時の狭間(二)
なんだか、妙な胸騒ぎがする。
留以花は時計ばかりを気にしていた。針の進み方が、異様に遅く感じられる。庭のラティスの陰には、まだツクスナの気配はない。
あの場所にツクスナがいてくれたら、もう少し安心できるのに……。
でも、それを強く願うと、彼がまた血相を変えて飛んでくる。その様子が想像できて留以花はくすりと笑った。そして、直後に大きなため息をつき、カーテンの隙間を閉じた。
この感じは嫌だ。——怖い。
背中に寒気を感じ、留以花は両腕で自分を抱いた。ずるずると背中で壁を滑り、窓の下に座り込むと、部屋のドアをノックする音がした。
びくりと顔を上げると、ゆっくりとドアが開いて母親が顔をのぞかせた。
「どうしたの、そんなところに座り込んだりして。カフェオレ、飲む?」
「あ、うん。ありがとう」
一人でいることがひどく心細かったから、母親の優しい笑顔にほっとした。
マグカップを受け取ろうと立ち上がったそのとき——。
窓ガラスに亀裂が入ったような、耳をつんざく音が響いた。地の底から突き上げられたかのように、家全体が大きく揺れる。
一気に、全身から血の気が引いた。
「う……そ。こんな」
この一瞬で、家全体が巨大な鱗の檻で囲まれてしまったことを感じ取り、留以花は愕然とした。
ツクスナは階段を駆け下りると、玄関ドアを乱暴に開け放ち、裸足のまま外へ飛び出していった。
「皓太。こんな時間にどこへ行くの? 皓太ったら!」
皓太の母親が驚いて声を掛けたが、全く聞こえていなかった。
不吉な予感が胸をよぎる。頭の奥で警鐘が激しく鳴り響く。
予感が予感であるうちに、一刻でも早く!
「ルイカ!」
走れば五分もかからないような距離が、いやに遠かった。心臓の鼓動がありえないくらい激しいのは、走っているせいではない。胸を縛り上げる不安と焦燥感のせいだ。
角を曲がれば留以花の家が見える。
あと、少し。
しかし、そこで、予感が現実になった。
突然、彼女の家の方角に、巨大な妖気が出現した。同時に、身体が何かに拘束され、道路に叩き付けられた。
全身をバラバラに切り刻まれるような、激しい衝撃。
「ぐ……あぁっ!」
あのときと同じ激痛。全身に絡み付く鱗の網が、息ができないほどの苦痛とともに、ぎりぎりと身体を締め付けてくる。
「くそ……っ。こん……な場所で」
激痛に喘ぎながらも、両手で作り出した砂の粒子を、身体と網の間の隙間に滑り込ませていく。
「足止め……され……て、たまるか!」
全身に力を込めると、顔に、両手に、濃紺の砂の文様がくっきりと浮かび上がった。全身から砂が吹き出すように出現し、身体と網の間に薄い銀色の膜を作り上げていく。
「うおぉぉぉっ!」
渾身の力で、身体にまとう砂を一気に外に押し広げると、蛇の鱗の網は、内側からふくれあがる力に引きちぎられ、消散した。
ツクスナは苦痛の燃え残りを無視し、走り出す。
道路の角を曲がった時、目に入ったのは、留以花の家全体を覆い尽くす、巨大なドーム状の鱗の檻だった。
まるで生き物のようにうねうねと動く、黒い蛇の鱗。放たれる妖気の強烈な圧迫感が、心臓を絞りあげ、肺を押しつぶす。
「こ、こんな力が……」
ある程度の予想はしていたが、これほどまでとは——。
ツクスナは目の前に立ちふさがる鱗の檻に、呆然となった。
母親の手からマグカップが滑り落ち、中の液体が床に飛び散った。頭と両腕が、力なくだらりと下がる。
「お母さん?」
ヨウダヒに操られた紗季の姿が、脳裏をかすめた。
まさか、今度はお母さんが——!
そのぞっとする予想は間違っていなかった。
「ふふふ。心は決まったか、イヨ姫」
闇から響くような、低い女の声。
ゆっくりと顔を上げた母親の左頬に、蛇の鱗の文様がはっきりと浮かび上がる。暗くうつろな眼が、留以花を捕らえた。
「お母さんっ! しっかりして!」
声の限りに叫んでみたが、その声は届かなかった。
留以花はヨウダヒの声と言葉でしゃべる母親に、駆け寄ることもできず、唇を噛んで立ち尽くす。
妖気をはりつけた母親の顔が、口元をみにくく歪めて笑った。
「さぁ、わらわと共に来るがよい」
「嫌よ! 行くもんですか!」
右手を伸ばしてくるヨウダヒから逃れようと後ずさったが、すぐ後ろは窓だ。それ以上は下がれない。
「わらわに服従するか、ここで死ぬか、お前の選ぶ道は二つに一つ。さあ、選べ」
「あんたの思い通りにはならない! 服従なんてしない! 死んだりもしない! わたしは、あんたを倒すんだから!」
留以花が燃えるような瞳で、毅然と言い切った。
ヨウダヒは一瞬、驚いた様子を見せたが、直後にぞっとする声で高笑いを響かせた。
「面白いことを言う。わらわを倒すと申したか? 言うておくが、あの砂徒は助けに来ぬぞ。お前一人で、どうするというのじゃ」
「ツクスナは来るわよ。絶対に!」
二人は激しく睨み合った。
「いいかげん覚悟を決めてはどうじゃ。わらわに忠誠を誓うなら、決して悪いようにはせぬぞ」
「嫌よ! 誰があんたなんかに」
「ふん、なんと強情な。わらわに従わぬというなら、殺すまでよ。お前も母親と一緒なら、黄泉の国でも寂しくはなかろうて」
じれたヨウダヒが、口端をつり上げて残忍な笑みを浮かべると、両手を左右に広げた。両の掌に、禍々しい青い炎が音を立てて灯る。
「あ……」
この炎は——。
あまりの忌まわしさに背筋が急激に冷える。手足が凍り付いたように動かない。自分の中の何かが少しずつ身体を離れ、青く怪しい揺らめきに引き寄せられていく。
「どうじゃ、美しいだろう? 魂を喰らう青い炎。お前への手向けとしてやろう」
ヨウダヒが恍惚とした表情を浮かべ、炎を手にゆっくりと近づいてくる。
やめて……この炎は——恐ろしい。いやだ。やめて!
「さあ、今ならまだ間に合うぞ。わらわに、従うと言うがいい」
身体の中に徐々に広がっていく空洞に、女の声が不気味に反響する。
「ツクスナ! 助けて! ツクスナっ!」
青い炎とともに揺らぐ意識を必死に立て直し、彼の名を叫んだその時、机の上に置かれていた小瓶が音を立てて砕け散った。
「ツクスナ……お……ねが……い」
銀色の細かな粒が、霧のように部屋に広がっていく。同時に、家の屋根や庭のあちこちから、銀色の砂が一斉に高く噴き上がった。




