銀色の壁(一)
九月も終わりに近くなり、日が暮れるのが徐々に早くなってきた。空はさっきまでの重いオレンジ色から、ほとんど濃紺に染まっていた。車のライトが次々と交差し、家路を急ぐ人たちが足早に過ぎていく。
「わっ。もうこんな時間。遅刻しちゃう」
受験生の留以花が、駅前の塾に行こうと急いでいると、ぞっとするような冷たい感触が降ってきた気がした。
「何?」
直感的に、空を見上げる。
すでに一色に塗りつぶされた空には、目ではその色以外何も見えなかった。しかし、何か得体の知れない視線を感じて、恐怖で足がすくんだ。
そのとき。突然、強烈な二つの光が留以花を照らし出した。
けたたましいクラクションが響き、低く激しいエンジン音が耳を打つ。
身体が……動かない。
迫ってくる光がスローモーションのように見える。
助けて! 誰か……。
留以花は悲鳴を上げることすらできず、恐怖に目を見開き、その場に凍り付いたように立ちすくんでいた。
「ルイカ!」
強烈な光に飲み込まれると思った瞬間、光と自分との間に、黒い影が滑り込んできた。
ザッという乾いた音と共に目の前に立ち上がる、銀色の……壁。
突っ込んできた大型トラックは、その壁の向こうで滑るように方向を変え、地響きを伴う大きな衝撃音をあげて横倒しになった。
人々の悲鳴が上がった。
気がつくと、誰かに背中を抱きかかえられ、歩道に押し倒されていた。
眩しい光に目がくらんだせいで、自分をかばってくれた人の姿は、黒い影にしか見えない。
一瞬の間を置いて、今度は、落雷のような轟音。大破したトラックから、真っ黒な煙と巨大な火柱が吹き上がった。
「くそっ!」
目の前の人影が、振り向きざまに左腕を大きく振り払った。その掌から銀色の何かが放たれたように見えた瞬間、トラックを包んでいた激しい炎は、跡形もなく消えうせた。
黒い煙と、漏れだしたガソリンの臭いがあたりに立ちこめている。周囲は騒然としている。ショックに泣き出す者。大声で叫ぶ者。集まってきた野次馬たち。救急車や消防車、パトカーのサイレン音も近づいてくる。
「ルイカ、大丈夫?」
目の前の惨状に呆然としていた留以花が、その声にはっとした。
すぐ目の前に、意外な人物の顔があった。
「コ……ウ? なん……で」
「よかったぁ。怪我はない? どこもぶつけなかった?」
今、助けてくれたのはコウだったの?
そういえば、背中に回されている腕も、彼の腕だ。
「コウ……誰か……が」
ほっとすると同時に、身体ががたがたと震えてきた。今もまだ、不気味な視線が全身にまとわりついている気がする。恐怖のあまり、まともに話すこともできなかった。
「い……や! なんで、こんな……嫌! 怖い、来ないで!」
パニックを起こして叫び始めた留以花の頭を、皓太が慌てて両腕で抱きしめて、自分の胸に押し当てた。
「落ち着いて! もう大丈夫だから」
「あああぁぁ……助けて……コウ。誰かが……誰かがわたしを見ていたの!」
「大丈夫。誰もいない。もう大丈夫だから……」
「いや……怖い……怖いっ」
留以花が皓太のパーカーの胸元を握りしめて、泣きじゃくった。
「泣かないでください。大丈夫。もう大丈夫ですから」
耳元で、何度も何度も呪文のように繰り返される『大丈夫』の言葉。
普段の彼らしくない、落ち着いた優しい声。
小さな子どもをなだめるように、背中をさすってくれる手。
彼のおかげで、身体の震えは徐々に納まってきた。しかし留以花は、よく分からない違和感を感じ始めていた。
嫌な感じでは、ない。
だけど、何かが違う。一体、何が……?
留以花が握りしめていたパーカーを放すと、彼の腕も緩められた。
「もう、平気? ルイカ」
顔を覗き込んだ皓太が、ほっとしたような表情を浮かべた。
先程感じた違和感はもうなかった。
彼は、まぎれもなく皓太だった。
救急隊員から怪我の有無を聞かれたり、警察官から目撃者としての話を聞かれたりなどして、二人がその場から解放されたのは、事故から一時間以上もたってからだった。
留以花はさすがに、塾に行けるような精神状態ではなかった。時間的にもとっくに遅刻だ。
「もう帰ろう。送ってくから」
「……うん」
二人はしばらく無言で歩いた。
車のライトに照らされるたびに、怯えた表情を見せる留以花のために、皓太はなるべく車通りの少ない道を選んだ。
「さっきは……ありがとう」
「うん」
「でも、なんであんな場所にいたの?」
「いつも買ってる漫画を買いに行こうと思って。でも、明日でいいや」
彼は重い空気を振り払うかのように、明るく笑ってみせた。
いつもの皓太だ。……でも。
「ねぇ、コウ。あのとき、あんた何かした?」
「え?」
「あのとき、何か銀色の……」
車とぶつかると思った瞬間、目の前に銀色の壁が立ちふさがったように見えた。その壁を作り上げたのは、皓太の手から放たれた砂のようなものだった。
いや、違う。そんなことがあるはずがない。
きっと、気が動転していたのだ。
「……うぅん、なんでもない。多分、気のせい」
また黙り込んでしまった留以花の様子を横目で見ながら、彼は何かを考えていた。
陽の光の届かない、じめじめとした洞窟の奥に、女が一人座っていた。
女の前には小さな火が焚かれ、そこにくべられた小枝から、紫色の煙が細く上がっている。ゆらゆらとした淡い光が、女の異様な姿を浮かび上がらせていた。
巫女のような白い衣を身にまとった女は、三十代ぐらいだろうか。いくつかの束に分けた長い髪を振り乱し、神懸かりのように上半身を激しく揺らしていた。
顔の左半分に刻まれた蛇の鱗のような文様は、衣に隠れて一部は見えないが、首を通り右腕から指先までつながっている。黒くくっきりと縁取られた目は硬く閉じられ、不自然なほどに赤い唇からは、低いうめき声が絶えず漏れている。
「おのれ……」
女の身体から突然、力が抜けた。
がっくりと俯き、苦しそうに肩を上下させる。
「なぜ、あの場所に砂徒がおるのだ。あの力は、相当な使い手のもの。壱の……いや、弐徒か? まさか……奴は死んだはず」
女は、唸るような低い声でそう呟くと、ゆっくりと顔を上げ、汗で黒髪が貼り付いた顔に薄気味悪い笑みを浮かべた。
「ふん、まあ、よいわ。これもまた、一興」
女は真っ赤な上唇を、舌でぐるりと舐めた。