伊邪国への最後の道程(二)
振り返ると、篝火の焚かれた市楼が淡い橙色に浮かび上がっている。
目の前に横たわっているのは漆黒の闇。そこが平地なのか山なのかすら判別が付かない。頭上には満天の星が輝いているが、淡い星影は地上を照らすことはなく、闇の深さを際立たせるだけだった。
美豆良を解いた長い髪と、薄い衣が枝に引っかからないよう、掛布を頭からすっぽりと被ったルイカは、またツクスナに背負われていた。
「せめて、月でも出ていればいいのに」
この時代に来て初めて知った本物の闇は、得体の知れない不安をかき立てる。風が揺らす木の葉の音や、小川のせせらぎにも、身体がびくりと反応してしまう。このときばかりは、彼に背負われていて良かったと思った。
「でも、おかげで目印は見やすいですよ。ほら、よく前を見てください」
彼に言われて目を凝らすと、闇の中にぼおっとした小さな光が見えた。その光は距離を置いて、点々と続いている。
「あれは、もしかして砂徒の砂?」
「そうです。先に通った砂徒達が目印に置いていったものです。常人の目には触れませんから、こういうときには便利なのです」
「なるほどね」
四人は発光する砂を頼りに進んでいった。ヤナナにはその砂は見えないが、先を行く者の気配を追いながらしっかりした足取りでついてきた。
先発隊が邪魔になる枝や高い草を簡単に払ってあったが、ほぼ自然そのままの森や草薮だ。道はないといっても良かった。そんな中を、一行は苦労しながら進んでいった。
二度の休憩をはさみ、月も高く昇って歩きやすくなった頃、ところどころ土がむき出しになった斜面を先に行く伍徒が、嬉しそうに振り返った。
「ああ、ようやく道に出ました」
ツクスナが後に続くと、斜面を横切るように切り開かれた細い道があった。その道に沿ってずっとむこうまで、ぼんやりとした光が点々と浮かんでいる。
「伊邪国のムラ人が、普段使う山道のようですね」
やれやれといった様子でツクスナが立ち止まると、辺りを確認する。
ルイカも頭を覆っている掛布をはぎ取ると、周囲を見回した。
斜面を下り切った場所は稲田らしく、月明かりに、同じ長さに伸びた草が風にそよいでいるのが見えた。少なくともその風景からは、伊邪国ものんびりした平和な国に見えた。
そこから、三つの集落を通り抜けた。
空の色は徐々に浅くなり、天空を支配していた月や星は勢力を削がれていく。
じりじりと気が焦り始めた頃、道の向こうに人影が見えた。
待っていたのは六徒だった。
「伊邪国の宮までは、あと僅かです。この先は私が案内いたします」
「状況は?」
「問題ありません。伊邪国に気付かれた様子はなく、宮にも動きはありません。砂徒達は既に持ち場についています。己百支国軍は、夜明けに到着するように宮の北側に進軍を始めているはずです。斯馬国側は分かりませんが、近いうちに動きが見えるかと」
六徒は状況を説明しながら、背の高い草をかき分け、鬱蒼とした森へと入っていった。
東の空がぼんやりと白くなり始めた頃、立ち並んでいた木々が途切れ、目の前が突然開けた。崖とも言えそうなほどの急斜面を下った先に、侵入者を拒むように、たくさんの逆茂木と高い城柵で囲まれた場所がある。
「あれが、伊邪国の宮……」
現在の倭国の長の住まう宮として、栄華を誇る伊邪国の宮。規模も邪馬台国より大きいようだ。壁の上から物見櫓らしき高い建物や、大きな屋根がいくつも建ち並んで見える。正面の空が白んできたことから、宮の西側にいるらしい。
「あそこにヨウダキがおる。ようやく、ここまで来たか」
背中から下ろされたばかりで、少しふらつく身体をツクスナに支えられながら、ルイカが強い決意の炎を宿す双眸で宮を睨む。
隣には、同じような瞳で宮を凝視するヤナナの姿もあった。
「ご無事ですか。姫巫女様」
上から低く響く声が降ってきたかと思うと、紺青の腰帯の男が、隣の大木から飛び降りてきた。男は音も立てずにしなやかに着地すると、ルイカの前に膝を折った。
「砂徒長。ずいぶんと、わらわを持ち上げてくれたようじゃの」
ルイカは冷ややかに長を見下ろした。
「持ち上げる? はて、何のことでしょう?」
長は左頬に砂の文様を刻んだ品の良い顔に、明らかにとぼけた表情を浮かべて立ち上がった。
「いつの間に、姫巫女が軍を率いておることになったのじゃ」
「これはおかしなことをおっしゃる。姫巫女様が伊邪国にいる蛇の使い手を討ちたいと仰せになられたので、我々はその命に従ったまで。となれば、我々を率いているのは自ずと姫巫女様ということになりましょう」
長が涼しい顔で答えながら、ツクスナに同意を求める視線を向けた。
ツクスナは睨むような視線を返すと、ルイカの後ろに回って彼女の両肩に手を置く。
部下の無言の反抗に、砂徒長はふっと口元を緩めた。
「左様なこと、話し合うておるときには、一言もなかったではないか!」
「聡明な姫巫女様には、不要なことと」
「わらわは、倭国王を討つなどと、言うた覚えはないわ」
砂徒長とルイカが言い争っているところに、一人の砂徒が息を切らして駆け寄ってきた。男は長の近くに姫巫女の姿を認め、はっとしたようにその場に跪く。
「伊邪国の先駆けと思われる者二名が、南より宮に向かっております。ほどなく、到着すると思われます」
面を伏せたままで伝えられた内容に、その場に緊張が走った。
「そうか。手はず通りだな。皆にも伝えてくれ」
長は口元を引き結んで頷くと、正面の山の端から現れた輝きに目をやった。
いよいよ……だ。
ルイカは俯いてぎゅっと目を閉じた。全身に感じるぴりぴりとした緊張感をやり過ごそうと、大きく息を吐く。そして、かっと目を見開くと、隣に立つツクスナを見上げた。
「ツクスナ。わらわが纏っておるそなたの砂を解くのじゃ」
「はっ」
ツクスナが、ルイカに左手をかざすと、全身に纏っていた銀色の砂がふわりと浮かび上がった。そしてそれは、朝日を浴びてきらめきながら、ひやりとした空気に溶けていった。




