伊邪国への最後の道程(一)
月明かりに照らされた道を伍徒が先導し、ツクスナ、ヤナナの順に駆けていく。ツクスナは自分を背負っているし、女性のヤナナも同行しているから、おそらく、これでも遅いペースのはずだ。なのに、墨絵のような景色が後ろに流れていく速さは、驚くほどだった。
ツクスナは大きな歩幅で飛ぶように走っていく。
上半身が安定しているから、あまり振動を感じず、背負われていても辛くはなかった。しかし、徐々に上がっていく彼の体温が、折り畳んだ掛布ごしに伝わってくる。体温が上がれば、彼の匂いが強く立つ。いつも近くにあるこの匂いは決して嫌いではないが、濃厚すぎてくらくらしてきた。
だいたい、こんな風に男の人にしがみつく状況なんて、普通ありえない。
考えてみれば、おんぶどころかお姫様だっこもあるし、強くだきしめられたことも何度もある。
眠るときに手を握ってもらった……のは、自分からだったけど。
彼の匂いが記憶を刺激し、次々に頭に浮かんでくるとんでもないシーンに、ルイカは強烈な羞恥を覚えて身もだえた。ついつい彼の首に回していた腕に力が入る。
すると、彼の大きな手が確認するように腕に触れてきて、心臓が跳ね上がった。
「大丈夫ですか?」
速い呼吸の間から心配そうな声が聞こえてきて、ルイカは慌てて、こくこくと頷いた。
しゃべらないように言われていて良かった。
きっと今は、まともに話せない。
「辛いのでは?」
今度は首を横に振る。
彼との間に掛布が挟んであって良かった。
それがなければ、走ってもいないのに全力疾走しているような鼓動の速さを、知られてしまうだろう。
「もう少し、辛抱してください」
申し訳なさそうにそう言って、彼は手を離した。
ルイカは彼に気付かれないように、そっと息をついた。
それからさらに走り続け、先導の伍徒が「少し休みましょう」と立ち止まった時には、ルイカはすっかりのぼせ上がっていた。
それでも、彼の背中から離されると、密着していた二人の間に夜風が通り、思わず身体が震える。
「これでは、風邪をひいてしまいますね」
彼も同じ冷気を背中に感じたようで、二人の間にあった掛布を広げると、ルイカに巻き付けてくれた。
あれだけの速度で長時間走ってきたのに、男達は呼吸が乱れている程度で平気な顔をしている。しかし、ヤナナはさすがに、辛そうに木にもたれ掛かっていた。
「汗をかいていますね。顔も熱い。暑かったでしょう?」
大きな手が、しっとりと汗ばんだルイカの頬や額に触れてきた。夜風に冷えたはずの身体が、またかっと熱くなってくる。
「……うん」
「私もかなり背中が暑かったので、気になっていたのですが……。でも、何かうめいていませんでしたか? 気分が悪かったのではありませんか?」
「だ、大丈夫。ホント、暑かっただけだから」
月に群雲がかかって辺りは薄暗く、表情が見えづらいのをいいことに、ルイカは何もかもを暑さのせいにすることにした。
「それなら良いのですが。無理はしないでください」
彼はそう言って、竹筒に入った水をルイカに差し出した。
中継地点のムラ長の館でしばらく休息した後、一行は、昼間のうちに四つのムラを移動し、山あいの小規模な市に到着した。この市の後方に迫る山を越えると、伊邪国内に入るのだという。
市楼の上階に身を寄せた四人は、市に常駐する役人から差し入れられた夕餉を囲んでいた。
「先に山に入った者たちが、道を簡単に整えて目印を置いてくれているはずです。険しい山ではありませんから、越えるのは難しくありません。さほど急がなくても、夜明け前には伊邪国の宮に着けるかと。砂徒長らとは現地で落ちあうことになっております」
「いよいよ……じゃな」
伍徒の説明に、ルイカは立ち上がって、跳ね上げの窓から外を見た。
先程、楼の外に篝火が灯されたばかりだ。西の空は陽の色の名残を僅かに残している。
あの空が、完全に深い藍に覆い尽くされたら、伊邪国への最後の道を辿るのだ。
ルイカは目を閉じ、気を落ち着かせるように、大きく息を吐いた。
「では、ツクスナ、伍徒。そなたらは、しばらく外に出てくれぬか」
「外へ? 構いませんが、どうかされましたか」
怪訝な顔をするツクスナに、ルイカはふふと笑った。
「ヤナナ。そなたに預けた荷を開けておくれ」
「はい」
彼女が昨晩以外、いつも背負って運んでいた荷は、邪馬台国を出るときにタダキに準備させたものだ。
包みを解くと、中から鮮やかな茜に染められた大袖の衣と、ひだのある白い裳、貝紫の腰帯が出てきた。それらは薄暗い楼の中でも、はっきりとした色彩を放っている。
「これは……」
「わらわの、お気に入りの衣じゃ。ヨウダキと相対するときは、どうしてもこれを身につけていたいのじゃ」
ルイカは『わらわの』という言葉をことさらに強調した。
茜の大袖と白の裳はイヨ姫のお気に入りというだけでなく、彼女が最期にまとっていた装いでもある。ルイカは同じものを身につけて、彼女の無念を晴らしたかった。
その強い思いはツクスナにも伝わり、彼は大きく頷いた。
「分かりました。では、我々は山の様子を少し見てきましょう」
男達は連れ立って、外に出て行った。




