壷に収められた小石たち(一)
あれから何事もなく、何度目かの朝を迎えた。
濃い色の雲が低くたれ込め、山々の姿を隠している。すでに遠方では雨が降り始めているらしく、生暖かい風が、濡れた土の匂いを運んできていた。
日を追うごとに、ルイカやツクスナ、警備の砂徒たちの緊張感は高まっているが、詳しい事情を知らされていない侍婢たちは、今では呑気なものだった。
四六時中付き添っているツクスナも、ルイカが身支度を整えている間だけは追い払われてしまい、館の中に残っているのはルイカと若い侍婢が三人だけだ。
「今日は、この櫛を差しましょうか。茜の衣にはよく合いますよ」
「でしたら、髪は大きく結った方が……」
侍婢たちは、今朝も楽しそうに話に花を咲かせながら、ルイカの髪を結い上げている。この日は、侍婢頭のタダキがいないこともあって、さらに伸び伸びとしていた。
話は髪型の話から、いつしか恋の話へと移っていく。
侍婢の二人は既婚者だったが、いつの時代も、若い女の子の関心ごとは同じらしい。ルイカは、学校の教室で友達とはしゃいでいた日々を懐かしく思い出しながら、彼女たちの話を聞いていた。
「姫様もいつか、この想いが分かるようになりますわ」
誰を想っているのか、未婚の侍婢が頬をほんのりと染めている。
悪気はないのだろうが、侍婢たちにまで幼い子ども扱いされて、ルイカがむっと口を曲げた。
見かけは小さな姫巫女でも、実際の年齢は彼女達と同じくらいだ。恋の一つや二つくらい……と思い出そうとして、頭に浮かんだのは、両頬に砂の文様を刻んだ顔だった。それを慌てて打ち消すと、つんとすました顔を作る。
「わらわは男子になど、興味はないわ」
「姫様ももう少し大人になれば、分かりますわ」
ふふふと顔を見合わせて笑う侍婢たちに、さらに子ども扱いされてしまったことに気付き、ルイカは小さく唸った。
「もうよい。早く朝餉の支度を……」
嫌な話の流れを断ち切ろうと立ち上がりかけた時、左胸に強い痛みが走った。
「う……、くっ!」
喘ぐように口を開くが、全身を縛りつけるような強烈な痛みに、息をすることすらできない。
「きゃあぁぁー! 姫様っ!」
胸を押さえてその場に倒れ込んだ姫巫女に、館の中は騒然となった。
「姫様! どうなされたのですか! 苦しいのですか!」
板敷きの冷たい床に、のたうち回って苦しむ姫巫女に、二人の侍婢が両側からおろおろと手を伸ばす。
もう一人の侍婢は、戸口で待っているツクスナを呼びに行った。
「姫! どうされたのですか!」
既に異変に気づいていたツクスナが、呼びにきた侍婢を押しのけるようにして、部屋に駆け込んできた。
「ううっ……あぁぁぁー!」
身体の中の小さな蛇が、心臓に牙を突き立てて膨れ上がり、もう一つの激しい鼓動を刻んでいた。心臓を食い破り、新しい心臓に成り代わろうとしているようだ。頭の中も、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられているようで、正気を保っていられない。
ルイカは狂ったように髪を振り乱し、床の上を転げ回っていた。
「姫! 大丈夫ですか!」
駆け寄ってきたツクスナは、とっさにルイカの二の腕を両手で押さえつけて床に縫い止めた。暴れる両足には膝で乗りかかって動きを封じる。
それでも、額に脂汗を浮かべ、左右に激しく振る頭をどうにもできなかった。
「くそっ、だめだ!」
ツクスナは、一旦放した両手を頭と背中の下に差し入れ、ルイカの上半身をしっかりと胸に抱え込んだ。
「くっ」
泣きながら暴れたルイカを拘束したときとは、比べ物にならない激しさだ。
この小さな身体のどこに、これだけの力があるのかと思うほど、硬直した身体が大きく跳ねる。
必死にすがるルイカの爪が、彼のむき出しの肩や背中を掻きむしっていく。
「ルイカ。ルイカ、しっかりしてください」
ツクスナは凶暴なほどに暴れ回る小さな身体を必死に受け止めながら、自分の無力さに唇を噛んだ。
『さあ、イヨ姫。わらわに従うのじゃ!』
ルイカの頭の中に、意識をどす黒く塗りつぶすような、あの憎き女の声が響いた。
どれほどの苦痛に苛まれようと、この声に従うことなどできるはずがない。
閉じかけた意識が、激しく反発する。
「いやああぁぁぁー!」
声がつぶれそうな絶叫とともに、ルイカの身体が大きくのけぞった。
ツクスナは奥歯を噛み締めて、彼女の苦痛を抱き止める。
その直後、彼の肩に突き刺さっていた爪が外れ、小さな手がするりと落ちた。強ばっていた身体からもふっと力が抜ける。
「…………ルイ……カ?」
ぐったりとした小さな身体を胸に、ツクスナが呆然と目を見開いた。
周りの侍婢たちも、同じことを思ったのか、甲高い悲鳴を上げた。
「ルイカっ!」
慌てて腕を緩め、ルイカの顔を覗き込んだ。
血の気の引いた真っ白な顔に、一瞬、心臓が凍り付く。
しかしルイカは、腕の中で浅く早い息をついていた。
「だ……いじょう……ぶ、よ」
これほど近くにいれば、苦痛に霞んだ目にも彼の必死な顔は分かる。どれだけ悲痛な思いでいたのかも、彼の震える腕から伝わってくる。だからルイカは、自分の無事を知らせようと、苦しい息の下から声を絞り出した。
「もう、行っ……たわ」
「よかっ……た」
耳元でくぐもる彼の声。背中に回された腕に力がこもる。
大きな安堵感に包まれ、ルイカの意識がゆっくりと遠のいていく。
「申し訳ありません。あなたがこんなに苦しんでいるのに、私は盾になることも、代わって差し上げることもできない。私は……無力だ」
霧の向こうから聞こえるような無念の滲む声に、そんなことはないと伝えたかった。しかしもう、声を出すことも、身体を動かすこともできなかった。




