初めての戦い
「…………本物の……異世界……?」
……実のところ、心の奥底でうっすらとそんな疑惑が降り積もっていたりした。
だって、この世界はあまりにも『リアル』すぎるのだ。
ゲームのようなUIやアイテムボックス、スキルは存在するけれども、粗さも継ぎ目もない現実と比べて遜色のないグラフィック、五感をフルに刺激してくる諸現象……まぁその、「おかしいな?」と思い始めたのはトイレの時だったりする。
いくらなんでもここまで現実を再現できる技術があったら、ゲームで使用されるよりも前にニュースで取り上げられて存在が知れ渡るに決まっている。そして色んな分野で活用されることだろう。
考えれば考えるほど、ゲームとして捉えるには無理が出てくるのだ。
アオオオオオオォン――
「ひっ」
近くにモンスターが出現したのか、ぐるぐると益体もない思考を続けていたわたしの耳に遠吠えが届いた。
そして。
ガンガンガンガン!!
「な、なに!?」
すぐ近くから、木で木を叩くような音が響いて「なにごと!?」と飛び起きるも、すぐに原因に思い至って頭を抱える羽目になる。
「あああああ!? わたしのバカバカバカ!!」
聖水を作ったものの、創造神降臨に気を取られて 撒 い て な い !!
モンスターを無視してこのまま寝る? ムリムリ! ただの木のドアにそんな強度はない!
家の中に撒いて聖域化したとしても、創造神関連のアイテムらしく屋外でなければ効果時間は短いし(それゆえダンジョンでは小休止程度しかできない)、そもそも室内が狭すぎて外側から石でも投げられればダメージを喰らうことになる。
なので、最低限家を囲むくらいの範囲で撒かなければ安心できないし……それをするには、目の前に迫っているモンスターを倒さなければいけない、ということになる。
「お、落ち着けわたし。ここは初期地点、強いモンスターはポップしない……はずだ」
ドクドクと痛いほどに脈打つ心臓を宥めるように深呼吸をし、自分に言い聞かせるように呟く。
遠吠えをして、木の武器を持ち、強化してない木のドアすらすぐに叩き壊せない程度の力であるならば、恐らく出現モンスターはコボルトであるはずだ。
ゴブリンと並ぶ、ゲーム内最弱の存在。
「それくらいなら……いける」
神のナイフと、ササっと作成した木の盾を装備する。金属どころか皮も入手できていないので防具はそれだけ。
ゲームならともかく「現実かもしれない」と認識してからは全然心許ないけれども、ないものはないのだから仕方ない。
覚悟を決め、ごくりと唾を飲み込み、ドアを叩く音が途切れた瞬間を見計らって勢いよく飛び出す!
「うわあああああ!」
「ギャン!?」
突如開いたドアに顔をしたたかに打ち付けられてひるんでいたコボルトに神のナイフで斬り付ける!
ああああ感触が気持ち悪い気持ち悪い!
それでも手を止めるわけにはいかず、心の中で叫びながら何度も何度もコボルトに斬り付けた。神のナイフだと攻撃力が弱すぎて、コボルトすら一撃で倒せないのだ。
「はぁ、はぁ……うぇっ……!」
やっとのことで事切れ倒れたコボルトを見下ろした。それが悪かった。ぐちゃぐちゃになった体と撒き散らされている内臓のグロテスクさに吐き気を催してしまったのだ。
耐えきれずにうずくまろうとするわたしは教訓を得ることになる。
周囲の安全確認をする前に気を抜いてはいけない、と。
「グギャギャギャ!」
「……がっ!?」
横合いからゴブリンに肩を斬り付けられたのだ。
軌道がずれたのはせめてもの幸いだった。頭に当たっていたら致命傷もありえたかもしれない。
しかし、肩とはいえ刃物のような何かで斬り付けられて、ゲームとは異なる『現実』な痛みに、耐性のないごく一般的な日本人が平静でいられるはずもなく。
「い、いったあああああいっ!!」
しかも痛みに加えて、ゴブリンは臭かった。とてつもなく臭かった。
鼻がねじ切れるんじゃないかというくらいの悪臭とのダブルパンチで、わたしはすっかり萎縮してしまう。
「ギャギャッ!」
「くっ……!」
痛みにのたうち回りたい気分に見舞われながらも、これ以上の追撃を避けるべく前へと転げる。それは誰がどう見ても無様な姿だったけれども、命を失うよりは遥かにマシだった。
後ろを振り返ったら、案の定ゴブリンは刃物――どこかから拾ったのか鉄製のナイフだった。錆だらけで今にも壊れそうなほどにボロボロだったが――を月の光に煌めかせ、振りかぶっているところだった。
盾を構えて攻撃を弾くことができたのはただの偶然だろう。目の前に何かが飛び込んできたら咄嗟に腕でガードしようとするのと同じ動作だったのだから。
『ワールドメーカー』はフルダイブVRゲームなので、コントローラーでキャラクターを操作するタイプではなく、自分の意思でキャラクターを実際の肉体のように操作するタイプだ。
よって、モンスターと戦うにはプレイヤースキルも必要となってくる。システムで動きを補正してくれるとかなかった。
曲がりなりにもメイキングマスターであったわたしにはもちろん数多くの戦闘経験があり、体の動かし方や効率の良い敵の倒し方などは知悉していた……はずなのに。
この時はなにも経験が活かせなかった。
作り物の体が実物の体のせいになったとかではない。現実よりは身体能力が高く、それこそゲーム内で動かしている時と変わりがなかった。
けれども。
本物の痛みに。痛覚だけでなく五感全てで叩きつけられる戦いの空気に。そして何より、ゴブリンの殺気に。
『初めて』の経験だらけで。
ついさっきまでゲームだと思っていたわたしの心が準備できているはずもなく。
生存本能に突き動かされるように、めちゃくちゃにナイフを振り回すことしかできなかった。
「この! このこのこのこの! 倒れろおおおお!」
「ギャ、グガッ……!」
……わたしが生き残れたのは、残るモンスターがゴブリンで、それも一匹だけだったからだろう。運が良かっただけなのだ。
ナイフを振るのに疲れてふと我に返った時、ゴブリンが血だまりに伏して死んでいたのには、悲しみか安堵か、涙がこぼれてきた。
ボロボロとこぼれる涙を拭うこともできず、鼻をすすり(そしてゴブリンの悪臭にまたえずき)、半ば無意識に聖水を撒き、草藁ベッドへと潜り込む。
「どうしてこんなことに……」
これもまた無意識に傷薬を使って傷を癒しながら――実際には一つ使用するだけで十分回復する程度の浅い傷だったのだけれど、無駄に三つとも使用してしまった。この時は本当に思考が正常じゃなかった――何度も何度も「どうして」と自問自答する。
どうして、の理由は簡単だ。
わたしがマヌケだっただけだ。
書かれてもいないことを勝手に脳内で自分の都合のいいように補完して、事実を調べることなく飛びついた結果だ。
すぐにYESを押さずに一度ログアウトしてネットで確認してみれば、誰もベータテスターのことなんて話題にしておらず、手違いか詐欺なんだろうな、とスルーしたことだろう。
会話の様子からして創造神に詐欺の意思なんて全くなかっただろうけど、真偽不明のことに不用意に手を出すなんて、詐欺師に引っ掛かるようなものである。
でも、きちんと確認せず安請け合いしたわたしが悪いのだけれども、さすがに『異世界転移』などという都市伝説レベルですらない創作のできごとに遭遇するだなんて、夢想はしても実現するだなんて誰も思わなくない?
……創造神に恨み言を吐いてしまっても、許されるべきじゃない?
そんなことをしても変わらず草藁はチクチクとわたしを刺すばかりで、「実は夢でした」、「ドッキリでした」などと元の世界に引き戻されることもなく。
わたしは、何度目かの涙をこぼす。
「……こんちくしょう……」
傷はとっくに癒えたはずなのにじくじくとした幻痛に襲われ、眠れない夜は続く――