奇襲(二)
夕暮れが近づき、あちらこちらに篝火が焚かれ始めている。
東の祭殿を後にした二人は、そのまま、正門近くの見張りの詰所に向かった。
詰所とその周辺では、負傷者の手当てや炊き出しが行われていた。到着直後の戦場のような慌ただしさは、ある程度収まっており、手当ての終わった負傷者や迎えに出ていた兵達に、山菜の入った雑穀の雑炊と、笹の葉に包んで蒸した猪肉が配られているところだった。
宮の下仕えの者達の中には、姫巫女の顔を知っている者もおり、ルイカの姿に気づくと、慌てて跪いたりひれ伏したりする。その様子を目にした周囲の人達も、よく分からないまま、慌てて同様の礼をとっていく。
「怪我人がそのようにせずとも良い。ゆっくり休まれよ。そなたらも、わらわに跪く暇があったら、この者達の世話をせよ」
顔に疲労と苦痛を浮かべた傷ついた者、せっせと立ち働く者の双方に、いたわりやねぎらいの言葉をかけながら、ルイカはその場の様子を見て回った。
イヨ姫であれば、このような場に姿を現すことは決してなかっただろう。ルイカも姫の記憶から、姫巫女は宮の奥で神聖を保つべき存在であることは分かっていた。
しかし、いても立ってもいられずに、自分の価値観に従って行動していた。自分自身は何もできなくても、姫巫女という存在が、人々を力づけるかもしれないと思っていた。
人混みの中、白い装束に松明の炎の色を映して浮かび上がる、小さな姫巫女の姿。人々の間に、静かな感動がさざ波のように立っていく。中には、姫巫女を熱っぽく見つめ、涙を流す者までいた。
「わ……きゃっ!」
その空気を台無しにするように、ルイカが何かにつまずいて派手に尻もちをついた。
姫巫女の悲鳴に、周りの人々が思わず息を飲む。
近くに控えていたツクスナが慌てて駆け寄ってきた。
「お怪我はありませんか、姫様!」
「いたたた……」
彼に助け起こされ、ルイカは慌てて辺りをきょろきょろと見回した。周囲はしんと静まり返り、人々の注目を一身に集めている。
うそっ! 姫巫女なのに、恥ずかしいっ!
真っ赤になった頬を両手で押さえて、恥ずかしそうに小さくなった少女は、先程までの神々しいまでの姫巫女とは、まるで別人だった。
周囲の人々は呆気にとられた後、年相応の可愛らしい様子に、つい口元を緩める。
「もぉー! 笑うでない」
周囲の温かな視線がいたたまれない。
ますます顔を赤らめ、拗ねたように言うと、人々はなんとか、表情を引き締めようとした。ルイカのすぐ目の前にいた、頭と腕に怪我をした少年も、笑いをこらえ鼻を膨らませていた。
「ぷっ……その顔! あはははは」
少年の必死な顔があまりにも面白くて、こらえきれずに吹き出した。
「ひ……姫巫女様?」
ぎょっと身を引いた少年の顔を見て、しまったと思ったが、もう遅い。
もう、こうなったらやけくそ。笑ってごまかそう。
「あははは、もう良い。皆、我慢せずに笑うが良い……ふふっ。笑えば、次は良いこともあろう。あはははっ」
「はははっ。姫様らしい」
周囲の人々が唖然とする中、声を立てて笑い始めた姫巫女に合わせて、最初に笑い出したのがツクスナ。二人につられて、目の前の少年。その後は、姫巫女を中心に明るい笑いの輪が広がっていった。
ひとしきり笑った後、名残惜しそうにする人々と別れ、次の場所に向かった。
「足は大丈夫ですか? 転んだときに、くじいたりはしていませんか」
ルイカは、さっき滑った足で地面を踏みならして確認する。
「うん。大丈夫。どこも、痛くないわ」
「よかった……。それにしても、先程はお見事でした」
「何が?」
特に何かをしたという覚えはない。
ルイカは、きょとんとした顔で彼を見上げた。
「気づいていないのですか? あなたはあの場にいた者達の心を、あっという間に掴んでしまわれたのですよ。もしかして、あれほど派手に転んだのは計算だったのですか?」
「そんなわけないでしょ! 痛かったし、すごーく恥ずかしかったんだからっ!」
ふくれてそっぽを向いた先に、ルイカは見覚えのある姿を見つけた。
髪を高い位置に結った、日に焼けた若い女が、かいがいしく周囲の怪我人の食事の世話をしている。
「え……? ヤナナ?」
呟くような声でも聞こえたらしい。振り返ったヤナナは姫巫女の姿を認めると、足早に近づいてきて、さっと跪いた。
彼女が身につけている簡素な貫頭衣は泥に汚れ、左肩には赤黒く染まった布が巻き付けられている。周囲の怪我人達と、なんら変わりない姿だ。
「跪かずとも良い。ヤナナ、そなた、怪我をしているではないか」
「ほんのかすり傷でございます」
ルイカに促されても、彼女は忠誠の姿勢を崩すことはなかった。
「その姿はどうした。喪に服していたのではなかったのか?」
彼女の姿を見たツクスナも、訝しげに問うた。
「一人でいても、あらぬことばかり考えてしまいますので、今回の派兵に志願したのですが、敵に一矢報いることすらできず……。申し訳ありません」
彼女は顔を背け、悔しそうに唇を噛んだ。
「なんと。心の傷も言えぬ間に、身体にも傷を負うたのか……」
ルイカは小さく呟くと、跪くヤナナの前に膝をついた。
大人っぽく見えても、実際には自分と同い年の少女だ。結ばれたばかりの夫を亡くして十日ほどしか経たないうちに、自ら戦場に赴き傷を負った。それでも強がってみせる姿は、痛々しいとしか言いようがなかった。
「怪我の手当もまだのようではないか。わらわに見せてみよ」
ルイカが、彼女の傷を隠す汚れた布に手を伸ばした。
「いいえ、大丈夫でございます」
ヤナナは身体を僅かにひねって、小さな手を避けようとするが、姫巫女の好意を無下にできる訳もない。困った顔で弐徒を見上げると、彼は一つ頷いただけで口を出さなかった。
衣服を裂いて巻き付けただけの応急処置の布は、乾いた血で固く強ばっていた。それを慎重に解いていくと、肩に、一直線に切ったような大きな傷があった。出血は止まっており、さほど深い傷ではなさそうだ。
「痛くはないか?」
「大丈夫です」
「矢がかすめただけのようですね。心配ありませんよ、姫。……誰か、水と布を!」
横から傷を覗き込んだツクスナもそう判断して、周囲を見渡して指示を出した。
その時。
突然、ヤナナの傷口から黒いもやが吹き出してきた。
それは一瞬のうちに、鎌首をもたげた小さな黒蛇の姿に変化する。
「なっ!」
ルイカが驚愕に目を見開いた。おぞましさに身がすくむ。
獲物を見つけた蛇は、深紅の目を光らせると、ルイカの左胸めがけて突進した。
周囲に目を向けていたツクスナが、背筋に強烈な禍々しさを感じて振り返り、左手を伸ばして砂の力を放った。しかし彼の砂は、蛇の後ろに障壁を作っただけだった。
「くっ……」
蛇の身体が、鋭い矢のように左胸に突き刺さる。息が止まるほどの激しい衝撃と激痛に、ルイカは身体を二つに折った。
「ルイカっ!」
胸をかきむしり、悶えながら地面に崩れていくルイカを、ツクスナが抱きとめた。
胸に突き刺さっていく蛇の姿は、彼の目にも確かに見えたのだ。
「ルイカ、しっかり! ルイカ!」
苦痛に歪むルイカの顔を覗き込み、必死に呼びかける。
最悪の事態が胸をよぎり、とっさに、姫巫女を別の名で叫んでいることにも気づかなかった。
ヤナナを含め周囲の誰一人、何が起こったのかは視えていなかった。蛇の姿も、砂の障壁も、常人には視ることができないのだ。しかし、胸を押さえて苦しむ姫巫女と、尋常でない弐徒の様子に、辺りは騒然となる。
「姫巫女様!」
「姫様、どうなさったのですか!」
「ルイカ! しっかりしてください、ルイカっ!」
「だ……いじょう……ぶ」
震える手でツクスナの腕を掴むと、ルイカが掠れた声を絞り出した。反対の手で胸を強く押さえたまま、彼の腕にすがってゆっくりと身体を起こし、ふうと大きく息をつく。
左胸には衝撃の余韻が残っているだけで、もう何の苦痛もなかった。あの時立ち上がった黒いもやも、背筋を凍らせるおぞましさも、辺りからすっかり消え失せている。
まるで、一瞬の悪夢を見たようだ。
「慣れぬことをした……ゆえ、少し……疲れたようじゃ。皆には、心配をかけた」
ルイカは青ざめた顔に、気丈な笑みを浮かべてみせた。
周りの人々に、この異変を悟らせてはならない。不安を与えてはならない。
特に、ヤナナに知られたら、彼女は自分を責めるだろう。これ以上、彼女を苦しめたくなかった。
「姫様。ここは他の者達に任せて、館に戻りましょう。少しお休みください」
ルイカの意図を読み取り、ツクスナも気遣わしげな声で、話を合わせた。
「よい。自分で歩ける」
自分を抱き上げようとする彼の腕をきっぱりと制し、自力で立ち上がる。
「では、参りましょう」
ツクスナは小さな背中に腕を回し、肘を抱えるようにしてルイカを支え、歩き出した。
ゆっくりと立ち去る姫巫女を、たくさんの心配そうな顔が見送っていた。




