誰より強い力
宮の中には東西南北に四つの物見櫓がある。
ルイカは悪夢を誘う浅い眠りに耐えて、早朝、一人で北の櫓に上っていた。
明け方に天候が変わったらしく、そろそろ初夏だというのに、昨日までとはうってかわって風が冷たかった。どんよりとたれ込める鼠色の雲が、東の空にあるはずの太陽の姿を隠している。遠くに霞むように、緑の茂みが見えていた。
昨晩、あの林に蛇の少年がいた。そして、城柵の陰に悲劇があった。
ルイカはつま先立ちの踵を下ろすと、薄い衣の肩を自分で抱いた。冷たい風が大袖や裳の裾をはためかせ、下ろしたままの髪を大きく流していく。しかし、身体が震えるのは寒さのせいだけではなかった。
「やっと、見つけました」
声に振り向くと、梯子の上から顔をのぞかせたツクスナと眼が合った。
「勝手にどこへでも行かないでください。探す方の身にもなってくださいよ」
大げさな溜め息をつきながら近づいてくるが、怒っている風ではない。
「どうしてここにいるって、分かったの?」
「ここから人払いしたでしょう? 物見櫓の下に、見張りの武人がうろうろしていたら、職務怠慢だと思って声をかけます。それに、あなたの行動パターンは読めますよ」
彼は小脇に抱えていた赤い縁取りのある掛布を広げて、頭からすっぽりと包んでくれた。あまりの準備の良さは、櫓の上にいることを見越していたかのようだった。
どうやら、今すぐ連れ戻すつもりはないらしく、彼は手摺の壁にもたれて床に座り込んだ。
ルイカもすとんと、隣に腰を下ろす。
「今日この後、あの林とウダ山、市に捜索隊が出ることになりました。私も林に向かう隊に同行します」
そう言いながら、ツクスナはあくびをかみ殺した。
あの後、ルイカは強制的に館に戻されたが、彼は姫の館の警護を二人の若い砂徒に任せたまま、夜が明けても戻らなかった。おそらく、朝まで軍議が続いたのだろう。疲労の色が僅かに見える。
「そう……」
「大丈夫ですか? ちゃんと眠れなかったのではないですか?」
ぼんやりとしたルイカの顔を、彼が気遣わしげに覗き込んだ。
「ヤナナと九徒って、恋人同士だったの?」
昨晩のヤナナの姿が頭から離れなかった。彼女の悲痛な叫び声が、今でも耳の奥に反響している。
包まれた掛布の中で、ルイカは両手で膝を抱え、小さく身を縮めた。
「恋人……というか、夫婦だったようですよ。私たちがこっちに戻ってくる少し前に、結婚したらしくて。私も、昨日まで知らなかったのですが」
「ふう……ふ? あんなに若いのに、結婚してたの?」
「この時代では普通ですよ。こちらで十七歳だと、むしろ遅いくらいです。普通、女性が結婚するのは十四、五歳ぐらいですから」
「そ……か。旦那さん、だったんだ」
ルイカが膝に顔を埋めると、小さな布の塊になった。
「ヤナナは大事な人を、亡くしたのね……。わたしが、外に出たいなんて我が儘を言わなかったら、こんなことにならなかったのに。……わたしのせいだ」
一晩中、自分を苛み続けた自責の思いを、くぐもった震える声で口にした。
どれだけ後悔しても、自分を責めても、もう、九徒をヤナナに返してあげることができない。自分のせいで誰かが犠牲になることだけは、絶対に嫌だったのに……。
すっぽりかぶった掛布の上に、大きな手が置かれたのを感じた。
あぁ、この感じ……。懐かしい。
布越しに伝わるその手の大きさが、イヨ姫の記憶に重なる。すぐ耳元で、言い聞かせるような、低く優しい声がする。
「それを言うのでしたら、外出の許可を出したのは、オシヒコ様です。王が許可しなければ、こんなことは起こりませんでした」
「……だけど」
「手を出してください」
涙まじりの否定を遮る彼の言葉に、ルイカが掛布の間からそっと手を出した。その掌に注ぎ落とされる、繊細な砂の感触。
「心が落ち着きますから」と、彼はよくその砂を手に握らせてくれた。
イヨ姫の記憶の中でも、ルイカの時代でコウの姿をしていたときも……そして、今も。
ひんやりとした砂を握りしめると、キュと微かな音を立てて鳴く。ルイカは掛布の中で眼を閉じて、その優しい感触を確かめる。
「昨日の警備の計画は、私と砂徒長とで立てたものです。もっと厳重な警備をしいておけば、蛇の少年を捕らえられたかもしれない。あの時、私は撤退の指笛を吹くべきだったかもしれない。現場の指揮に当たっていた伍徒が、もっと早く撤退の判断をすれば良かったかもしれない。皆……似たようなことを思っているのです」
彼の言葉には強い無念がにじみ、かすかに震えていた。
「それに、奴の手に落ちたのは、九徒の落ち度です。彼が死んだ責任は彼自身にある。……そう言って、ヤナナは彼を恨んでいました。二番目に憎いのは彼だと」
「二番目? じゃあ、一番は誰? やっぱり、わたしなんでしょ!」
ルイカが彼の手ごと、かぶっていた掛布を乱暴にはぎ取った。
きっと上げた顔に、涙がいく筋も伝っている。ツクスナは赤い縁の布端でその雫をそっと拭った。
「そんなはずありません。一番憎いのは、蛇の少年に決まっているではないですか。私はヤナナから、姫巫女様に感謝を伝えてほしいと頼まれました。あの黄金の火矢を射がけさせてもらえたことで、救われたと言っていました。あなたが、彼女を支えたのです」
彼はそう言うと、また、ルイカの頭からすっぽりと布を被せてしまった。そして、布の塊をそっと抱き寄せると、身体の震えが止まるまでずっと寄り添ったままでいてくれた。
「そう言えばトシゴリ様が、将軍を引退したら姫巫女様に後を継がせたいと、おっしゃっていましたよ」
「は? なんで?」
彼がいきなり妙なことを言い出したので、ルイカが怪訝そうに掛布から顔を出した。
泣きはらした真っ赤な眼が痛々しかったが、ツクスナはにっと片頬を上げてみせる。
「昨晩のルイカは、あの場の誰よりも男前でしたからね」
「それって、褒めているの?」
不満そうに眉をひそめると、彼がふっと笑った。
「それより、昨晩の炎には驚きました。どうやって出したのですか?」
「え? どうやって……って、言われても」
自分でも、どうやったのか分からなかった。
自分の時代でヨウダキに襲われたときは、とにかく必死だったから、とっさに力を発揮できたのだろう。イヨ姫が襲われたときも状況は同じだ。しかし昨晩は、そんな危機的状況ではなかった。
「あのとき、単純に矢尻に火が点けばいいと、思って……」
昨晩のことを思い出しながら、すっと右手を前に出した。
ポッ——。
微かな音を立てて、人差し指の先に、蝋燭の火ほどの小さな金色の炎が灯る。
「えっ。うそっ!」
「あ……あぁ、素晴らしいです。ルイカ」
小さくとも眩く神々しい光を放つ炎を、二人は眼を細めて見つめた。
「しばらくそのままでいてください」
ツクスナが手を伸ばし、その炎に指先で触れた。触れても大丈夫であることを確認して指を動かすと、その動きに合わせて炎が揺らめくが、消えたりはしない。
「やはり、熱くはありませんね。もう少し、大きな火にできますか?」
「やってみる」
じっと見つめると指先の炎は火勢を増し、ぐるぐると回転して、ルイカの頭と同じぐらいの大きさの火球になった。まるで、雲に隠れて見えない太陽を、そのままそこに移してきたかのような、密度のある眩い力の塊。
しかし。
「む……無理。これ以上は大きくならない」
どう頑張っても、ヨウダキに対抗したときのような、大きな炎を作り出すことはできなかった。
「でも、小さくすることは、できそう」
そう言うと、火の勢いはみるみる弱まり、豆粒ほどの小さな輝きになった。
「ルイカ、もう一方の手に私の砂を持っていますよね。それを、炎の上から落としてみてくれませんか」
「え? これを?」
よく分からないまま、握っていた銀色の砂を、微かな火の上にさらさらと落とす。すると、小さな炎がいきなり音を立てて大きく燃え上がり、上にかざした左手を包み込んだ。
「きゃ……っ!」
驚いたルイカはとっさに左手を引いた。瞬きの間に、炎はまた小さな火種に戻っている。
「なるほど。あなたの力には、そういう性質があるのですね」
ツクスナは興味深げにそう言うと、左手から砂を放ち、二人を取り巻く円柱状の銀色の壁を作り上げた。
「その炎で、この壁に触れてみてください」
「うん」
何が起こるのかは、もう予想できた。
ルイカは彼の顔を見上げてにっと笑うと、手を伸ばして炎の浮かぶ指先で銀色の壁に触れた。
ちっ……と微かな音を立てて壁に燃え移った炎は、一瞬で二人を取り巻き、轟音を立てて天をつく火柱になる。その激しさに、物見櫓がぐらぐらと揺れた。
直後、何事もなかったかのように唐突に炎が消えると、ルイカは腰が抜けたように床にへたりこんだ。
予想はしていたものの、これほど威力があるとは思っていなかった。
「あ……ははは……。す、ごい。砂の力を燃やしてしまうのね」
「砂徒の力だけではありません」
現代で巨大な炎の力が発現したときは、砂の壁が取り囲み、その外側に蛇の姿を取った力がとぐろを巻いていた。イヨ姫が襲われたときは、姫の周囲に砂の壁、ツクスナの身体に砂の盾、そして蛇の力も放出されていた。
「あ……。もしかして」
「そうです。あなたの炎は蛇の力にも、燃え移っていました。私の砂と蛇の力を巻き込んで、あれだけの爆発的な力になったのだと思います。おそらくあなたの炎は、他の力を燃やし尽くし浄化できるのでしょう。そう考えると、あなたの力は誰よりも強い」
「誰よりも、強い…………?」
「ええ、そうです」
「ヨウダキよりも? あの蛇の少年よりも?」
「はい。きっと」
ルイカは自分の両手をじっと見つめた。
ヨウダキを倒す手段を手に入れたことが嬉しかった。同時に、この力を使う日がくることを思うと、身体が震えた。
そんなルイカの様子を見ていたツクスナの右手の指が、ぴくりと動いた。
しかし、これまでなら力づけるように肩や頭に置かれたその手は、身体の横に下ろされたまま動かなかった。
昨日、イヨ姫の最期の記憶に支配されたルイカが、彼女の感情をぶつけてしまってから、彼との間に距離を感じるようになった。
彼女のひたむきな思いが、それと同じ強さで、彼を傷つけてしまったのかもしれない。
姫はきっと、そんなことを望んではいないのに——。
「さて、そろそろ館に戻りましょう。タダキが温かい朝餉を用意してくれているはずです」
ルイカは彼の顔と、見えない鎖に捕われているかのような彼の手を交互に見た。
「立たせて。ツクスナ」
そう言って伸ばした右手は、残酷なのかもしれない。
姫巫女がこう言えば、彼は立場上、拒むことができないのだから。
それでも、この手を取ってほしかった。
「はい」
彼は痛みを押し隠すような微笑を浮かべ、姫巫女の手を取った。
小さな子どもの手を完全に包み込んでしまう、大きなごつごつとした手に、イヨ姫の記憶が懐かしさに震えた。その記憶が無意識のうちに手を動かし、彼の中指と人差し指をぎゅっと握る。
ツクスナが、はっと目を見開いた。
「ひ……め」
彼は声にならない声で呟くと、顔を背ける。
「お腹が空いたわ。早く帰ろう」
ルイカはそれを見て見ぬ振りして笑顔を作ると、彼の手を引っ張って歩き出した。




