壷に収められた小石たち(三)
姫が好きだった? これを?
でも、こんなものは姫の記憶の中には……。
姫の記憶を探り始めてはっとする。
しかし、その動揺を隠して笑顔を作った。
「あ……ああ、そうであった。ありがとう、タダキ。もう下がって良い」
笑顔で彼女を見送りながらも、盆の角を持つ手が震えてくる。それは反対側の角を支えていたツクスナの手に伝わっていった。
「ルイカ? まだ具合が悪いのではないですか?」
彼が慌てて腕を伸ばし、盆の向こう側の角もしっかりと支えた。
ルイカはそれにも気づかず、前屈みになって小皿の上を凝視する。
「ツクスナ、これは何? この黒っぽい変なもの」
「変……って、これは山桑の実ではありませんか。姫様が好きだっ……た。え?」
彼は怪訝そうに答えかけた直後、はっと息を飲んだ。
姫の記憶を全て持っているルイカが、姫の好物を知らないはずはない。
「姫の好物だったのよね? でも、分からないの。姫の記憶に……というより、姫の記憶そのものがなくなっているみたい」
「まさか……」
「わたしの中から、姫が消えちゃった」
今にも泣き出しそうな顔で訴えるルイカに、彼もしばし呆然となった。
「……少し、待っていてください」
彼は盆を取り上げて脇に置き、寝処を下りて部屋を出て行った。
しばらくして戻ってくると、白い布に包まれた、子どもの頭ほどの大きさのものを手にしていた。
「これを、開けてみてください」
手渡された包みは、見た目よりもずっしりと重い。包まれている布は光沢のある上質の絹で、上部を茜と生成りの組紐で縛ってある。
大切にしまわれていたものだということは、分かるのだが……。
「なに、これ?」
ルイカの反応に、彼はやはりという顔をして、辛そうに目を伏せた。
紐を解いて白い布を開くと、蓋のない小さな壷が出てきた。細かな模様が彫り込まれたその壷の中には、様々な色や形をした小石がたくさん入っている。
「石……よね?」
ルイカはその中から、紫色の筋が入ったなめらかな白い石をつまみ出した。
「記憶がなくなっているのは、間違いないようですね。……それは、姫様が小さい頃に大切にしていた石です」
そう言われて考え込んだが、どれほど記憶をたぐっても、思い当たるものは何もなかった。
イヨ姫が愛おしむように大切にしていた宝物だと、一目で分かるのに。
「誰かにもらったの?」
「いいえ。そこらに落ちている石ですよ。幼かった姫が、私と一緒に散歩をしていたときに拾い集めたものです」
「……そう」
胸をきゅっと締め付けられた気がして、目を閉じた。
これまで思い起こしたイヨ姫の思い出のいくらかは、既にルイカの記憶の中に残っている。
だけど、この石のことはまだ、思い出す機会がなかったらしい。
壷にぎっしりと詰められた、いろんな色や形の小石たちのように、美しく優しい思い出が、まだまだたくさんあったはずなのに、すべて、どこかへ消えてしまった。
いや、ヨウダキに消されてしまったのだ。
「ごめ……ん。ツクスナ。わたし……姫の記憶を」
ルイカは両手で壷をぎゅっと抱きしめた。
きっと、愛おしいはずのものなのだ。
それなのに、ざらざらした素朴な焼物の感触以外、何も感じない。心が動かない。
「姫を守ってあげられなかった」
募るのは、自分の片割れを失くしてしまったような喪失感と、イヨ姫とツクスナに対する申し訳なさ。
「何を謝っているのですか。あなたのせいではないでしょう?」
ツクスナはすぐ隣に腰を下ろすと、ルイカの頭をくしゃくしゃと撫でた。そして、壷を取り上げて布で包み直すと、上部を紐で結んだ。
「……くやしい」
「いいのですよ。そもそも、他人の記憶を丸ごと持っているのは、不自然なことなのですから。イヨ姫のことは私も、宮の者達も憶えていますし、あなたの記憶の中にも残っているでしょう? 私だって、コウの記憶は一部しか持っていないのですから、同じです」
彼は白い包みを下ろすと、ルイカの頭を抱くようにして引き寄せた。
「でも、嫌よ。失いたくない。取り戻したい」
「私は、取り戻さなくて良いと思います」
「どうして! 姫の記憶がなくなっちゃったのに、ツクスナは平気なの?」
彼を押しのけるようにして、涙を浮かべた目をきっと上げると、彼は穏やかな優しい表情をしていた。大きく武骨な手が、いたわるように髪を滑っていく。
「平気ではありません。ですが、姫の記憶がなくなれば、あの辛い記憶が再生されることはないでしょう」
「あれはもう、わたしの記憶の中にあるわ」
「それでも、直接的な記憶ほどは辛くないはずです。人の苦しみまで持っていなくてもいいのです。そうでなくても、あなたは、いろいろと背負い過ぎなのですから」
わたしのため……なの?
ルイカは彼の胸にこつんと頭を預けた。
彼が自分をいちばんに気遣ってくれていることが嬉しい。だけど、どうしても諦めきれない。
「やっぱり、わたしは嫌……なの」
そう呟くと、背中に大きな手が回り、なだめるようにぽんぽんと叩かれた。
「私は過去の記憶より、今生きているあなたが大切です。あなたが無事なら、それで良いのです」
耳元で低く優しい声がする。それは心に、じんわりと溶けていく。
こんな人だから、イヨ姫は彼を自分の護衛にと望み、ずっと側に置き続けたのだろう。
しかし、もう、それを彼女の記憶から探ることはできない。
「だから、とりあえず何か食べてください」
彼が脇によけてあった盆を引き寄せた。木の小皿から、奇妙な色と形をした実を一粒つまむと、ルイカの口元に寄せる。
「どうぞ。甘いですよ」
イヨ姫が好きだったという、山桑の実。
ルイカはツクスナの指の間にあるものをじっと見て、それから彼を見た。目が合うと、彼は柔らかく微笑んで頷いた。
少々勇気がいる見た目の実を、思い切って口にすると、少し酸味のある爽やかな甘みが口に広がった。
「あ……ホント、甘い。見た目はグロいのに美味しいのね」
「でしょう?」
彼は満足そうに笑うと、もう一粒指でつまんで差し出した。
ルイカはそのままの流れで顎を上げ、口を開けようとして、慌てて閉じた。
一気に顔が火照ってくる。
「い……いいわよ。こ、これくらい、自分で食べられるからっ!」
慌てふためいてツクスナの手を押しやると、彼は目を細めて「では」と、山桑の実を皿ごと渡してくれた。
「それを召し上がっていてください。粥がすっかり冷めてしまいましたから、温めてきましょう」
そう言って彼は、椀を手に炉に立っていった。




