銀色の壁(二)
次々と不可解なことが起こる。川で溺れたことも、この間トラックが突っ込んできたことも、ただの事故のはずがない。偶然が重なったとも思えない。
誰かが、わたしの命を狙っている……?
まさかと思いながらも、どうしても否定しきれなかった。実際、自分に向けられた不気味な力を感じたのだから。
あれは、明らかに殺意だった。
留以花はだんだん息苦しくなり、あえぐように息を吐いた。腕には鳥肌が立っている。
「あー、ここ重要だからな。受験に出るから、しっかり覚えておけよ!」
教師の声がぼんやり聞こえる。周囲の生徒たちが真面目にノートを取っている気配がするが、全く授業に身が入らなかった。
どうしてわたしが襲われるの?
あの銀色の壁は何?
考えても考えても、全く答えにたどり着けず、留以花は両手で顔を覆った。
「——!」
また、全身が凍り付くようなおぞましい視線を感じた。同時に、低い地響きとともに学校全体が沈み込むように揺れる。生徒たちの悲鳴がわき起こった。
はっと顔を上げると、クラスメイトたちが次々と、力なく倒れていくのが見えた。机にうつぶせに倒れる者。目を閉じて椅子に寄りかかる者。床に崩れ落ちる者。教壇に立っていた教師も、音を立てて卒倒した。
「な……」
留以花は思わず立ち上がった。
教室の中をぐるりと見回し、あまりの光景に絶句する。
自分以外のすべての人が、気を失っていたのだ。
「みんな……。どうしてこんな……?」
足元がうごめくように揺れている。
地震とは違う、不気味な振動が恐怖を煽る。
窓ガラスが微かに震え始めたかと思うと、それはあっという間に激しい振動に変わった。ガラスに次々と走る大きな亀裂が、外の風景をばらばらに刻んでいく。
次の瞬間。
耳を刺すような衝撃音とともに、すべてのガラスが同時に内側に砕け飛んだ。
鋭く尖った破片が、ただ一点だけを狙って飛んでくる。
「きゃああぁぁ!」
留以花は高い悲鳴を上げ、頭を抱えてきつく目を閉じた。次の瞬間に訪れるはずの、激しい痛みを覚悟した。
しかし、僅かな衝撃すら身体に届かなかった。
自分を取り囲むように、たくさんのガラスが叩き付けられる激しい音がする。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、周囲を円柱状の銀色の壁が取り囲んでいた。
半透明の繊細なすりガラスのようにも見える壁は、信じられないほど強固だ。激しくぶつかるガラス片が、粉々に砕け散り床に落ちていく。
これは、あのときの——。
恐る恐る手を伸ばして触れてみると、滑らかでひやりとした感触だった。手で押してみてもびくともしない。
「ルイカ!」
自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、銀色の壁の中から目を凝らすと、机や倒れた生徒たちをかき分けるようにして、皓太が近づいて来るのが見えた。
彼は、教室中を飛び交うガラス片を、左腕を目の前にかざして避けている。
「コウ、危ない! 来ちゃだめ!」
しかし彼は難なく銀色の壁にたどり着くと、ガラスを粉砕するほどの強固な壁を、するりとすり抜けて中に入ってきた。
「な……んで?」
驚く留以花に、彼が真剣な目を向ける。
「この中にいれば安全です」
目の前にいるのは、紛れもなく皓太だ。
だけど……違う。
彼は、コウじゃない。
「……あんた、誰?」
そのとき、銀色の壁が軋むような音がした。壁の外側から、巨大な力で握りつぶそうとするような、強い圧力がかかるのを感じる。
「まずい」
皓太の姿をした男は、怯える留以花を右腕でかばうように抱き寄せた。そして左腕を伸ばし、掌を銀色の壁の内側に押し当てた。
「はっ!」
男が気合いを込めると、彼の全身から銀色の砂のようなものがぶわりと立ち上り、それが左腕を伝って、壁に流れていく。
内側にたわんで不安定になっていた銀色の壁は、あっという間に強度を高めた。
外部からの圧力は、叩き付けるほどの衝撃に変わったが、銀色の壁はびくともしなかった。
やがて、外からの衝撃がふっと消えた。飛び回っていたガラス片も、激しい破砕音と共に、同時にすべて床に落ちた。
その後は、しんとした静寂。
男は大きく息を吐き出すと、留以花を抱き寄せていた腕から力を抜いた。
「ようやく、諦めたようですね。もう、大丈夫です」
その声で、自分が男にしがみついていたことに気づく。留以花は慌てて彼から離れようとしたが、すぐに背中が壁の内側にぶつかった。
一体、この人——。
皓太にしか見えない男を、もう一度確認しようと彼の顔を見た。
「——!」
留以花はその顔を一目見ると、恐怖に大きく目を見開き、声にならない叫び声を上げた。そして、背中を壁に滑らせるように、ゆっくりと崩れていった。
「ルイカ!」
男は慌てて右手を伸ばし、留以花を抱きとめた。腕の中の少女は、ぐったりしている。
「どうしたのですか。ルイカ。しっかり……」
何が起こったのか全く理解できず、左手で彼女の頬に触れようとして、男ははっと息を飲んだ。
「これは……?」
自分の左手の甲を目の前にかざして、まじまじと見つめる。
そこには、濃紺で刻まれた砂の文様が、指先にまでくっきりと浮かび上がっていた。
「なぜこれが、この身体に?」
その疑問が浮かぶと同時に、なぜ彼女が気を失ったのかを理解した。
きっと同じ文様が、左頬にも浮かんでいるのだ。
「この時代に、顔に文様を刻んでいる者など、いない……な」
彼は左手で、自分の左頬を隠すように押さえて苦笑した。
周囲を見回すと、教室の中は酷い有様になっていた。
床や椅子、机の上に崩れている生徒たちのほとんどは、ガラス片で怪我を負い、血を流している。辺りはまだ、静かなままだが、じきに騒然としてくるだろう。
男は留以花を人目につかない場所に移動させようと考え、抱き上げようとした。
が、すぐに思いとどまった。
——無理だ。
「なかなか、もどかしいものだな。コウ」
皓太の小柄な身体を恨めしく思いながら、男はため息を一つつく。そして、留以花をそっと椅子に座らせると、その場を立ち去った。