前日 5
彼女の言い方は、そういう意味にしかとれなかった。
つまり、彼女は金が欲しくて死んでもいいと思っているのだろうか。本末転倒甚だしい。老人の理解の範疇を超えている。怯え立つ三人の麻袋も、外に控えているだろう麻袋達も、最初は確かに金欲しさに縋ってきたが、今は命があればと日々よく言うことを聞く駒になっているのに。
寧ろ多くの人間が命を前にすれば他の何物も差し出すだろうに。
彼女は欠伸をした。そして手にしていた注目の的を眺め、輝きにため息を吐いた。
「おじいちゃん、その言い方だとさぁ、まるで私が金の亡者みたいじゃない。命を無価値と見なして見下してる下衆みたいに。とんでもない勘違いだわ」
嫌悪だ。
今の彼女の表情は、嫌悪だ。
向いた先は老人、そして無邪気に光るスフェーンの【肝臓】。
「私は私の命は千円だと思うわけよ。それと十億なんて、比べるまでもない。零の数がちっとも違う。ほら、簡単な算数。この子だってできるわ」
「千円程度の命。それは無価値に等しいのではないかの」
「千円に泣いたことないわね、おじいちゃん。一回苦労してみたらいいんじゃない。欲しいものが千円足りなくて泣く泣く棚に戻す悔しさったら、最悪よ」
五億も払ったのだから、千円なんてはした金にしか聞こえないが、最悪を吐き捨てるように言っているからには本気なのだろう。
確かに解釈が違った。
「つまり、君は金額の比較をした上で売れないと判断した。商談としての結論を、正当に導き出したのか」
少年は理解できた。
命に値段なんてつけるものじゃないと誰もが口を揃えて言う言葉を、彼女は否定する。
「価値なんて人間が勝手につけて勝手に満足するものなんだから、私が私の命を千円だと決めることに、おじいちゃんの物差しを使われると困るわけ。わかる? あくまで私は商売としての話を貫く。おじいちゃんと違ってよそ見はしない。おじいちゃん、十億以上を払う気がないならもうこの話はおしまいよ」
揺るがない。交渉はとうの昔に決裂していたのだから。
彼女の持論に、麻袋達が姿勢を低くする。
決して感動したとか絶望したとかの感情的な動作ではなく、ラガーマンのタックル体勢そのものだ。体型的には球児や陸上方面だが、ダメージよりかは拘束狙いだろう。老人の指示がなくとも行動に移ったところを見るに、よほどしっかりとした教育を施されているらしい。
老人は杖を下ろして残念そうに首の後ろを掻く。
「ふうむ……儂も若くはない。できれば穏便に事を済ませてしまいたかったのじゃが、致し方なしかの」
空いた手を上げた。そして前方に、振り下ろした。
同時に中腰で突進してくる。流石に大の男三人を捌くだけの身体能力などなく、避けようにも狭い廊下では後退するしかない。最悪なのは、この廊下にも窓や扉がない、ただの通路だという点だ。やはり欠陥住宅じゃないかと舌打ちが出た。
少年側に走ろうと振り向きざまに足を踏み出した彼女は、横を通り過ぎる少年に押しのけられ、壁に背中を付けた。
強い力で押されたわけでもないのに抵抗できなかった。
少年を動かすことができなかった。
前に出て行く小さな黒い影。幼い子供にも躊躇することなく、三人の男は渾身のタックルを決めた。
嫌な音が、した。
彼女に骨折の経験はないが、漫画や小説、映画やドラマで簡単に表現される音。
小気味よく現実味がないほどに容易く、骨の砕ける音。
軽い体が三倍の力で吹き飛び、廊下の一番奥に叩きつけられる。
「うわ」
感想なんてそんなものだ。
可愛らしい悲鳴や悲壮に満ちた声を期待している輩なんてこの場にはいないだろうが、彼女の声は正直低く出た。
仮にも少しばかり行動を共にした、というか、小さな子供の虐待を超えた暴力沙汰を目の当たりにして、うわ、の一言を添えた引き気味の顔はどうなのだろうか。大人として、人間として何か欠落しているのではと思われても仕方ない。
が、人間として出来ていなくても、彼女は戸惑い狼狽える男たちを見逃しはしない。
恐らく標的は彼女であり、少年ではなかった。命令に失敗したため怯え、次の老人の一声を死刑宣告の如く待つしかできないのだ。教育様様である。
踵を無くした元ヒールは走りやすく、木偶の坊もいることが幸いして最奥まで一直線だった。
壁際でぐたりと四肢を投げる少年に近づいた。
たまたま、近づいた。
はっきり言って呼吸特有の体の上下は見られず、ぴくりとも動かないのだから死んでいるのだと判断できる。控えめに見積もって即死だ。だから助けるという選択肢は毛頭存在せず、無視して一目散に窓から脱出するつもりでいたのだが、骨折よりも耳障りの悪い音が背後からすれば、思わず確認してしまった。
「ゴミは捨て置くに限る。そうは思わんかね?」
さっきまで彼女を捉えていた刃が、中央の麻袋の胸から飛び出していた。
男の醜い嗚咽が血と一緒に吐き出される。
命あっての物種だと説教を垂れていた老人が、命を奪っていた。
体に対して水平に刺し込まれたそれを抜き、どうと倒れた麻袋を踏みつけて、老人は死にかけの背中に何度も赤い凶器を突き立てた。
刺さる音はしない。聞こえるのは床に突き刺さる時に出ているのだろう削る音だけだ。
一心不乱の刺突。
彼の目は僅かに血走っていた。
「儂は穏便に済ませることが何より好きじゃ。自分の手を汚すことが嫌いじゃ。わかるかの、のう、わかるかのう」
誰でもわかる矛盾をぶつぶつと吐き続けている。
彼の本来の人柄は知らないし、知る必要がない。ああ言っているが今まさに起きている殺人が彼の日常茶飯事で、平然と嘘をつくタイプなのか、あるいは今まさに起きていることは本気で不本意の、予定外の感情的行動なのか。
どちらにしても憐れな麻袋の一人はとっくに息絶えているし、床は上等な絨毯諸共穴だらけだ。
屋敷全体が騒がしくなる。表に待機していた予備の麻袋が突入してきたのだろう。ある意味では手遅れなのだが。
肩で息をする老人は、血と脂でぎとりとした刃を改めて抜き、穴だらけの死体を超えて二人(少年はすでに事切れているが)へ向かってきた。
「仕込み杖を持ってはいたが、使ったのは初めてじゃ。よう斬れる」
「よく人を殺して平気ね。慣れてるとか?」
「なんじゃ? よう聞こえん。何か言うたかの」
会話が成り立たなくなっている。これは彼女も予想外だった。
経験の話をした。彼女ほど多くの人間の本質に、多くの方法で触れた人間はなかなかいないものと言っておく。本質や本性は表に出ると、意外にも違和感なく受け入れられるものだと何度も経験していた。
この状況は違和感しかない。
老人にあったのは怒りや敵意や悔しさや、高みの見物を決め込む余裕だった。
今の彼には、強い殺意と喜びしかない。
斬れたことへの歓喜。次の獲物がいることへの感謝。
そこに肝臓への関心はない。
まるで別人だ。
「オレを、窓から投げろ」
眼球だけが本能的な動きをした。
彼女は一等危険な存在に成り上がった老鬼を、視界から外してはならないと確かに考えていた。なのに、今は横で体半分が潰れた遺体を見ていた。
髪の隙間から、少年は彼女を見ている。
声と同時に吐き出されたであろう血の塊が口の端にこびり付き、目頭も赤い涙を抱えていた。
死にかけているなんてものじゃない。
死んでいる。
「投げて、オレの上に、着地しろ」
二階以上の高さを持ったここの窓から飛び降りようものなら、運が良くて両足粉砕骨折、運が悪くてプラス内臓損傷および下半身不随ものだ。仮に少年の遺体らしきものをクッションに使用したところで何の役にも立ちはしない。明確な事実と結果だ。
それなのに、彼女は一番手前の両開き窓を開け放ち、少年の遺体を下へ放り落とした。
そして、躊躇いなく飛び降りた。
彼女が自身の異常な行動に気づいたのは、窓のサッシから足の裏が離れた瞬間だった。
浮遊感に内臓が浮き、ただ根性だけで抱えた【肝臓】を離すまいと力を籠めるだけ。
後はただ、着地するだけ。
全部思考を必要としない反射。
ドスン
重い音、感じたことのない振動、ぐらついて尻餅をつく。
「……は?」
【肝臓】は当然、無傷。そして何故か、両足も無傷。
薄暗い視界で見えている限りだが、足は健在、骨が皮膚を破って突き出していたり、原形をとどめないなんて想像は無駄に終わった。
そんなはずはない。全体重で、受け身も取らずに無事なんて、ありえない。
「退いてくれるか」
いや、と無茶苦茶に飛び交っていた思考を、彼女は停止する。
もっとありえないモノが、足の下にいた。
三人がかりの体当たりを自分から真正面に受けて、壁にその力のままぶち当たり、幼い骨が音を立てて砕かれて、内臓も破裂しただろうし脳にも損傷が出ただろうし、窓から落とされて、地面に激突して、約五十キロの人間がトドメを刺した少年が、また喋っている。
壁際の段階で死んでいた。生きているはずがなかった。
だのに言葉を発していて、今もこうして変わり映えしない声で退けと言う。
足を見る延長線で下敷きになったソレを見る。
「言葉はわかるだろう。退いてくれるか。動けない」
凹んだ腹部も、零れていた血も、ぐしゃぐしゃだった腕も、元通り。
「あんた、何なの」
「その答えは持ち合わせがない。が、仕事はこなした。君の命の代金、千円を頂こう」
屋敷の中でひとしきりの騒ぎが起きたと思えば、急に静まり返った。
彼女を助け、老人の一味を再起不能にできたという完了の静けさでもあるのやもしれないが、全てがどうでもいいことだった。
とんでもないモノに出会ったのかもしれない。いや、最悪なモノと契約してしまったと気づいたが、最早、遅い。
融通の利かない少年風のソレは、確かにその目に彼女を映していた。
前日はおしまいです。前日なんて長さじゃないです。