炎の彼方に消えた姫巫女(一)
現代の日本で、弥生時代と呼ばれている遥か昔。
女王卑弥呼が統べる国。
青年はその日も、主祭殿の上階で、姫巫女の傍らに控えていた。いつものように、右膝を立てて跪き、瞳を伏せる。細く開けた跳ね上げ式の窓から乾いた風が吹き込み、後ろで束ねられた青年の黒髪をそよがせた。
青年の年は二十。かなり上背のある、無駄のない引き締まった体つきは、一目で、相当の鍛錬を積んだ武人だと分かる。事実、彼の『弐徒』という呼び名は、砂徒と呼ばれる特殊な能力を使う武人の中で、二番目の実力者である証だった。
砂徒は一般の武人と見分けがつくように、独特の姿をしていた。彼も例外ではない。輪郭のはっきりした精悍な顔の左頬には、濃紺で刻まれた砂の文様。左腕にも、肩から指先まで同じ文様を入れていた。
身につけているのは左肩をあらわにした生成りの袈裟衣に、膝下を足結で締めた袴。紺青で染められた鮮やかな倭文布の腰帯が目を引く。腰に佩いた、すらりとした細身の素環頭大刀は、柄に腰帯と同じ紺青の帯を巻き、環にもまた同じ色の紐が結ばれている。この紺青は、彼と砂徒長だけが、身に付けることを許されている色だった。
祭殿は百人以上が入れるほどの、ゆったりとした広さがある。しかしこの日は、姫巫女と弐徒、四人の侍婢の他には誰もおらず、がらんとしていた。祭殿の奥には簡素な祭壇があり、中央に青銅の鏡が置かれている。鏡の左右に置かれた大型の高杯の左には卜骨が盛られ、右には波波迦の木皮が焚かれていた。
「ツクスナ」
姫巫女に別の名で呼ばれ、弐徒が眼を上げた。彼はその姿に似合わない、意外なほど穏やかな眼をしていた。
「はい」
「天つ水は、まだ落ちることはない。何度占じたところで同じことなのに……」
祭壇の前に立つ姫巫女は、小さくため息をついた。
目鼻立ちのくっきりとした美しい顔は、まだあどけない。背丈も、周りに控えている侍婢たちより、かなり小さい。彼女はまだ十一歳であった。
一部を高く結い上げた黒髪には、赤漆の櫛。下ろされた髪はほっそりとした輪郭に沿い、髪の隙間から翡翠の耳飾りがのぞく。茜色の大袖の衣とひだのある白い裳は、柔らかな光沢を持つ絹。貝紫の倭文布の腰帯が、長く前に下がる。三つの翡翠の勾玉と青い細かな管玉とを組み合わせた頸玉が胸元を飾る、鮮やかで高貴な装いだ。
彼女は、大巫女である高齢のヒミコに代わり、日常的な祭事や占事を一手に担っていた。
最近は日照りが続いていたため、各ムラの首長の求めに応じて、毎日のように天候を占じているのだが、雨の兆候は一向に現れない。うんざりするのも頷ける。
「いっそのこと、雨乞いをなされては?」
「降らぬことが分かっておるのに、雨乞いなどできぬわ」
姫は肩をすくめて、くすりと笑うと、祭壇に向き直り、扇形の卜骨を手に取った。続いて、右の高杯の上で火にかけられている長い串を右手に取る。赤く焼けた串の先を、骨に押し当てようとした、まさにそのとき——。
突然、乾いた音を立てて、卜骨に大きな亀裂が入った。亀裂はあっという間に細かな無数のひび割れを生み、次の瞬間、骨は小さな手の中でバラバラに砕け散った。たくさんの白い破片が、軽い音を立てて、姫の足元に散らばる。
「こ、これは……」
眼を大きく見開き、驚愕の表情で足元を見つめる姫の顔は、血の気を失い真っ青だった。
「姫!」
弐徒が慌てて立ち上がり、両腕を伸ばして、ふらつく姫の身体を支えた。
「姫様! どうなされました」
近くにいた侍婢たちも、驚いて駆け寄ってきた。
眼を閉じて、弐徒にぐったりともたれかかった姫巫女は、震える唇でうわごとのようにつぶやいた。
「災いが……大きな災厄が……」
不吉な言葉に、侍婢たちが息を飲み、不安げに顔を見合わせる。
「姫。姫。お気を確かに」
弐徒が姫の身体を軽く揺すると、彼女は弱々しく眼を開き、彼の腕を掴んだ。
「……だめ」
姫の白くほっそりとした指に、意外なほどの力が込められた。
「姫、何か見えたのですか」
「蛇……が、大きな……蛇が……」
そこまで伝えると力つきたのか、弐徒の腕に掛けられていた指先の力がするりと抜けた。
「姫!」
そこへ、何者かが祭殿に上がってくる足音が聞こえてきた。弐徒がはっと入り口に視線を投げると、そこに姿を見せたのは参徒だった。
年は弐徒より十歳は上だろうか。がっしりとした体格の彼もまた、左頬と左腕に砂の文様を刻んだ砂徒だった。
彼は入り口に跪くと同時に、顔を伏せてそう告げた。
「大変です!」
「後にしてもらえないか。今、姫巫女様が……」
「いえ、火急の件にて」
参徒の深刻そうな様子に、弐徒は姫を侍婢たちに任せ、立ち上がろうとした。しかし、姫が必死の表情ですがるように手を伸ばしてくる。
「だめ……ツクスナ。行ってはならぬ」
「すぐに戻りますゆえ、姫はここでお待ちください」
弐徒はなだめるようにそう言うと、参徒に近づいていった。
「何があった」
「南の国境を越えて、賊が!」
「南……? まさか、狗奴国か!」
邪馬台国と南の国境で接する狗奴国とは、長年、緊張状態にある。敵軍が国境を越えたのが事実であれば、大きな戦となるだろう。早急に手を打たなければならない。
弐徒は、詳しく話を聞くため、さらに参徒に近づこうとして、ふと足を止めた。
……何か、おかしい。
敵に攻め込まれようとしている割には、祭殿の周囲に特に変わった様子が感じられない。こういう緊迫した状況なら、宮全体が騒然としてくるはずだ。なのに、宮の中は普段通り落ち着いている。
これは、どういうことだ。
訝しく思いながら、跪いたままの参徒に眼を落とすと、彼の右肩から手首にかけて、布が巻かれているのに気がついた。
「怪我でもしたのか」
言いかけて、はっとする。腕に巻かれた布の端から、見慣れない文様が見えた。
砂徒のものとは全く違う。それはまるで、蛇の鱗のような……。
つい今しがた、姫巫女が「大きな蛇が……」と口走って倒れたのだ。その不気味な一致に、ぞくりと凍るような戦慄が背中を駆け上がり、弐徒は一歩足を引いた。
「その腕は何だ!」
参徒はその問いに答るかわりに、歪んだ笑みを口元に浮かべ、ゆらりと立ち上がった。そして、右腕を覆う布をはぎ取ると、祭殿奥の姫巫女に向かって、その手を伸ばした。
彼の掌から放たれた力が、瞬時に禍々しい蛇の姿を取る。
「姫!」
ほぼ同時に、弐徒も身体をねじり、砂の文様の左手を同じ方向に大きく伸ばした。
弐徒の掌から放たれたのは、まばゆい銀色の砂。それは蛇よりも速く祭壇に届き、一瞬で姫と侍婢たちを取り囲む。そして、銀色の強固な結界——砂の壁を造り上げた。
姫たちの前に立ちはだかった砂の壁に、顎を大きく開いた蛇が激しく衝突した。
蛇の力は壁の前に砕け散り、ビリビリとした衝撃が空気を伝う。祭殿全体が音を立てて揺れ動く。
恐怖で悲鳴を上げる侍婢たちには、地震のような振動が伝わるだけで、何が起こっているのか全く視えていない。自分たちを銀色の強固な壁が囲んでいる事すら知らなかった。
ただ一人、姫巫女だけがすべてを視ていた。
自分たちを守る砂の壁も、迫り来る恐ろしい蛇の姿も——。