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彼女は彼女の糸を切る

 始業式が終わり、数ヶ月後のことだ。

 陽気は春と夏のちょうど中間で、初夏と呼ぶには少し早い。僕たちは進路希望のプリントを、それぞれ眺めては笑いを漏らし、クラスメイトと肘でつつき合っていた。新しい世界に夢と希望を抱き、けれども少しの不安も抱いていた。


 進路は僕たちにとって大切なものだけれど、今の僕にはまだ『将来の夢』とか、『なりたい職業』なんてものはない。


 でもそれを怠慢だとか、個性がないとは言わないでほしい。だってイマドキの若者はほぼそうなのだから。今が楽しいと言うわけでもないのだけれど、学生時代の今を生きる僕たちは、それなりに必死で、それなりに忙しいのだ。


浪越(なお)


 瞬間息を飲む。僕ではなく『浪越ひより』が担任に呼ばれたからだ。

 彼女は軽く返事をし、進路希望のプリントを受け取る。


 彼女は僕にとって特別な存在だ。と言っても、恋人だとかそういう事ではない。まあ、彼女となら仮に何処かで浮いた噂が立っていたら、それなりに自己顕示欲を満たすし、ちょっとした優越感に浸れるのだろうけれど。


 浪越ひよりのことを話そう。

 ひとことで言えば彼女は不思議なひとだ。

 身にまとう雰囲気が、周りと少し違う。贔屓目に見ていると思われても癪だから少し補足すると、彼女は中二のはじめに転校してきた。桜雨の降る、ぐずぐずとした花曇りの日だった。


 担任に紹介されて彼女が教室に入った瞬間、皆が息を飲んだのを覚えている。

 それまで雨を滲ませていた空すらも、彼女が凛とした姿で一歩、また一歩と足を踏み出すたびにその道を照らしているように感じたほどだ。


 すらりと高い背に、細面で白い肌。卵型の輪郭の中央に、すっと鼻筋が通っている。涼やかな目元を彩るような泣きぼくろ。生粋の日本人ならばいないであろう、赤茶の髪に薄い赤の瞳。


 彼女のふんわりとした唇が、『浪越ひより』と名を告げる。


 はじめ僕は、彼女の色素の薄さに『外国人』だと大層驚いたけれど、彼女の目鼻立ちは日本人のそれで──まあ、くっきりしているとは思う。──その容姿に、なんとも言えない心持ちになった。


 さっきの言葉を訂正する。彼女は僕の初恋の相手、なのかもしれない。


 ──話を戻そう。

 彼女はなにかと僕と気が合う。僕が勝手に思い込んでいるだけかもしれないけれど、僕が知っている限り、彼女は群れることをあまり好まず、勉強が好きで、けれど特に孤立はせず、周りともそこそこうまくやり、ただし一人の時間は大切にする。


 それに気づいたのは僕が夏休みに図書館で勉強していた時のことだ。自動書庫と電源の取れる最新式のここは、その場で飲食が出来ない不便を除けば最高の暇つぶしの場所になる。もっとも、僕はその頃高校入試を控えていて勉強に専念したいと言うのもあった。


 家では何故か勉強が捗らなくて、雑多なカフェでの長居や、こういった図書館を利用するのがあまりお金のかからない勉強法だった。


 ノイズキャンセラーヘッドフォンをつけて資料を漁っていると、一本。赤いシャープペンシルが僕の視界に入り込んできた。ペンの頭には、当時クラスの女子が『可愛い』と話題に出していたフクロウのマスコットチャームが揺れていた。


 僕が顔を上げると、向かい合った机に彼女がいた。普段学校では見せない笑顔。何かを企むように、にんまりと笑い、唇の動きだけで「はよー」と言ってきた。僕も「はよ」と返す。


 僕は内心、心臓が跳ね上がったけれど、それだけ言うと彼女はすぐに参考書を開き、自分のルーズリーフに何かを書き込み始めた。

 僕を邪魔する気は無いのだろうと思い直して、机の個人利用時間ぎりぎりまで二人で勉強を続けた。


 彼女のことを一目置くようになったのはそのあたりからかもしれない。

 彼女の成績は学年上位に食い込むレベルなのに、ガリ勉というわけではない。ただ、僕と同じように、図書館で調べものをし、勉強をし、お腹が空いたら一階のラウンジ併設のカフェで軽食か、中庭でお弁当を広げる。


 図書館にやって来る時間帯は二人ともバラバラだけど、お昼を一緒に食べる事はあった。

 僕は大体おにぎり持参なのだけど、彼女はお弁当。ちんまりとしたお弁当箱にとろみのついたソースの掛かったミートボールや、ミニトマトやミックスベジタブルのバターソテーがカラフルに入っているのを横目に見て、『ああ、やっぱり彼女も女の子っぽいところあるなあ』となんだか変に感動していたら、彼女は少し唇を尖らせた。


「それは、セクハラだ」


 セクハラ。セクシャルハラスメント? と一瞬理解ができず、ようやくその言葉を飲み込んでから僕は首を傾げた。


向日(むかい)、デリカシーがない」

「なんで。褒めたよ」

 おにぎり二口目でようやくたらこが出てきた。自分で握っておいてなんだが、ちょっと米が多すぎた。炭水化物はすぐエネルギーになるけれど、脳の働きがその分鈍くなるから午後の勉強に身が入らなくなりそうだ。


 再び横目で彼女を見ると、箸が止まっていた。というか、ピタリと体の動きが止まり、彼女の肩下までの長い髪の幾本かが、薄い束になって風にそよいでいた。僕は不思議に思い、彼女の横顔を覗き込んだ。


「外見だとか、女の子だからだとか、そう言う『らしさ』を求める人はいっぱいいたけど、本当の『浪越ひより』を見る人はいない。だから一人がいい。向日も、こっち側なのかと思ったけど、違うの」


 彼女の言わんとすることが瞬間的に理解できた。そうか、だからいつも『僕』なのか。


「ごめん」


 僕が謝ると、彼女は少し、笑ってみせた。


 皆、彼女のことを『可愛い』と言う。女子の言う『可愛い』は何にでも付くから当てにならないけれど、男子の目は結構的確というか、野生的なものだから、彼らがその言葉を使う時は『モノにしたい』という欲が存在する。それは可愛い子をそばに置きたいという一種のステータスだとか、僕が稀に抱くような自己顕示欲、究極なところ色欲だ。なにしろ思春期真っ盛りだったのだから、そこは大目に見て欲しい。


 彼女が僕を選んだのはきっと、そのあたりの事情だったのだろう。自分で言うのはおかしな話かもしれないけれど、僕は無欲で無害な方の人間だ。


 無難に公立高校の進路計画を立てた僕に、なんと彼女はついてきた。彼女の成績なら有名私立にも入れたと思うけれど、本人がそうしたいと言ったらしいから止めようがない。けれど今回はそうはいかない。大学への進学。果ては就職に関わる。うんざりするけれど、今の日本では背負う大学がステータスだ。


 進路相談のプリントを貰った帰りに、久々に図書館に寄った。僕の人生は紙切れ一枚で決まるのかと少し情けない気持ちになったが、図書館の静けさと、少しカビた臭いに段々と落ち着いてきた。書架に並べられた赤本や青本や黒本を手に取り、ぱらぱらと捲る。興味を持たなければいけないけれど、どの本のどの文字列も数式も頭に入ってこない。仕方なく適当なものを選び、机に運ぶ。


 なかなか集中できない時間が過ぎた頃、彼女がやってきた。僕を見るなりいつかのにんまりとした笑顔を向け、指でちょんちょんと下を指す。一階のカフェへ行こう、と言う合図だ。


 彼女はクリームソーダをつつき、僕はアイスコーヒーを。彼女はうつむきながら首を傾げて、だらしなく両肘をついていたから、僕がそれを指摘すると、彼女はソーダスプーンを一回、グラスの中でくるりと回してから口を開いた。


「カリフォルニアACに留学決めた」


 彼女の言葉に、僕は耳を疑った。もうそんな先を見据えていたのか。


「P大じゃなくて? 美大ならあそこが一番だけど」


「うん。前々から、服飾やインテリアなんかより映像がやりたかった。それに……」


 彼女が一呼吸置く。飲み込んだものは、何となく察しがついた。これからの世界が不安なんだ。僕も何だか寂しいけれど、同時に世間一般で呼ばれている、彼女をとりまくしがらみだとか、彼女を雁字搦(がんじがら)めにしている見えない糸を断ち切るいい機会だろう。


 そう、僕は。唯一彼女が『こっち側』と認めた相手だと思うから、何も迷うことはないと背中を押してやる。


「いってらっしゃい。これでやっと、自由だね」


 彼女が顔を上げる。すると、彼女の色素の薄い瞳に、透明な膜が張っていた。するりと左頬の泣きぼくろを掠めて、一筋だけ涙が伝う。


「ありがと。向日は分かってるね」

「まあ、それなりには」


 この日の事は、いくつになっても鮮明に思い出す。彼女の目からこぼれ落ちた一粒の涙は、彼女の表情から推し量ることはできなかったけれど、決して哀しみからくるものではなくて、未来を期待しての嬉し泣きだったんだろう。表情が揺らがない彼女だけれど、僕が導き出した答えはきっと、間違ってはいないはずだ。


 さて、僕と『浪越ひより』のその後の関係について話そう。


 彼女は己の苦楽を共にしながら、今日も遠くの空の下、自分の夢に向かって映画を作っている。もうすぐ向こうで彼女の名前がクレジットされた作品も決まるそうだ。

 たまに彼女から送られてくるショートフィルムは、彼女の眼に映っているであろう景色、色、世界が切り取られている。


 どれも色あざやかで独創的だけれど、観終わると心の何処かに懐かしさを覚え、彼女のぬくもりを感じる。


 エンドクレジットには必ず「I want to see sunflower fields」と添えられていて、それは僕と彼女だけが知る(しるし)になっている。


 最後に。僕の名前は、向日葵(むかいあおい)。太陽に焦がれ、光を待ち望む。


 いつか彼女に再会したら、僕も、僕自身の糸を断ち切って、本当の向日葵(ひまわり)のように真っ直ぐに、太陽に向かって自由の花を咲かせたいと思う。

ネットプリント折本企画の為、以下奥付より。


この度は「彼女は彼女の糸を切る」をお手にとって下さいまして、本当にありがとうございます。

本を出すという事がとても久しぶりのことです。

このお話を思いついたのは、ある一枚の投稿イラストからでした。

わたしはその頃掌編を主に書いていましたので、その素敵なイラストに心躍らずにはいられませんでした。

幸いなことに、フジシマユウリ様ご本人からイラストの使用許可が下り、今回の発行に至りました。

楽しんで頂けておりましたら幸いです。


ネットプリント企画は今後も不定期にやっていくつもりですので、そのときまた、お目にかかれるのを楽しみにしています。



この作品はフィクションです。作中で描写される人物、出来事、土地と、その名前は架空のものであり、土地、名前、人物、または過去の人物、商品、法人とのいかなる類似あるいは一致も、全くの偶然であり意図しないものです。


This is a work of fiction. The characters, incidents and locations portrayed and the names herein are fictitious and any similarity to or identification with the location, name, character or history of any person, product or entity is entirely coincidental and unintentional.


「彼女は彼女の糸を切る」

タイトル・キャラクター原案・フジシマユウリ


※この本のタイトルおよびタイトルイラスト、キャラクター原案はフジシマユウリ様に帰属します。


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― 新着の感想 ―
[一言] ご作品読ませていただきました! (名前がある)登場人物が2人だけなのにその2人を中心としてしっかりと物語が回っていて良いなと感じました!(素人目線) これは個人的な意見ですが2人が再開した話…
[良い点] まず数十行読んで思ったのが、慣れた文を書かれるな、ということです。素人の文ではありません。ある程度の訓練が窺える文です。 [気になる点] 「進路は僕たちにとって大切なものだけれど、今の僕に…
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