ポートモレスビー市内
海水面が120メートルほど後退した異世界でのお話です。舞台は東南アジアからオーストラリアにかけてと、インドになります。
パプアニューギニアの首都ポートモレスビーは、港から高台までの斜面に建設されている。そのため、高台へ登るとそれなりに気温が和らぐのだが……赤道に近い熱帯地方なので、新年元旦であっても半袖シャツで充分なほど暑い。
ポートモレスビー市内には多くのキリスト教会が建っていて、地元住民が利用している。とはいえ、田舎では伝統的な宗教が盛んだ。森の精霊を信仰する宗教である。
そんな市内にある中学校で清掃の奉仕活動を終えたボブが、背負いカバンを肩にかけて、行きつけの食堂に入っていった。この辺りは港の近くなので、高台と異なり蒸し暑い。
ボブは二年生の男子学生で、濃い褐色肌の現地民だ。身長は160センチメートルほどで華奢。丸顔で黒の短髪パーマである。黒い瞳で太眉が特徴的といえる。
彼はキリスト教徒なのでロバートという名前で、愛称はボブ。両親と親戚も現地民で、白人との混血ではない。見た目は黒人なのだが、アフリカ系と異なりニューギニア島出身の地元民である。丸顔だ。
食堂は地元学生が主に利用しているようで、焼きそば、焼き飯の種類が多い。白ご飯もあるのだが、これは肉や魚料理と一緒の皿に乗せる形式である。
ボブは焼きそばを頼んで、砕いた氷を詰めたガラスコップに炭酸飲料を注いだ。それを飲んで一息ついている。背負いカバンは盗難防止のため、膝の上に乗せている。
「は~……掃除当番が俺だけだったとは。おのれ、チャックめ」
ボブの中学校では制服が指定されていないため、学生は普段着で登校している。今回の掃除もポロシャツにくたびれたジーンズ、それにサンダルという服装だ。一応、学生証は首からかけて吊るしている。
食堂内にはボブの他にも十数人ほどの学生がたむろして雑談をしていた。何人かはボブと知り合いのようで、手を振って挨拶を交わしている。しかし雑談には加わらないボブであった。
(むう……ラグビーチームが対戦相手じゃん。あっちの連中はサッカーだけど、これまた対戦相手かよ。またの機会にしようっと)
ラグビーとサッカーは学校の部活動よりも、市内のクラブチームの方が人気だ。日本でいうと少年野球やサッカーチームというところか。ポートモレスビー市内には多くの大小クラブチームがあるため、試合前になるとファンの間で険悪な雰囲気になりやすい。賭け事はしていないのだが……
ボブはクラブチームに所属しておらず、ただの一ファンに過ぎない。今回は残念ながら、ボブが応援しているラグビーとサッカーのチームとは別だったようだ。
ボブが焼きそばをパクパクとあっという間に食べ終えて食堂を出た。少し思案してから、足を学生アパートへ向ける。
(バイトの時間まで、まだ少しあるか……部屋で一休みしようっと)
港が近いこの区域は建物がゴチャコチャと建っていて、細い路地がたくさんある。建物はどれも比較的新しく、鉄筋コンクリート造りだ。屋根のある建物もあるのだが、多くは屋上があって洗濯物を干している。庭がある家や建物は少なく、ベランダもあまり見当たらない。
車が通る通りをボブが歩いていると、警報サイレンが近くの車販売代理店から鳴りだした。通りを歩いている人たちが一斉に歩く向きを変えて、その店から遠ざかっていく。ボブもそんな通行人と一緒に細い路地に入り、小さくため息を漏らした。
「はあ……また強盗かよ」
細い路地を少し進むと、車販売代理店のある後方から銃撃音が聞こえてきた。怒声と悲鳴も聞こえるが、構わずにさっさと前へ歩いていく。
ボブの時代では、パプアニューギニア政府の規制で銃所持が難しくなっている。そのため、強盗が使っているのは自作の銃が多い。これに密輸で取り寄せた弾丸と銃器の部品が加わっている。
ボブがいったん立ち止まり、周囲を見回した。ここは細い路地が入り組んだ場所で、ゴミが散乱している。通行している人は見当たらない。
(あー……この先には行かない方が良さそうだな)
ボブが別の大通りへ出る路地へ足を向けた時、視界の端にトーガ姿の者が入り込んだ。元日とはいえ、熱帯地方なのでトーガを着るような物好きは居ない。普通は薄手のシャツにズボンかスカート、靴という姿だ。
ボブが思わず視線をそのトーガ姿の者へ向けた。頭がトーガですっぽりと覆われていて、性別すら判明できない。そして、その者は別の細い路地に音も無く歩き去っていった。
小首をかしげるボブ。
(ん? 外国から来た観光客か? 道に迷ったとか?)
ボブが後を追いかけて、その細い路地に入った。トーガ姿の者に声を掛けてみる。パプアニューギニアの公用語には英語が含まれているため、ボブのような中学生でも流暢に英語を話す事ができる。オーストラリア英語だが。
「そこの人。迷子ですか?」
と、そのトーガ姿の者が振り返った。年齢は20代くらいの女性で、面長で彫の深い端正な顔立ちであった。トーガの中から巻き毛の黒髪が見える。身長は150センチメートルほどで華奢な体格だ。
しかし、人間ではなかった。彼女の肌は灰色で、瞳は黄土色である。
ボブが驚きながらも、軽く肩をすくめた。
「あー……魔女様でしたか。俺はキリスト教徒なので魔女と精霊に詳しくないんですよ。迷子ですか?」
パプアニューギニアの田舎では精霊信仰と併せて、魔女もそれなりに信じられている。ほとんどは悪さをする魔女ばかりのようだが。
魔女とボブに呼ばれた灰色顔の女性が、クスリと微笑んだ。こう言っては何だが、美人の部類に入るだろう。
「わたくしは魔族ですが、魔女なんかではありませんよ。迷子は、そこで行き倒れている魔術師です。炎天下を歩いて熱中症にかかったようですので、看病して差し上げなさい」
灰色顔の女性が路地の隅で倒れている魔術師を指さした。中年太りの男性で、身長は180センチメートルほどか。黒いローブ姿で、見るからに童話で登場するような魔術師っぽい印象である。
ボブがようやく認識した。
「あ。あれ? 今まで気づきませんでした。あわわ、これは大変だ」
灰色顔の女性が苦笑している。
「認識阻害の魔術を行使しているためです。わたくしが無効化しましたので、あなたが認識できるようになったのです。体を冷やしておきましたので、あとは水でも飲ませて差し上げなさい」
ボブが魔術師の身体に触れると、確かにひんやりしていた。感心しながら、背負いカバンに入れていた水筒を取り出す。
「おお。これが魔法ですか。すげー。水は2リットルあるので、これを飲ませますよ」
灰色顔の女性がうなずき、背中にアゲハ蝶のような羽を一対出現させた。極彩色に輝いている。
「魔法と魔術は別です。これはソーサラー魔術と呼ばれる魔術ですよ、人間。では、わたくしはこれで」
そう言って、灰色顔の女性が空中に浮かび上がった。極彩色の羽を優雅に羽ばたかせて、路地の上空へ飛び去っていく。そのトーガ姿もボブから十メートルほど離れると、かき消されるように見えなくなった。これも認識阻害の魔術なのだろう。
ボブが見送り、短いパーマ頭をかいた。
「あ……名前を聞くの、忘れた」
ボブが水筒の水を少しずつ飲ませていくと、黒いローブ姿の中年太り魔術師が意識を取り戻した。ボブから水筒を受け取り、一気飲みする。そして、安堵の表情を浮かべた。
「はー……助かった。少年、感謝するよ」
そう言ってから、腰ベルトに差していた短い杖を取り出し、自身へ向けた。ボブには聞き取れない言語で何か唱えると、一気に顔色が良くなっていく。ボブと同じく、濃い褐色の肌だ。瞳も黒緑色で細眉である。年齢は30代前半といったところか。
黒いローブ姿の中年太り魔術師が立ち上がり、その場で軽くジャンプして調子を確認する。満足そうにうなずいた。
「うむ。回復できた。この異世界へ環境調査に来たんだけどね、魔術があまり効かない世界って事を失念していたんだよ。うっかり脱水症状になってしまった。あはは」
ボブが空になった水筒を背負いカバンに入れて、灰色顔の魔族女性が案内してくれたと素直に話した。
「……という経緯でして。お礼なら、その魔族さんに言ってください。名前を聞きそびれてしまいましたが。ああ、そうでした。俺はボブ。見ての通り学生です」
黒いローブ姿の中年太り魔術師が短い杖をボブに向けた。
「ボブ……愛称だね。本名は……うむ、了解した。では、その魔族に会う事があれば、礼を述べておくよ。ボブ君にも礼をしておかないとな」
短い杖を腰ベルトのホルダーに戻して、黒いローブの袖から小さな黒っぽい石を取り出した。それをボブに手渡す。指の爪くらいの大きさだ。
「私の住む世界で入手したダイヤモンド原石だ。ポルクス型と呼ばれる、少々特殊な物だよ。記録されていた情報はすでに取得済みなので、もう用済みなんだ。これを渡そう。売るなり何なりすると良かろう」
ボブが少々困惑しながらも素直に受け取った。
「高価そうじゃないですか。水を提供しただけなんですけど、俺」
黒いローブ姿の中年太り魔術師が気楽な表情になって微笑む。
「原石で不純物だらけだから、宝石としての価値は低いよ。小遣い程度になるだけだろう。私はロマイ。ボブ君が住む世界とは別の、私が住む異世界にあるサフール王国の首都でウィザード魔術師をしている。魔術研究所にて招造術を研究しているんだ」
ロマイの異世界では、ボブの世界とは地形が異なっているそうなのだが、ここポートモレスビーがある場所もそのサフール王国領土内にあるそうだ。
ボブがとりあえず聞いてみる。
「あの。魔族はソーサラー魔術を使っていました。ロマイさんはウィザード魔術を使うんですね。違いは何でしょうか? 魔法とも違うそうですね」
ロマイが黒緑の瞳を細めて、口元を緩めた。
「ほう。なかなかに好奇心旺盛だね。良い事だ。ごく簡単に言うと、ソーサラー魔術は自身の魔力を使う。ウィザード魔術は魔神などと契約して魔力を供給してもらう。
ボブ君の世界では、その魔力供給が阻害されているようでね。私のようなウィザード魔術師にとっては、魔術を使いにくい世界なんだよ」
ボブが小首をかしげた。
「あれ? って事は、精霊とは無関係なんですね」
ロマイが肩をすくめる。
「それは精霊魔術だね。また別の魔術系統だ。他に法術もある。魔術と魔法との違いについては、使用する言語が違う。魔法言語は酷い環境汚染を引き起こすので、使っていないよ。魔術言語だけを使っている」
ロマイがウインクした。
「ちなみに、今もウィザード魔術を使用しているよ。私は異世界の者なのに、違和感なくボブ君と会話ができているだろう?」
ボブが「あ」と納得した。
「そ、そうですね。田舎に入ると言葉が通じない事がたびたび起こるんですが、異世界だともっと言葉が違うはずですよね」
ロマイが頬を緩めて肯定した。
「言葉は宗教によっても大きく規定されるからね。私はキリスト教徒ではなくて、魔神ツァジグララルの信徒だ。それでもこうして問題なく会話ができている。魔術言語の汎用性による効果だね」
その時、ロマイの黒いローブの中からアラームが鳴った。それを止めて、肩まで伸びている黒髪パーマ頭をかく。黒緑色の瞳に面倒臭そうな色合いが浮かんだ。
「あらら。私の世界へ戻らないといけなくなった。それじゃあ、これで失礼するよ」
そう言って、ロマイが短い杖を頭上へ向ける。同時に、足元から小さな魔術陣が出現して光り始めた。
「再び環境調査でこの世界へ来る予定だ。運が良ければ、また会えるかもね。では、帰還する!」
同時にロマイの姿が消えて、足元の魔術陣も消滅した。
ボブが目を点にして見送る。
「おお。すげーな、魔術」