真北に位置する宮(三)
「ルイカ、早くっ!」
ツクスナはルイカを胸に抱え込み、動く隙間がないよう強く抱きしめた。鍛え上げた身体であっても押さえつけるのが困難なほど、狂ったようにもがき暴れる力に歯を食いしばる。彼女がどれほどの苦痛に苛まれているのかを、嫌というほど思い知らされる。
「ぐ……、あ……あぁ」
「早く炎を! このままでは……」
一刻も早く、蛇の力を絶たなければ、ルイカの命が危ない。
しかし、彼女を苦痛から解放する方法を知っていながら、ツクスナはそれを禁じられている。その命令を破ってしまいたい衝動を懸命にこらえながら、ルイカに必死に呼びかける。
「早く! ルイカ!」
「ううっ……」
もう、これ以上は——。
ツクスナが左手を動かしかけた時、腕の中でもがき続けた小さな身体の動きが、ぴたりと止まった。
直後、自分の身体が何かに貫かれるのを感じた。痛みなどはない。ただ猛烈な速度で何かが突き抜けていく。猛り狂う炎の轟音、目を閉じていても感じる苛烈な輝きに、それがルイカから発せられた力であることに気づく。
ツクスナが眩しさに目を細めて顔を上げると、激しい金色の炎が、室内で大きく渦巻いていた。膨張する力の圧力に、建物が悲鳴を上げるようにぎしぎしと軋む。
なんと神々しく、なんと荒々しい姫巫女の力——。
館の中に充満した炎は、やがて限界に達した。圧力を高めた炎は爆音を上げて、換気の窓と入り口から外に噴出し、葦葺きの屋根を内側から引きはがす。館の中から外へと、吹き荒れる突風。そしてその直後、炎はふいに消えた。
辺りは嘘のような静寂に包まれた。凄まじい眩しさに曝された視界も闇に落ちた。
「ルイカ! ルイカっ!」
何も見えない暗闇の中で、必死で名を呼んだ。
自分の身体と意識は、姫の館の中にあるはずだ。少なくとも、時の狭間に飛ばされたりはしていない。ぐったりとした姫巫女の小さな身体も自分の腕の中だ。
「ルイカ! 目を覚ましてください」
手探りで彼女の頬に触れる。彼女の胸に耳を押し当ててみると、しっかりとした鼓動を刻んでいた。しかし、彼女の魂がここにあるのかどうかは分からない。
「ルイカ、駄目です! ヨウダキの居場所を突き止めたとしても、これでは駄目です。戻ってきてください! ルイカ……どこにも行くな。戻ってこい!」
ルイカはもう、この時代には、いないかもしれない……。
そんな不安と恐怖に駆られて、ツクスナは腕に力を込めた。
必死に自分を呼ぶ声が、聞こえた気がした。
……この声は、ツクスナ?
ゆるゆると目を開けたが、真っ暗で何も見えなかった。しかし、見えなくても、あの何もかもあやふやな時の狭間とは違う。
きっと自分は、どこにも飛ばされていない。姫巫女の館の中にいる。
そう。彼の腕の中にいる。
「……ツクス……ナ?」
かすれた声で呼びかけると、自分を包み込んでいた大きなものがびくりと動いた。
「ルイカ! あぁ……よかった」
耳元で低い声が響いたかと思うと、背骨が軋むほど強く抱きしめられた。
「ね。大丈夫……だ……って、言った……でしょ」
「それでも……あまりに遅いので、あなたの命に背いてしまうところでした」
疲れ果てて身体のどこにも力が入らなかったが、彼の腕の力強さに、自分自身の存在を鮮明に感じる。息ができないほど狭く苦しいけれど、これほど安心して自分を任せられる場所はなかった。
「姫様! ご無事ですか!」
大破した入り口から、砂徒長を先頭に、数人の砂徒や武人が駆け込んできた。彼らが手にした松明の明かりで、荒れた館の中が照らしだされる。外で遠巻きに見ている大勢の人々の気配もする。耳を澄ますと、タダキやお付きの侍婢たちの、心配そうな呼びかけも聞こえてきた。
「はい。ご無事です。力を使い果たしたご様子ですが……」
代わりにツクスナが答えると、長は外に向かって大声で姫の無事を知らせた。安心したようなざわめきが聞こえてきた。
「そうか……。あれだけの力を振るえば、無理もありますまい。他の館にお移りになって、しばらくお休みく……」
いたわりの言葉をかけようとした長が、言葉に詰まった。ツクスナの腕の間からのぞく、姫巫女の瞳の強さに驚く。
姫巫女は力の入らない震える手で、ゆっくりと館の入り口とは反対——北の方角を指差した。
金色の炎が館を破壊した直後、蛍の灯火にも似た微かな光が、ある一点に引き寄せられるように闇の中を飛んでいった。その光の軌道に視えた光景を、そのまま口にする。
「この方向に……真っすぐじゃ。小さな川を二つ渡り、東西に横たわる山を越えると、田畑が広がる。その向こう。北に大きな川が流れる、二重の城柵に囲まれた大きな宮。その西の祭殿に蛇の使い手がおる」
「そこは……まさか!」
姫巫女の説明に、長が思わず息を飲んだ。周囲の男達も口々に驚きの声を上げ、動揺が広がった。
邪馬台国の真北の方角に位置する宮。それだけで、それがどこなのか瞬時に分かる。条件に当てはまる宮はたった一つだ。
「伊邪国……倭国王の宮か」
ツクスナが呆然と言葉を継いだ。
直接手を下したのは蛇の力の使い手達だったとしても、その背後にいたのは、暴君と名高い倭国の現王。現在の地位を手に入れ、その基盤を盤石なものにするために、邪馬台国の姫巫女を亡き者にしようとしたのだろう。
容易に推測できるその事実に、男達は驚愕した。
しかしツクスナだけは、その考えを直後に否定した。ヨウダキは自分が支配者になろうと考えていたはずだ。だとすると、ヨウダキは野心家の伊邪国王を担ぎ上げ、利用したに過ぎない。
ヨウダキこそが黒幕なのだ。
「夜が明けたら、直ちに軍議を集めよ」
姫巫女は凛とした声で砂徒長に命ずると、力尽きたように静かに目を閉じた。




