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未来の選択(一)

 あたりに充満していた力のすべてを燃やし尽くした炎が、陽炎のように消えた。

 辺りは、不自然なほどの静けさに満ちている。

 ルイカが周囲を見回すと、その場にいる全ての人々が、姫巫女を崇めるようにひれ伏していた。

「姫様」

 誰一人身動きできない静かな畏れが広がる場に、返り血を浴びたツクスナが戻ってきた。

 彼の肩からは蛇の文様を刻んだ腕が下がっており、ひと一人を後ろに引きずっていることが見て取れる。

 ツクスナは蛇の少年の隣に、血に染まった女の屍をどさりと下ろした。

 その一瞬、無念に歪んだ、蛇の鱗の文様を刻んだ顔が見えた。

 ああ、これで、終わった……。

 ゆっくりと自分の元に戻ってくる彼の姿が、ぼやけてよく見えなくなった。

「姫巫女様。蛇の女……ヨウダキを討ち取りました」

「ご苦労で、あっ……た……。ツクス……ナ」

 目の前に跪き臣下の礼をとるツクスナに、姫巫女らしくねぎらいの言葉をかけようとしたが、無理だった。声が震え、あふれる涙が頬を伝って土に落ちる。

 伝えたいのは、こんなよそよそしい言葉ではない。

 コウとイヨ姫の仇を討ったことに、喜びはなかった。これまでの悲しみや怒り、苦悩に区切りがついた安堵感はあったが、それを軽々と潰してしまう重いものを背負い込んだ気がした。自分の手は汚していなくとも、自分の立場を利用して人を殺めたことには違いない。多くの無関係の人々も、巻き添えにした。

 この行き場のない辛い思いを受け止めてくれるのは——。

「ツクスナっ!」

 ルイカは彼に駆け寄ると、必死に両手を伸ばした。

 しかし、衝動的に抱きつこうとしたルイカを、彼は慌てて両腕を突っ張って遠ざける。

「だ、だめです! ルイカ」

「どうし……て……?」

 彼に拒絶されたショックで、ぺたりと地面に座り込む。

「ち、違うのです。こんな姿では、あなたが穢れてしまう」

 ツクスナはあたふたした様子で、血染めの袈裟衣から右腕を抜き、纏っていた一枚布を捨て去った。その下から現れたのは、砂の文様がくまなく刻まれた、鍛え上げられた上半身。右の脇腹には、引き攣れた大きな刀傷が残っている。その身体は、過去から現在ヘと続く彼の存在理由を、はっきりと表していた。

 二本の逞しい腕が、小さく細い背中に回された。

「もう……大丈夫ですよ。ルイカ」

 力強く優しいものに包み込まれると、これまでの緊張が一気に溶けて、たくさんの涙に変わっていく。悲しみも苦しみも、憎しみも、後悔も。

 イヨ姫の分まで……全て。

「ようやく、あなたを……守ることができた」

 ツクスナは噛み締めるようにそう言うと、腕の中で泣きじゃくる少女を抱きしめながら、空を仰いだ。砂の文様が刻まれた頬にも、光るものが一筋流れた。

 周囲の人々を縛り付けていた畏れは、姫巫女の泣き声で解かれた。

 神々しいばかりの金色の猛火を操っていた小さな姫巫女は、今は、屈強な武人にすがって号泣する、見た目通りの小さくか弱い子どもだった。

 人々は信じられないものを見ているかのように、顔を見合わせていた。

 ツクスナの手が、労るように慰めるように、ゆっくりとルイカの髪を滑る。

「もうこれで、あなたをこの世界に縛り付けるものはありません」

「……え?」

 彼の身体を直接伝わってきたはずなのに、どこか遠い場所から聞こえた気がした。聞き返したくて顔を上げようとしたが、後頭部を大きな手で押さえ込まれていて動けない。

「これであなたは、自分の時代に帰れます」

「かえ……る?」

 自分の時代に。

 両親や学校の友達がいる、懐かしいあの日々に。

 いつか元の世界に戻れたらいいと、自分でも思っていた。それは、ツクスナの強い願いでもあった。けれど、ヨウダキを倒すという望みを果たした今は、戸惑いしか感じない。自分がどうしたいのか分からなかった。

「そうです。帰るのです」

 はっきりと告げられた言葉に、突然、足元がぐらりと揺らいだ気がした。

 豊かな緑も、青く澄んだ空も、周囲を取り囲む大勢の人々も、全てが急激に色あせ、風に吹かれた砂山のように形を失っていく。そんな寒々とした感覚に体が震えた。

 自分が佐野留以花として生きていた時代では、今いる世界の全てが、太古の昔に死に絶え遺跡となっているのだ。何もかもが時の向こうに消えてしまうのだ。

 そう。今、自分を温かな腕で包み込んでくれている彼も。

「…………や」

 自分自身が、この世界に死を与えるようで怖かった。

「だめです。帰るのです。そうしなければ、あなたはこの国の事情に、否応無しに巻き込まれます。あなたの時代に残る歴史に、飲み込まれてしまいます。だから……戻ってください」

 静かに説得する言葉は、微かに震えていた。戻れと言っているくせに、彼の腕に力がこもる。決して放すまいとするかのように。

「ツクスナ。わたし……は」

 言いかけたところで、こちらに近づいてくる重々しい足音が耳に入った。

 彼の腕が緩み、顔を上げて振り向くと、邪馬台国将軍トシゴリの姿が目に入った。光沢のある黒漆の胴にたくさんの傷、生成りの衣にも血の跡が見えるが、彼自身は無傷のようだ。

 トシゴリはゆっくり二人の近くまで来ると、さっと跪いた。

「姫巫女様。伊邪国王……いえ、倭国王の裁きはいかがいたしますか」

「倭国王の……裁き?」

 顔を上げることなく恭しく告げられた言葉を、ルイカは呟くように繰り返した。

「はい。この場に倭国王を裁ける者は、姫巫女様をおいて他におられません」

 立場的には、将軍の言葉通りだった。倭国の最高権力の座にある男を裁ける者がいるとすれば、今回の討伐隊を率いたことになっている、先代の王の後継者だけだろう。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。自分の手で全ての決着をつけたかった。

 それが、邪馬台国の王らの思惑通りに、この国での自分の立場を確立することになったとしても。

 ルイカの表情が、頼り無さげな幼い子どもから、凛とした姫巫女へと変わる。

 ツクスナの手を離れ、一人で立ち上がる。

「倭国王を、わらわの前へ!」

 姫巫女の威厳ある声が、その場に響き渡った。

「御意に」

 短く応じた将軍が視線で合図を送ると、周囲を取り囲む人々の輪の外から、砂徒長が一人の男を引きずり出してきた。

 結うことなく乱れた髪に、前がはだけたぼろぼろの貝紫の衣。顔や衣は、誰のものかしれない血で汚れていた。

「姫巫女様の御前であるぞ」

 砂徒長と将軍が力づくで、後ろ手に縛られた倭国の現王の膝を折らせた。

 その無様な様を、姫巫女は顎を上げて冷ややかに見下ろした。

 暴君とも呼ばれるこの男は、直接手を下さなくとも、ヨウダキらと同罪だ。この地位に上り詰め栄華を極めるために、どれほどの汚い手を使い、多くの犠牲を強いてきたことか。自分の欲望のために、どれだけの人々を踏みつけにしたことか。

「そなたは、蛇の力を操る者達を使い、わらわを亡き者にしようとした」

「ち、違う! あやつらが勝手にやったことだ。儂には関係ない!」

「たわごとを!」

 姫巫女は見苦しい弁明を遮って一喝すると、王の目の前に右手を差し出した。ぽっと音を立てて、掌に眩い炎が燃え上がる。

「ひいいっ!」

 王は恐怖に悲鳴を上げて身をよじるが、屈強な男二人に両肩を押さえつけられていて動けない。

 姫巫女はその鼻先に炎を突きつけた。

「そなたのせいで、数多くの者が犠牲になった。罪なき者の、多くの血と涙が流れた」

 それは、自分に向けての痛烈な批判でもあった。

 罪を犯したのは、目の前の男だけではない。ルイカも自分の思いを遂げる為に、多くの犠牲を出したのだ。

 そのあまりの罪深さに、涙がはらはらとこぼれ、白い頬を伝っていく。

 周囲の者達は皆、その涙に心打たれた。ルイカの真の思いは誰にも理解できず、ただ、神聖なる姫巫女が、慈悲の雫を落としているように見えていた。

「周囲の国々も、そなたのために安寧ではおられぬ。伊邪国の愚王よ、速やかにその玉座を正しき者に明け渡すが良い」

 この王は、わたしが引きずり降ろそう。

「そして倭国二十八国は、わらわが預かり受ける!」

 この炎に、誰もが畏れを抱いてひれ伏すのなら、きっとこの力で、何かができるはず。人々が傷つけ合うことのない世界が作れるはず。

 そうすることでしか、自分の罪をあがなうことはできない気がした。

 静まり返った中に、姫巫女の気高い宣言が響き渡ると、一拍おいて、割れるような歓声がわき起こった。目の前の男に仕えていたはずの、伊邪国の宮の者や武人達にまで、何かから解放されたような笑顔が見えた。

 掌に灯した炎がすうっと消えると同時に、ルイカの視界が白く霞んでいく。全身から力が抜け、後ろにゆっくりと傾いでいく身体が、力強い腕に抱きとめられた。

「ルイカ。どうしてあなたは……」

 意思に反して閉じてしまった瞼のせいで、彼の顔はもう見えない。けれども彼の声に、腕に、無念の思いが滲む。

「わたしは、ここに残る。もう、決めた……の」

 ルイカは口元に笑みを乗せてそれだけ伝えると、安心して意識を手放した。

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