邪馬台国の宮(一)
波波迦の大木を背にした、堂々たる主祭殿の屋根が背後にあった。
周囲にはお椀を伏せたような丸く低い屋根や、長方形の高床式の建物の屋根もいくつも見える。邪馬台国の宮は、ちょっとしたムラをそのまま大きな灰色の城柵で取り囲んだようだった。
城柵の外側には、稲の若葉が打ち寄せる波のように風になびいている。緑の間に薄茶色の土の道が長く伸び、屋根だけにしか見えない建物が集まる小さな集落がぽつぽつ点在していた。
「わ……すごい。柵の外って、こんなになってるのね」
懸命に背伸びをしながら、物見櫓の手摺の上から見る外の景色に歓声を上げる。
彼女は一メートル程度の高さの手摺から、ようやく顔がのぞくほどの、小さな子どもの姿をしていた。まだあどけないが、目鼻立ちのくっきりとした美しい顔立ち。長い睫毛に縁取られた黒い瞳には、意志の強そうな輝きをたたえている。
大地を覆う緑を揺らした風が、長く艶やかな黒髪を巻き上げ、茜色の大袖と白い裳をはためかせた。
運ばれてきた土と若草の香りを胸いっぱいに吸い込むと、豊かな自然を感じさせる匂いを懐かしく感じる記憶と、物珍しく感じる感覚が自分の中でせめぎあう。
「あれ? ……そういえば」
この国の大抵のことは『知っている』つもりでいたのに、目の前に広がる広大な景色は、初めて目にした気がした。城柵の外があれほど緑に溢れていることも、人々の生活の息吹を感じることも、知らない。
「ねぇ、ツクスナ。どうして姫に、この景色の記憶がないの? 城柵の外がこうなっているってことを、知らないみたい」
ルイカが隣にいる青年に声をかけた。
彼は、手摺の上に両腕を乗せて身体を預け、懐かしそうに目を細めて外の様子を眺めていた。後ろで無造作に束ねられた長い髪が、風に流されている。
左肩をあらわにした生成りの袈裟衣に、膝下を足結で締めた同じ色の袴。紺青で染められた倭文布の腰帯。腰に佩いた細身の素環頭大刀。しかし、今の彼の姿は、イヨ姫の記憶とは少し違っていた。
「記憶がないのは当たり前ですよ。姫巫女様ともあろうお方は、このような場所に来ることはありませんから。この宮に引き取られてからは、外に出たこともなかったはずです」
振り向いた彼の顔には、以前は左頬だけだった砂の文様が、両頬に刻まれていた。そして左腕にしかなかった同じ文様が、右腕にも見える。
「やっぱりそうなのね。でも、姫巫女様ともあろうお方が、自分の国のことを知らないなんて、おかしくない?」
ルイカが、桜色の愛らしい唇を尖らせるようにして反論した。それはイヨ姫の姿でありながら、全く別人の表情と口調だった。
現代にいたときにツクスナがそうしたように、ルイカもまた、彼と二人だけのときは、姫の表情をしないようにし、言動も使い分けた。この世にいないと分かっている人間が、以前と変わらぬ姿で目の前にいる辛さを、身をもって知っているからだ。
彼もまた、二人きりのときは、姫ではなくルイカとして接していた。
「それはそうかもしれませんが、巫女はもともと祭事や占事を司る役目ですから、外のことを知らなくても差し支えは……」
彼の言葉を遮って、ルイカが城柵の外を指差した。
「でも、それってやっぱり変じゃない? 巫女だって外の世界を知るべきよ。だから、今度はあっちに連れて行って!」
「ああ、やはり……そう来ましたか」
ツクスナが大きなため息をついた。
そもそも、物見櫓の上という、姫巫女に似つかわしくない場所に二人がいるのも、暇を持て余したルイカに頼み込まれてのことだった。
二人が弥生時代に来てから、十日以上が過ぎていた。
イヨ姫の身体に残された記憶のおかげで、ルイカは姫巫女としての生活に思いのほか早く慣れた。しかし、慣れてしまえば、ゆっくりと時間が過ぎていくだけのこの時代は、現代人の彼女にとっては退屈でしかなかった。
彼はしばらく難しい顔で考え込んだ後、膝を落とし、小さな少女を軽く見上げる姿勢になった。
「……でも、目立ちますよ」
「目立つ? そりゃ、この姿だと目立つだろうけど、普通の人と同じ服装で出かければ平気でしょ?」
ルイカは絹で作られた艶やかな衣装を気にすることなく、膝を抱えて砂っぽい床に座り込んだ。
「あなたもですが、それ以上に私が目立ちます」
「どうして?」
「宮に仕える男は袴を身に着けますが、ムラの男はチュニックのような上の衣だけなのです。そうすると、足が……」
膝を崩して隣に座ったツクスナが、袴の裾を摘むと、足結の高さまでめくり上げた。あらわになった臑には、顔や腕と同じ砂文がびっしりと刻まれている。袴を履いているから普段は気にならないが、彼の身体には全身くまなく砂の文様が刻まれているのだ。
「わ。なんだか柄物のレギンスでも履いてるみたい。……ん、チュニックにレギンス?」
体格の良い彼のとんでもない姿を想像してしまい、ルイカは思わず吹き出した。その後もくすくす笑いを止められないでいると、彼がむっと眉をひそめる。
「……なんですか? れぎんすって」
「あれ? 知らないの? チュニックは知ってるのに」
「ええ。チュニックはあっちの世界でルイカが着ていたでしょう? だから、そう例えたのですが」
「コウの記憶にあるんじゃない?」
そう言われて、彼は腕を組んで考え込んだが、しばらくして首を横に振った。
「いや、ありませんね。コウ自身は知っていたかもしれませんが、今の私は、彼の記憶のすべてを持っている訳ではないのです。おそらく、身体……脳がハードディスクになっているのではないでしょうか。私は彼の身体から離れてしまったので、彼の身体にいたときに呼び出した記憶しか、持っていないのです」
彼の説明に、パソコンに詳しかった皓太の影響が見え隠れする。
「なんだかコウらしい説明よね。でも……そうなんだ。わたしにはイヨ姫の記憶が全部あるから、ツクスナもそうだと思ってた。そっか……。コウはもう、いないんだ」
「いいえ、いますよ。全てではなくても、コウは私の記憶の中にいます。あなたの記憶にもいるでしょう?」
「……うん」
慰めるような微笑を浮かべた彼に、ルイカは頷いてみせた。
「とにかく」
彼が気を取り直したように、話を戻した。
「ムラの者たちと同じ格好をすると、今の私は人目を引くのです。砂徒の文様は意味が違いますが、一般的には、この時代の人々にとって、文様を刻むことはステイタスでもあるのです。護衛のせいで目立ってはまずいでしょう?」
「だったら、別の砂徒を護衛につければいいじゃん」
ツクスナ以外の者が、自分の警護につくことはないと分かっていながら意地悪く言うと、彼は心配そうに声をひそめた。
「それはできません。あなたがこの時代に戻っていることを、ヨウダキが、既に気づいているかもしれませんから。やはり、宮の外へは出ない方が安全です」
「それならそれで、いいじゃん。今は、全然手がかりがないんだもん。目立つぐらいの方が、かえっていいかも」
イヨ姫の幼く美しい顔に、何かを企むような表情が浮かぶ。
それを見たツクスナが、大げさに息をついた。
「あなたって人は……。本当に外に出られるのでしたら、まだ姫のことが公に知られていない、今のうちがいいでしょう。しかし、私の一存では決められません。オシヒコ様や砂徒長と相談してみます。それで、よろしいですか?」
「オッケー! ふふ。楽しみ。宮の中に引きこもっているのは、飽き飽きなんだもん」
ルイカは無理を押し通せたことに満足して立ち上がり、また手摺から顔をのぞかせた。




