国境の陣
邪馬台国の宮を発ってから三日目の夕刻、板壁に囲まれた斯馬国の国境の陣が、遠くに見えてきた。壁の上からは物見櫓とおぼしき高い建造物も複数見える。
「さぁ、下りてください」
あと少しで到着するという距離で、ルイカはツクスナの背中から下ろされた。そして、それまで隊の中程にいたルイカたち三人とトシゴリは、先頭の砂徒のすぐ後ろに移動し、隊列を組み直した。
門を守っていた武人が跪く間を、一行は進んでいく。
数年に渡って紛争が続いている地ということもあり、中には武人達が寝起きする建物がいくつも建てられており、高床式の倉庫や、集会場のような大型の建物もある。
「なんだか、すごいわね。ちょっとした宮みたい」
「そうですね。私は昔、来たことがありますが、その頃よりもかなり規模が大きくなっています。それだけ、斯馬国と伊邪国の関係が深刻になっているということでしょう」
「そう……ね」
ツクスナの言葉に、どこか浮ついた気分が消え、自ずと背筋が伸びた。
ここは紛争の地。すぐ目の前に、ヨウダキが潜む伊邪国があるのだ。
ルイカは凛と顎を上げ、前を見据えて歩いて行った。
将軍と姫巫女を迎えるために、通路の片側には百人を軽く超える武人達が、低く伏している。
反対側には、上官と思われる立派な武装の数人が跪いていたが、ルイカ達が近づくと、立ち上がった。
トシゴリがその中の一人に目を留め、足早に近づいていった。
トシゴリより少し若く見える、がっしりとした体格のその男は、立派な口ひげを蓄え、肩に届くほどの長い美豆良を結い、赤漆の胴をつけた堂々とした姿だ。
「おお、イサジ殿ではないか。わざわざの出迎え、かたじけない」
相手の肩を叩きながら親しげに話す内容から推測するに、邪馬台国軍の部下という訳ではないらしい。
「いえいえ。トシゴリ殿直々のお出ましとあらば。……そちらのお方が?」
イサジと呼ばれた男の視線がぐっと下がって、ルイカに向けられた。
「ああ。我が国の姫巫女、イヨ様であらせられる。そして、儂の跡を継ぐ次の将軍だ」
「こ、これトシゴリ! なんということを」
腕組みをして、がははと豪快に笑うトシゴリに、ルイカが慌てて否定した。
「それはそれは。このようなお可愛らしい将軍様なら、武人達の士気も上がろうというものですな」
イサジはにこやかに言いながら、ルイカの前に膝を折り、頭を垂れた。
「お目にかかれまして光栄にございます。私は、斯馬国将軍、イサジと申す者」
王でも何でもない幼い子どもの姿の自分に、他国のいかつい将軍が何のためらいもなく跪く。
信じられない光景に、ルイカは何度も目を瞬かせた。
彼は隣国の武人の頂点を極めた男らしく、堂々とした声で言葉を続ける。
「こたびの姫巫女様のご英断、私どももいたく感服いたしております。我が主、斯馬国王からも、貴女様の手足として働くよう仰せつかっております」
え——?
姫巫女様のご英断って、なに?
一体何がどうなって、こんな話になっているの?
隣国の将軍の言葉に、ルイカは耳を疑った。
「そ、そうか。よろしく頼む。詳しいことはトシゴリに聞くがよい」
それでも、混乱しながらなんとか表情を作り、姫巫女の威厳を保った。
ルイカ達三人は、深夜の出発まで休むようにと、小さな館を一つ与えられた。車座となった三人の前には、赤米の蒸し飯や、川魚の塩焼き、山菜、汁物など、戦地とは思えない馳走が並べられている。
「王に……というか、国の上の者たちにしてやられましたね」
ツクスナが額を押さえながら唸った。
斯馬国と己百支国に協力を要請することは知っていたが、斯馬国将軍の話した内容は彼にとっても寝耳に水だった。おそらく、姫巫女に近いツクスナのいない場所で、密かに話がまとめられたのだろう。
「あのイサジっていう将軍の話だと、私が今回の責任者みたいじゃないの」
「伊邪国に行くと言いだしたのはあなたですから、全くの嘘ではないですが」
ツクスナは高杯に盛られた蒸し飯を指でつまんでほおばった。苦々しい表情でそれを噛んで飲み下すと、話を続ける。
「姫巫女を旗印にすれば、人を動かしやすいのは確かです。イヨ姫がヒミコ様の後継であることは、他国にも知れ渡っていましたからね。死んだと思われていた姫が実は生きていて、暴君を討つというのであれば、誰もが姫に期待するでしょう」
「ちょっと待ってよ! わたしはヨウダキを倒しに行くのよ。伊邪国王を討ちにいくんじゃないわ!」
「それでも、ヨウダキを倒せば伊邪国王……倭国王は間違いなく失脚します。それは最初から分かっていたことです。おそらく、オシヒコ様はこれを姫巫女の手柄にしたいのでしょう。邪馬台国王の座を、いつか姫巫女に譲るために」
「なっ……!」
ルイカは絶句した。
歴史ではイヨ姫は王座に就いたとされているが、自分自身はその座を望んだことはない。ルイカが姫とは別の人格であることを知っている国王も、「気にせずとも良い」と言ってくれていた。
しかし実際には、自分の意向を無視して、着々と外堀を埋めていたのだ。
「優しそうな顔して、とんだ狸親父達だわ! ほんと、ムカつく!」
ルイカは魚の串を乱暴に手に取ると、腹立ち紛れにがぶりとかじりついた。
「むかつくとは、何ですか?」
ヤナナが冷静に口を挟んできた。
どこまで理解できているかは分からないが、邪馬台国を発ってからの三日の間に、ルイカの事情は一通り彼女に説明した。しかし、ルイカの時代の言葉は、彼女に通じないことも多い。
「ムカつくって、メチャメチャ腹が立つってこと!」
いかにもムカついていますという口調と表情で説明すると、彼女はメチャメチャの意味が分からないまま、納得したように頷いた。
「ルイカ。ヤナナに変な言葉を教えないでください」
ツクスナが苦笑すると、ルイカはヤナナの腕を両手で抱えて、ぴったりとくっついた。
「ツクスナって、いちいちうるさくてムカつく。……こういう風に使うの。分かる?」
ヤナナの耳元で嫌そうに顔をしかめて言った後、彼に向かってにやっと笑ってみせる。
「……本当に、あなたって人は」
大きく溜め息をついた彼の顔を指差して、ルイカが唇を尖らせた。
「あ、今、ツクスナもムカついたでしょ?」
「ムカついてなどおりません」
「うそ! その顔は、絶対ムカついてる」
「いいえ、そんなことはありませんっ」
神聖な存在であるはずの姫巫女と、邪馬台国きっての武人である弐徒。この二人の他愛ないやり取りに、ヤナナはしばし呆然とした後、くすりと笑った。
ヤナナが笑った?
その気配に驚いて、ルイカは彼女の顔を見上げた。
夫を亡くして間もないせいか、ヤナナの表情にはいつも暗い影があり、これまで笑顔を見せたことがなかった。大人っぽい雰囲気をまとい、男の武人からも一目置かれる実力を持つ彼女だが、笑うと年相応に可愛らしい。
「く……あははは」
ルイカは嬉しくなって、彼女に抱きついた。ヤナナもこらえきれずに笑い声を立てる。若い女の子が笑い始めたら、そう簡単には止まらなかった。
彼女の笑顔に安堵したのは、ツクスナも同じだった。彼は口元に穏やかな笑みを浮かべ、楽しげな二人の様子を眺めながら、くつろいだ様子で目の前の椀に手を伸ばした。
「失礼いたします」
戸口での声に気付き、笑い転げていた二人がさっと真顔に戻った。
姿を見せたのは先発隊として出ていた伍徒。ルイカが市に出かけた時の警備の責任者であった彼は、ヤナナの姿を見ると、ふっと苦い顔になった。彼もまだ、引きずるものがあるのだろう。
「伍徒か。己百支国の方はどうなっている」
ツクスナが椀を置くと、真顔で状況を確認する。
伍徒は入り口で跪いたまま、固い声で報告を始めた。
「はい、己百支国の協力を無事取り付けました。国境も、問題なく越えられます」
そう言うと、彼は首から下げた通行手形のような木札を見せた。
「己百支国の第四王子率いる隊が、現地で合流することになっております。先方の計らいで、途中のムラ長の館を借り受けておりますので、まずはその館を目指します」
「そこまでの距離は?」
「月が少し上がってからここを出ても、早朝には到着できるでしょう。その後の手はずも、万事整えてあります。伊邪国には、明後日の夜明け前にはたどり着ける算段です」
「そうか、分かった」
「では後ほど、お迎えに上がります」
報告を終え、一礼して立ち上がりかけた伍徒に、姫巫女がにっこりと声をかけた。
「伍徒、そなた夕餉はまだかえ?」
「はい、先程、到着したばかりですので」
「ならば、ここで食べていくが良い。三人だけでは食べ切れぬのじゃ」
無邪気にも見える姫巫女の笑顔に、何かしら不穏なものを感じて、伍徒の腰が引ける。
「……ですが」
「せっかく姫巫女様が、こうおっしゃられているのだ。遠慮するものではない。これまでの詳しい話も聞きたいから、お前も出発までここにいれば良いだろう」
上官である弐徒からもそう言われて、伍徒は恐る恐る中に入ってきた。ツクスナとヤナナが場所を空け、彼らの間に伍徒が居心地悪そうに座った。
伍徒の話から、砂徒長が姫巫女の名を全面的に掲げて、各国と交渉しているのは確かだった。しかも、蛇の使い手ではなく、暴君を討ちにいくという話になっていることを聞かされ、ルイカは呆然とした。
ルイカ達は与えられた館でしばらく仮眠を取った後、出発の準備を始めた。これから夜通し走るため、荷物は最小限に抑えられ、武器以外はすべて伍徒が背負った。
ルイカはまたツクスナに背負われたが、今回は二人の間に折り畳んだ掛布が挟まれ、これまで以上にきつく帯を締められた。その苦しさに、ルイカが思わず呻いた。
「苦しいでしょうが、我慢してください」
彼はそう言いながら、軽く跳ねたり上半身を動かしたりして、帯の具合を確かめている。
「走っている間は、私の首を締めない程度に、しっかり掴まっていてください。舌を噛むといけないので、しゃべらないでくださいよ。辛くなってきたら、手で合図してください」
「うん……」
身体が締め付けられ、ぎしぎしと痛かったが、ツクスナ達はこれから何時間も夜道を走るのだ。その大変さを思えば文句は言えない。ルイカは素直に頷いた。
館を出ると、ひずみの目立つ月が東の空に浮かんでいた。上空には風があるらしく、時折、黒いもやのような雲が、冴えた月光を鈍らせている。
通常なら、大抵の者は休んでいるはずの時間であったが、門の前には大勢の武人達が見送りに集まっていた。
「どうぞ、ご無事で」
「儂らは、ここから加勢いたします」
次々に掛けられる声に、ルイカはツクスナの背中の上から手を振って笑顔で応えた。下級の武人が姫巫女に軽々しく口をきくのは前代未聞であるが、三日間、一緒に旅してきた仲間達だ。既に、気安い関係が出来上がっていた。
門のすぐ前には、派手な房飾りの付いた長柄の大矛を手にしたトシゴリが直立していた。美豆良を大きく結い直し、額に長い鉢巻き、黒漆の胴を身につけた将軍らしい堂々とした出で立ちだ。彼は一歩前に出ると、矛の柄で力強く地面をひと突きし、夜の空気を振るわせるような野太い声を張り上げた。
「姫巫女様、斯馬国の陣は安心して我らにお任せください。明後日、伊邪国で必ずやお目にかかりましょう!」
そして、宙を切り裂くような音をさせて頭上で矛を大きく回転させた後、門の外に向かって矛先を勢いよく突き出した。
「ご武運を!」
その声に、周りの武人達が一斉に身を伏せる。
「ご武運を!」
多くの力強い声に送られて、三つの影が門をすり抜けていった。




