ある老人の末路
前日にて消えた老人の話
老爺は、はたと足を止めた。
視線を下ろせば、作ってから二十余年、一度たりとも汚したことの無かった自慢の仕込み杖が、血と脂にまみれていた。
我に返った。周囲で怯え尽していた麻袋たちはそう感じた。
彼らの主人である老いさらばえた御仁は、狡賢く知略に長けるタイプで、自ら前線に出ず黒幕がよく似合う人物であった。故に麻袋はいつの間にか借金の渦のど真ん中に突っ込まれて、麻袋を頭から被る茶番に連れ回される羽目になっているのだが。
そんな老爺が子供のように無垢な目で、心底驚いた表情をしている。これは由々しき事態だった。
「……儂は、何故、こんなことをしておる」
白かった足袋は刃と同じく赤黒く、ぬめりとした感覚がして気持ちが悪い。
自分の手も足も、これまで通してきたやり方さえ汚して、何をしているのか。
さっきの奇妙な高揚はなくなり、突然現実に引き戻されてしまえば、状況を把握することは至って簡単だった。
傍から見ればこうだろう。突如として気を違えた老害と。
客観的に見ても主観的に見ても、どう見てもそれ以外には解釈のしようが、なかった。
「お嬢ちゃんから物を取りたくば、いくらでも方法はあった。であるのに、何故、儂はこんな凶行に出た。儂は何を考えておった。儂は」
麻袋はおろか、自分でも答えを出せない自問自答。
一つだけ言えるとすれば、先ほどまでの状態はまるで、別人そのものだったということだけ。
「ま、過程も顛末もどうでもいいんですがねぇ」
呆然としていた老爺の背後、籠った声が溜息混じりに呟いた。
振り向くと、金属面を被ったオークションの司会者が立っていた。
相変わらず表情もへったくれもない金属面は、間近で見れば鏡のように磨き上げられていることが今さらわかった。
映りこむ老人は、自身に起こった不可解な出来事に脂汗を浮かべていた。
「さて、ご老人。あんたぁ、禁止事項をまんまと破っちまったわけだ」
司会者より後ろ、玄関方面から苦し気な声やくぐもった声が聞こえる。
老人は部下を麻袋と認識し、その個々の個性は丸っと剥ぎ取っていたわけだが、しかし遠い声がすべて連れてきていた麻袋たちのものだと理解するには時間がかからなかった。
細身の司会者の腕から向こう、会場スタッフに容易く後ろ手に縛られていく様が見えたからだった。
体格の良い男衆を連れてきた。それなのに、すでに制圧済みとは。
「もしもーし。呆けるのは勝手だけど、あんたもああなる運命ですよぉ」
「……儂を、誰と知って言うておるか。若造め」
手にしていた刃先を仮面の隙間に差し込もうとする。
目視できる限りでは、司会者やスタッフの仮面は喉仏まで覆う形をしていたが、極めて人間的な動きを可能にしていた。首と頭部のパーツで分かれているのだろう。そうでなければ大袈裟すぎるリアクションは機械じみた可動域に制限されていたはずだ。
狙うは、首と頭部の隙間。
脳天を貫かんと鋭く突きを入れた。
が、老人の刃は、金属音を響かせて司会者の掌が遮ることとなった。
「……手甲までつけておるとは」
「ふへっへへ」
「何を笑っておるか」
「そうさなぁ……まず、遠野貴一彦。あんたのことはよぉっく知ってるさ。トーノホテルの創始者だものな。有名人じゃあないか」
ステージ上でもそうだったが、小馬鹿にした態度、ピエロのようなリアクション、司会者はあまりに場にそぐわない小物さだ。
目の前に、世界中にホテルを展開する遠野グループ創始者が頭の血管を切らんばかりに顔を真っ赤にしていてもこの道化っぷりなのだから。
何故余裕ぶっているのか。第三者からしたら顔面蒼白物の無礼千万。時代劇のような縄に縛られた麻袋たちがハラハラと見守っていても、司会者はカラカラ笑うだけ。その中に刃を砕く音が混ざってもお構いなしだった。
「いやねぇ、残念だ。ご隠居がこんな屋敷を墓標にしちまうってんだから」
「死ぬことを前提に話すでない。馬鹿者が」
「おや、馬鹿とは随分。そっくりそのままお返ししましょう」
手甲の指先がカキンと軽い音をたてた。
音も立てずに老爺、遠野貴一彦の背後を取ったスタッフが、未だ刃物としての機能を失っていない先折れ杖を奪い取り、手首に縄を回していく。
遠野は呆然とそれを見ていた。
そして次の瞬間、背中から腹から、顔から汗が噴き出した。
枯れた盆栽程度の老人が、部下を失い敵地にいる。禁止事項を破ったことがすべての発端であり、案内状通りに事が進むなら、処置をされる。
道化は、墓標と言った。
てっきり法外の修繕費を請求されるものとばかり思っていた。自分の地位を示せば腰を低くして謝罪をされるものとばかり思っていた。
そんな老人が、ようやく事の重大さに気が付いた。
「ま、待たんか! 今日の資金は全部やる。部下もくれてやろう。どうじゃ、儂は見逃すだけの対価はあるぞ!」
必死な声であった。
縄はすでにかけた本人でもほどけない形で結ばれた後。素手での脱出は不可能。
元より、冷静さを失った老人には出来ぬ芸当である。
司会者は顎らしき位置に手を当てて首を捻ってから、耳らしき位置に手を添えて遠野の顔を覗き込んだ。
「はい? たった二億六千万の金と、健康体の成人男性十七人と、穴だらけの成人男性遺体一体と、何が釣り合うって?」
「じゃから、儂の命じゃよ。お主は金が好きじゃろう。わかるぞ。よくわかる。何なら、後払いで幾らか上乗せもしよう。のう、どうじゃ、見逃してくれんか」
金額に感動するタイプの人間だということは、オークションで把握できる特徴だった。
二億六千万が懐に入り、部下十七名を得られれば申し分ないだろう。男は何かと使い道もある。力であれ、中身であれ。遺体の処理は手間が掛かろうとも、十分すぎる利益が司会者に舞い込む。
遠野は汗まみれの顔でにたりと笑っていた。
これで大丈夫だと。
司会者は、二億六千を何度か呟いた後、遠野の手を掴んでこう言った。
「俺が欲しいのは、廊下の床板と絨毯の代金であって、あんたの命の代金じゃあねえんだわ」
遠野は、死刑宣告は何度もしてきた。
使えない従業員、従わない事務方、腹黒い幹部、足を引っ張る側近、態度の悪い妻。
死刑宣告をされたことは、なかった。
「い、いくら払えばいい。いくらでもいいぞ。儂の総資産を知っておるか!?」
「あー……何か勘違いしてるみたいだねぇ、遠野のじいさん」
取り乱す遠野の背中を押して、階段まで無理に歩かせる。
背後からは冷たい手甲の感触と、冷めているのに愉快そうな響きをした声。
「あんたの価値なんざ、こっちがつけるんだよ。何が二億六千と十七人の命で対価だ。手前にそんな価値はねえよ。なんでかって? 書いてあったろう。『本会場に損傷が出ました場合、然るべき処置を致しますので、あしからず』ってな。処置は簡単。手前らの価値の剥奪だ。んでもって、今やってるのはゴミ掃除だ。リサイクルしがいのあるゴミばっかりで嬉しいぜぇ」
さぞ、嬉しそうに笑っていることだろう。
上機嫌に「会場へご案内ぃー」と言いながら、司会者は最後尾を歩いている。
先頭はすでに一階へ着いた数人のスタッフと足元に転がる麻袋。階段から降りる二人の麻袋より遅れてくる遠野は、急に老け込んだように焦点の合わない目で何かを呟いている。
誰にも聞き届けられず消えていく呟き。足元もおぼつかない。
一段、二段、ゆっくりと降りている最中に、ぬるつく足袋が、血が、つるりと足を滑らせて。
「あ」
っという間に、老人は階段を転げ落ちた。
幸い階下のスタッフは無事だったが、寝転がっていた麻袋は、遠野に巻き込まれて落下した他の麻袋の下敷きになっていた。
呻き声とそれぞれの泣き言から察するに、皆一様に骨を折ったようだ。
慌てた様子もなく、司会者は軽やかに降りてくる。
「あーあー、なぁにしてんだ、このじいさん。ひっでえ。健康体の成人男性が一人もいなくなっちまった。そんでもって、なんで一番上に着地したじいさんが、やったらめったに骨折り散らかしてんだ。そいつらクッションになったろう」
見るも無残な様は、間違いなく遠野だった。
十七人の上に落ちた老体は、遠目で見ても両手両足を各一本ずつ骨折しており、顔に至っては鼻からぐしゃりといっている。
骨粗しょう症だったのだろう。深く問われることはない。
不思議なことに、前歯も眼球も無事だったようで、遠野はひゅうひゅうと息を吐きながら蠢き、司会者を見た。
「……い、いしゃに……びょう、いん、に……」
当然の要求だろう。痛みに意識も朦朧とした憐れな老人を、まさかこのままリサイクルへ出すなんて、そんなこと。
人間ならばできるはずがない。
これを最後のチャンスと言わんばかりに遠野は、器用か必然か、涙を一筋溢して見せた。
可哀想な老人。憐れな老人。老い先短い老人。
懇願をありったけ詰め込んだ言葉に、司会者はしゃがんで首の後ろを掻いた。
「あ? ゴミは病院じゃなくて処理場行って相場が決まってんだろ。寝ぼけてんのか、死にかけてんのか。まあ、あれだ。死んでねえなら使い道はたっぷりある。安心しろよ、じいさん。あんたほど恨みを持たれてる奴ってそうそういねえからよぉ……買い手は山ほどいるぜぇ」
遠くで会場の声が聞こえる。
つい先ほどまで、自分も参加していたオークション。
立場が変わる。買い手から、品物に変わる。
重傷の体を手当てされることもなく運び込まれた会場を、不幸にも無事だった目が見渡した。
いくつか、見覚えのある顔がある。
使えなかった元従業員、従わなかった元事務方、腹黒かった元幹部、足を引っ張った元側近、態度の悪かった元妻。
爛々とした目で、狂気を満たした目で、遠野を見つめる、顔、顔、顔。
司会者の耳障りな金額のコール。狂ったように手を上げる参加者。
遠野は、折れた骨でひしゃげた顔と、潰れかけた喉を引きつらせると、最後に小さく、ひっと鳴いた。