお帰り下さいな』
女をじっと見る。その言葉と表情と老いとを見る。握った拳は震え、目は血走っている。鬼気迫る情念が身内を燃やしているのだ。
幽霊の中心はきっとこの人にあろうと思う。手紙には代筆者の心情で救ってほしいと書いていた。
何を救って欲しいだったろうか。文脈を思い出そうとすると、頭痛がぶり返してきた。
頭蓋のどこか、意識のがらんどうとした暗がりに、わんわんと頭痛が響いて荒らしい苦しみを生じさせる。
音ではない意識の中の音のような反響が巨大化していき、わたしという意識の塊を覆っていく、とそれは声のこだまではないかと急に気づいた。
焦燥と結びついて現れた己の声が起きろと警告を叫んでいる。
真っ黒な意識の奥から渦巻くように炎が現れ、わたしを飲み込んだ。熱で歪む視界の先に踊る八つの人影が迫った。
煤けた臭いに、焼かれると悲鳴を上げた。
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「悪夢を見ました」
目を開けて、変わらずそこにある店主の膝を確認してからわたしは声を発した。
その膝がわたしのほうにわずかに動く。視線を上げると店主の色の薄い、和やかな瞳と合った。
「寝汗が酷いじゃないですか。ラムネは飽きたでしょうから、眠気覚ましに。棒アイスはお好きですか」
「好きだよ、いただこうかね。味はなんだっていいよ、おすすめを一つ買おうじゃないか。つかぬことを聞くがね、店主はずっとそこにいたのかね」
「もちろんですよ」
彼は足の不自由さを主張するように、左手で太ももをさらりと撫でた。
そのまま胡座をかいて居座ろうとすると、やんわりと元の位置に戻るよう促される。
「ああ、団扇をあおいでくれてたでしょう。心地よくてね、ありがとう」
「そんなのすぐ腕が疲れてしまって、辞めてしまいましたよ。旦那が思っているより早く寝入っているんじゃないですかね。なれないことをしてみましたが、もうすこし頑張れば旦那は悪夢を見なかったかもしれませんね」
団扇をもっておどけて見せる店主の右手のひらが煤けていた。
それを指摘するとあどけない表情で手を検めて、子供のように太ももの側面に擦り付けようとするので慌てて注意した。
「旦那は几帳面ですね」
「几帳面なものか、その様子じゃあ…そうだね。手をよこしなさい」
懐から出した手ぬぐいの臭いを確認して、子供にやるように手を拭いてやった。
どこかおもしろかったのか、拭き終わるまで店主は笑っていた。
「ずいぶん煤けた団扇だ」
机に置かれた団扇が目について、感想が口をついた。
燃えなかったのが奇跡のように絶妙に煤だけをまとってくすんでいる。
「初めて使いました。とても汚れていましたね」
不思議そうに店主が首をかしげる。触れようとする手を掴んで膝に戻してやると、店主はまたくすくすと笑った。
「旦那がおやすみ間、思いついたのですがやっぱり旦那は道をお間違えでしたよ。似たような区画が多いですからね、この辺りは。仕方ないのですけど、きっと1本前の道を折れ損なったんですよ」
この辺りは河や泉が多かったが、台風で本流が逸れて以降数百年と時間をかけて乾いていった。そこを平に埋め均して工場地帯とした若い歴史がある。
碁盤のように整列または簡素に区画されていた。
道はどうだったかと、記憶を呼び起こそうとしていたわたしの注意を、言葉を探るような店主の声が引いた。
「その、何年か前に火災があったお屋敷でしょう。被害が大きくて、お屋敷の奥様とそのご子息が焼死したと聴いて、痛ましく思ったのを覚えていましたから」
わたしは聞い返した。店主は意外そうな顔をした。
火事があったとは聞いたが、母子で亡くなっていたのは聞いていなかった。
「人様の事情をお恥ずかしい。失言でしたね。たくさんお話したのは久しぶりで、気が大きくなりました」
「いえ、気になさらず。誰から聞いたとは言いますまい。違うとならば胸にしまいます。どうせ周辺に聴き込みをしていたくらいだ。丁度いい。聞かせていただけませんか」
幽霊の原因を突き止めるのが肝要だからと、わたしなりの幽霊論で諭すと店主は協力を惜しまぬ体で語り始めた。
「十年は経っていますが…幼い頃の記憶です。堪忍してくださいね。このあたりも火災の影響はありました。丁度時代が移ろって新しい工業地帯が優勢で、それで存続するかどうかという選択の時期でしたから、決断の後押しになったという事ですけれど」
店主の世話になっているという屋敷の主は、その一人だったということだそうだ。
「基本的に工場と屋敷を併設して職人共々囲っていますし、それぞれ競争相手ですからね、塀やら垣根を壁にして居たのも不運だったようですよ。いろいろ不幸な条件が合わさって、消火が難儀して被害が大きかったとか」
「不幸な条件、というのは」
「季節柄でしょうかね。数日雨が降らず、乾燥した大気だったとか。とても季節とは思えない凍えるような風が吹きすさぶ、そんな日の夜に火事が起きたのです。僕もその夜は寒くて、火鉢を抱えて指を温めようとしていたのを記憶しています」
「一人で?ほんの子供でしょう」
「周りが寝静まったころに耐えきれなくて、大人がしていたのを見まねして、そしたらどうにかできてしまいました」
「貴方が燃えた方でなくて安心する話ですよ。周りの不用心にも呆れるものだが、親に怒られたでしょう」
店主は目を細めて嬉しそうに笑った。そうして翌朝両親に怒られたと嬉しそうにはにかんだ。
「普段からおとなしくしていましたし、周りは歩けないから大した事が出来ないと安心していたのですよ。板張りの床なら、座布団にのって腕で押せばそれなりに滑って移動出来ますし。必死になれば這うことも出来ます。みっともないと叱られますけれど」
夜中に目撃したならば肝が冷えただろう。その移動する影を思うとなかなかに妖怪味がある。
そして可笑しかった。
「その子は燃えてしまいましたね。火元の一つが火鉢の置かれた居間だったと聞きました。もう一方が放火だったのか、煙草の不始末で資材が燃えたのか、原因は明らかでないのですけれど。火鉢を抱えている内に眠って、着物に火が付いたのでしょう。
一方の鎮火に大人が集中して、子供の方に気づいた時には燃え広がって手遅れになったそうですよ。
逃げるのに難儀しますからね。生きて火に焼かれたか、途中で煙に巻かれたか。どちらでしょうね」
声を落して語った店主が動かない足を撫でる。
「聞くにむごい」
店主は顔を伏せて相槌を打った。歳も住家も近い相手に思うところがあるのだろう。
声をかけようすると、先に店主が言葉をかけてきた。
「旦那、汗が酷いですよ。アイスを忘れていましたね。みかんのお味でよろしいですか」
いつの間にか用意していたらしい橙色の氷菓子を差し出してくる。冷気が白い煙となってふわりとのぼり、酸味と果汁の香りが鼻に届いた。
「ああ、すまないね。貴方は辛くないですか」
「僕は暑くありませんので」
「わたしばかり暑がってお恥ずかしい」
「じっと座っているばかりですからね。体が慣れてしまうのでしょう」
目の前の現実が証拠であるので、店主の言う通りなのだろう。年間を通して移動に制限がある彼と、自由なわたしでは環境の慣れを比べることが出来ない。
半信半疑でそうかと頷く。
「跡取りを失ってさぞお辛かったでしょうね」
「そうですね奥様も亡くなりましたから、お家は混乱されたでしょう」
「…奥さんも?今のは後妻かな」
何故か、強くそこに意識が集中した。独り言として言葉が薄れたが、店主は答えを返してくれた。
「周りの静止を振り切って火の中に飛び込んで…結局母子二人共焼死されたのです。その後、旦那様が囲ってらした愛人を迎えたとか」
何か違和があるが、ぐにゃりと実感が無く気持ち悪さだけがある。何度も感じるこれは何かしらと焦燥が生じる。
「子供が出来ないために正妻になれなかった愛人の女がその子を恨んで、首を絞めて火をつけたのだと噂されたようですよ。」
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『子が出来なかったら幸いだったのに』
『あんまりな噂ばかりで。奥様がお可哀想でした。
しょうがない事ですよ。親なら当然、藁にもすがる思いでしょう。』
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「女の愛憎に、巻き込まれたなんて憐れだろう。酷い噂じゃないか」
耳の後ろに蘇った声に眉を顰める。
後妻に入った心痛は計り知れない。噂の真偽がどちらであれ針の筵だろう。
女主人を思い出す。怒りに満ちた気迫と眼。心象が合わぬ。
首を締めた証拠もなかろう。口がさない噂のネタとなった子供が一等憐れである。
苛々が積もる。
子供の死は後悔のばかりを生む泉だ。枯れることがなく哀しみを湧かせ続ける。
「旦那は何にお怒りですか?」
「聞かれると、わからんが…」
腕を組んで瞑目する。
あと味が悪い過去の話だ。
「可哀想じゃないか」
すねた声が出た。
なら愛人が飛び込んで焼死するのか?
どちらが亡くなってもあと味が悪い。子供が憐れだ。
何を考えているのか、正解などはない。過去にあった事件だ。
どうにも苦しい。額の汗を指で拭った。
「旦那は憐れんでくださる。」
はたと、店主を見やる。
その姿が悪夢で語らった女主人と重なる。
柔らかに笑んでいる。なのに思い出す。
感情が喉から出そうになり、形を喪って震えた吐息になる。
「店主はよく、お詳しかったですね。だいぶ手間が省けた気がするよ」
「案外、悪意ある噂は子供の耳にも残ります」
「当時を知る人はあまり残ってなくてね。誰が亡くなったなんて、どうだったかも曖昧だった。」
幽霊は女か。愛人に対する恨みだろうか。夫にではないのか。彼は火事から数年で亡くなっている。
自罰、生き残った者の罰はなにか。
「あと味が悪い話だ」
「でも、旦那。母が子を助けに火中に見を投じた。美談じゃありませんか」
「違う」
出した声は震えている。直感が口をついた。
言ってはいけないが、言わずにはおれなかった。
「…嘘だ」
まだ口にできていないアイスがドロドロと溶けて伝い、床に染みをつくっている。
胃の腑が熱い。
店主は理解しているのか、あるかないかの笑みのまま目を伏せる。
「真にして、下さいませんか」
落胆と悲嘆を嗅ぎ取った。
惑わされていた、最初から。迷い込んだのに気づかなかった。綿入の羽織。最初から可怪しかった。
何処からかけたたましい場違いさを感じさせて、柱時計が何時かを告げた。
店主が居住まいを正して告知する。
「名残惜しく思いますが、時刻で御座いますね。さぁさ、旦那、お早う戻りませんと暗うなりますよ。」
時計の音に混ざるように、どこかしらから人の気配が近付いてきているのが解った。
菓子屋だ、と歓喜して駆け込んでくる童子の足音が背中に聞こえた。
駄目だ。関わっては危ない。
「さぁさ、旦那」
にこりと品よく笑ってはいるが、その姿勢のどこにも取り付く島のない。
彼の背、後ろ戸の隙間から悲鳴のような風が流れ来る。嫌な臭いだ。木とニスと、数多が混ざった煙の臭い。
「一本隣でございますよ」
失敗したのだ。恐怖、焦燥、哀しみ…押し寄せる感情に堪らなくなって店を飛びだした。
ゼイゼイと息をする。
凍えた冬初めの乾いた風が、汗と熱と呟きとを攫っていく。口を覆い、余った手で寛げた着物を掻き合せる。ガタガタと震える鼻先に、何処かで餅を炙る匂いが掠めた。
冬だったはずだ、夏だったはずだ。
困惑した頭に、欠落した記憶がコチリとハマった。
次話で終わります。