真北に位置する宮(一)
あの日から二日間降り続いた雨の後、ルイカとツクスナは久しぶりに館の外に出た。
空は全ての雲を洗い流してすっきりと晴れ、地面のあちこちにできた水たまりに、青い色を映していた。満開だった波波迦の木は、細かな花びらをすっかり散らせてしまい、瑞々しい若葉を風にそよがせていた。
「主祭殿に行きたいんだけど」
「いいですよ。でも、あまり無理はなさらないでください」
「分かってるって」
祭壇のある上階の扉を開けると、がらんとした薄暗い空間に佇んでいた火守が、姫巫女の姿を認めて慌てて跪いた。
ルイカは彼を下がらせると、真っすぐ祭壇に向かった。
ツクスナが跳ね上げ式の窓を次々と開けて、外光を入れていく。
ルイカは高杯の上で小さく燃えている火に、乾燥させた波波迦の木皮をくべ、串をかけた。
ぱちぱちと小さく火が爆ぜ、白い煙が立ちこめる。
ルイカは手慣れた様子で扇形をした白い骨を手に取り、焼けた串を押し当てる。できたひび割れを確認して溜め息をつき、新しい骨でもう一度同じ手順を繰り返した。
「あっ!」
思わず上がった驚きの声に、傍らに片膝を立てて跪いていたツクスナが顔を上げた。
「どうしましたか?」
ルイカはつかつかと彼に近づくと、何も言わずに二つの卜骨を手渡した。
「こちらは……このひび割れに見覚えがある。奴の居場所を示したものですね。奴は今も、同じ場所にとどまっているということ。しかし、こっちは何を占じたのですか?」
ヨウダキに関することについて占ったのだろうが、これまで見たことのない形のひび割れができていた。
「あの女の、わたしを狙う目的を占ったの。これまでと違う結果が出たわね」
「これまでと違う……結果」
今まで、ヨウダキの目的について何度占っても、同じ形状のひび割れができていた。それが、今回は明らかに違った結果——目的を示している。
これまで『姫巫女を捕らえる』あるいは『操る』ということを示唆していたとすれば、今回は何を?
姫巫女から手を引いたとは思えない。
だとすると……。
二人の頭に浮かんだものは同じだった。しかし、ルイカは幼い顔に大人びた表情を浮かべてふっと笑い、ツクスナは表情を引き締めた。
「ツクスナ」
そう静かに呼んで、ルイカが彼のすぐ前に立った。
真っすぐ射るように見下ろす視線を受けて、彼も姿勢を正して向かい合う。
「おそらく次は、わたしを殺しにくる」
「はい。そのときは……」
言いかけたツクスナを、ルイカがすっと右手を上げて制した。
ルイカの達観したような表情と、小さな全身から放たれる威圧感に、彼は固まったように言葉が継げない。
「そのときは、手を出さないで」
「なっ……!」
ツクスナはその言葉に衝撃を受け、腰を浮かせた。
「どうしてですか! せっかく、防ぐ方法が見つかったというのに!」
思わず両腕を強く掴んだツクスナを、ルイカは何の迷いもない瞳で静かに見つめた。
「ずっと考えてたの。この身体に埋め込んだ蛇の力を遠隔操作しているのなら、この前のようにわたしを襲えば、わたしとあの女は力の糸で繋がる。居場所を突き止めるチャンスだわ。わたしの炎は、力に引火するんだもの、きっと力の出所を見つけられる」
「そのために、あえて攻撃を受けるというのですか?」
「そうよ。でないと、力の糸を辿れない」
「ですが、それは危険すぎます。次は間違いなく命を取りに来るのですよ! 今はやり過ごして、別の策を考えるべきです」
大きな手に握られた腕が痛かった。自分を危険な目に遭わせまいと、必死に説得する彼の思いは、さらに胸に痛い。
それでも、ルイカは意思を貫き通す。彼を見つめたまま、小さく首を横に振った。
「ヨウダキは手段を選ばない。わたし一人を標的にしているときになんとかしないと、また、関係のない人が巻き添えになるわ。もう、これ以上犠牲者は出したくない。分かって」
見つめ合いながらの息が詰まるような沈黙の後、ルイカの腕を握っていた手が離れ、力なく下がった。
どうあがいても、ルイカを思いとどまらせることはできない自分が悔しくて、ツクスナの声が震える。
「私に……ただ、見ていろと? 攻撃を防ぐ方法を知っていながら、あなたがもがき苦しむのを見ていろと言うのですか。あなたの命が危険にさらされるのを、何もせずに、ただ見ていろと?」
「ただ見ていろとは言わないわ。ツクスナ。あなたに、そばで見守っていてほしい」
「……くっ」
静かな声音に、ツクスナは言葉を詰まらせた。
彼に残酷なことを言っていることは自覚していた。彼が守ると誓ってくれた自分自身を、そしてイヨ姫の体を、彼の目の前で危険に晒すのだから。彼を姫巫女の命令という鎖で縛り付けたままで。
ルイカは一歩前に出ると、華奢な両手を伸ばし、ツクスナの頭を引き寄せてそっと胸に抱いた。いつも、自分がしてもらっていることを、彼に返す。
「大丈夫。わたしは死なない。あんな女のために、死んだりなんかするもんですか」
きっぱりとそう言うと、砂の文様を刻んだ大きな肩が微かに震えた。
「……ご武運を」
ツクスナはそれだけしか言えなかった。




