二人の未来(二)
火を焚いて薄く煙っていた薄暗い祭殿内と違い、外の光は目に眩しく、新鮮な空気は清々しい。空は抜けるように青く、穏やかな風が頬を撫でていく。
二人は大きく息を吸い込むと、壁に寄りかかるようにして並んで座った。
高床式の主祭殿の上階にある祭殿は、実際には三階の高さがあり、確かに見晴らしが良かった。すぐ目の前には波波迦の巨木があり、咲き始めたばかりの大きな猫じゃらしの穂のような花が、葉の隙間からほんのり白く見えていた。
「なんだか、すごく平和よね」
先日の出来事が嘘のように、宮の中は平穏な空気に包まれていた。宮の下仕え達がのんびりと、それぞれの仕事に取り組んでいるのが見える。さっき自分が占で視た光景や、斯馬国への派兵という物騒な話が、にわかには信じられないほどの、のどかさだ。
「斯馬国って隣の国よね。どうしてこの国から派兵してるの?」
「斯馬国と、その北にある伊邪国とが、国境付近で揉めているのです。伊邪国は今の倭国の王が治める国なのですが、暴君ともいえる王のようで……。我が国としても斯馬国が落とされると、良くない状況になりますので、援護に出ているのです」
「暴君……ね」
その話を聞いて、ルイカは歴史の授業を思い出した。
「卑弥呼の死後、男王が立ったが、内乱が絶えなかった——。学校の授業で習った歴史は、やっぱり正しかったのね。そしてその後、邪馬台国の壱与が十三歳で王となる」
現代で中学生だったルイカは、弥生時代や邪馬台国について授業で習った。皓太の身体に乗り移っていたツクスナも、同じ知識を持っている。それは、この時代に生きる人々が知るはずもない、未来の話だ。
ルイカがこの時代に来た理由は、ヨウダキを倒すためだ。歴史に名を残す壱与という女王が自分である可能性には気づいていたが、実際にこの時代に来てみると、それは現実味を増して、心に重くのしかかっていた。
ツクスナが、気遣うような視線をルイカに向けた。
膝をぎゅっと抱えて座る、小さな姫の姿をした彼女は、ひどく弱々しく頼り無さげに見える。
彼は思わず身を乗り出すと、俯く小さな頭に手を伸ばした。しかし、その手は彼女に届くことなく、膝に戻される。
「イヨ姫は、もう十三歳だよ? 姫の誕生日はいつなの?」
「誕生日という考え方は、この時代にはありません。この時代では冬至の日に、全員が一斉に一つ年を取るのです。ですから姫は、次の冬に十四歳になります」
「ああ、そうだったわね」
ルイカはイヨ姫の記憶を探って納得する。
この時代は暦などないが、遠くに見える稲の若葉の様子から考えると、今は五月か六月といったところだろう。
「じゃあ、あと半年ほどの間に、わたしは倭国の女王になるってこと?」
「どうなのでしょう……」
もともとイヨ姫は、ヒミコの後継者となるべく育てられた少女だ。あの日、ツクスナが姫を守り切ることができていれば、彼女はそのまま女王への道を歩んでいったはずだ。同じ魂を持つとはいえ、別の少女が、同じ運命を背負わされることはなかったのだ。
ツクスナは二人の少女の運命を変えた自分の罪深さに、重く苦しい息を吐いた。
「ルイカの時代に残っている歴史は、どこまで正しいのでしょうね」
歴史が間違っているのなら、ルイカが国を背負わされることはないかもしれない。しかし、これまでのところ、現代に残っていた歴史と現実には、大きな相違はない。
二人が黙り込んだまま風に吹かれていると、視界を一瞬の影が通り過ぎた。
甲高い独特の鳴き声に呼ばれて空を見上げると、晴れた空に一羽の鳶が円を描いている。この世界では見慣れた鳥だが、現代人のルイカには珍しい。
主祭殿から見下ろす宮の中の様子は、映画のセットを見学しているかのようだ。
自分がいた世界と同じものは、空の色ぐらい。しかし、この広い空も、あの懐かしい世界にはつながっていない。同じ空の下にはいないのだ。
「みんな、どうしているのかな」
両親も友達も、誰一人生まれていない太古の時代にいるというのに、つい、そんな思いが口をついて出た。
「帰りたい……ですよね?」
「…………」
帰りたくないはずがない。
ほんのひと月ほど前までは、ごく平凡な日々を送っていた普通の中学生だったのだ。受験の不安はあったが、今、自分が置かれている状況と比べれば、なんてちっぽけで幸せな不安だったのだろうと思う。
この時代に来ることを決めたのは自分だったから、後悔はしたくなかった。それでも、目覚めることのない娘を目の前にした両親に、どれほど辛い思いをさせたかと思うと、胸が痛む。
それが、残してきた人々を危険から遠ざけるために、仕方がないことだったとしても——。
帰りたい。
その思いを口に出すと挫けてしまいそうで、しっかりと唇を結ぶ。
見上げた空の青が、少し滲んで見えた。
「ヨウダキを倒したら、あなたはあなたの世界に戻ってください」
「……え?」
思いがけない言葉に、ルイカはツクスナの顔を見た。
この国にとって、姫巫女が重要な存在であることは、しばらくその立場で過ごしてきて身にしみて分かっている。だから、引き止められることはあっても、戻れと言われるとは思わなかった。
「あなたの身体は、私があの時代に行った時のコウのように、病院に大切に残されているはずです。戻る時代さえ間違えなければ、きっと元通りの生活に戻れます」
「でも、無理よ。どうやったら元に戻れるのか分からないもん。私がこの時代に来られたのだって、偶然なんだし」
「私をルイカの時代に送ってくださったのは大巫女様です。ですから、きっと何か方法があるはずです。あなただって、時の狭間に飛ばされたのは偶然だったとしても、その後、自分の意志でこの時代に来たのですから」
確かにあのとき、現代に戻るのではなく、弥生時代に行くことを選んだ。しかし、どうやってこの時代にたどり着いたのか分からない。気付いたら、イヨ姫の身体の中にいたのだから。
「本当に戻れるのかな」
帰れるものならそうしたい。
「ええ、きっと。あなたが望むのなら」
「でも……」
本当に、戻っても良いのだろうか。
迷いを見せるルイカに、ツクスナは言葉を続ける。
「あなたは、この世界の責任を負わなくても良いのです。奴を倒しさえすれば、あの世界に戻っても、あなたに危害が及ぶことはありません。だからあなたは、あの世界に戻ってください。ここでのことを忘れて、佐野留以花として自分の時代を生きてください」
ああ……。時の狭間にいたときと同じだ。
ツクスナの言葉の中に、彼の姿はなかった。佐野留以花の未来に、彼はいないのだ。
おそらく、皓太の身体も病院に残されている。ルイカが現代に戻れるのなら、彼も一緒に現代に行き、彼の身体に戻ることもできるだろう。
けれども、彼はこの時代に生まれ育った人だから、「一緒に来て」とは言えない。
「わたしが戻ったら、ツクスナはどうするの?」
本心を押し隠し、平静を装って訊ねると、彼は波波迦の花に目を向けた。
「私は、ずっと姫様をお守りするだけです」
「それ……って……」
彼の言う姫は、ルイカではない。
彼は、ルイカが去って魂の抜け殻になったイヨ姫の身体を、守り続けるつもりなのだ。
決して目覚めることがないと分かっている姫に寄り添う日々が、どれくらい続くのだろう。それはなんと、寂しく辛い生き方なのだろう。
彼は、わたしを案じて「戻れ」と言ってくれている。「ずっと、そばにいる」と誓ってくれたはずの彼が、わたし一人を現代に帰そうとするのは、その方が幸せだと考えているからだ。
彼自身は、決して幸せだと言えない生涯を、送ることになるのに——。
「なんとしても手がかりを見つけましょう。あなたが一日でも早く、元の世界に戻れるように」
元気づけてくれようとしているのか、ツクスナが穏やかに笑う。けれども彼の手は髪を撫でてくれることも、肩に置かれることもなく、自分の膝に縫い止められていた。
ルイカは割り切れない思いを抱えながらも、小さく頷いた。




