蛇の鱗の文様(三)
学校から早く帰ってくる娘のために、昼食にカレーが用意されていた。留以花は手慣れた様子でカレーを温めると、二人分を皿に盛りつけた。
二人はダイニングテーブルに向かい合って座ったが、彼女はずっと、スプーンを弄んでいるだけだ。皿のカレーは全く減っておらず、一人分だけ用意されていたサラダは、ツクスナの前に押しやられていた。
「少しは食べないと……」
ツクスナが気遣って声をかける。
「……食べたくない」
「まぁ、分からなくもないですが」
ツクスナはそれ以上、無理強いはしなかった。
あんなことがあった後だから、食欲などないのだろう。彼女はため息をつくと、とうとうスプーンを置いてしまった。
「ヨウダヒって、何者なの? 次の世の女王となる者だって言ってたけど」
「……分かりません。初めて聞く名です」
ツクスナもスプーンを置いた。
「邪馬台国の女王の座を、狙っているということ?」
「いや、ここまで大掛かりなことをしているのです。標的が邪馬台国一つでは、小さすぎるでしょう。おそらく、倭国全体ではないかと」
「倭国?」
「倭国は、邪馬台国を含む二十八国からなる、連合国のようなものです。大巫女様……ヒミコ様のことですが、あの方は邪馬台国の大巫女であると同時に、倭国の女王でもあります」
弥生時代後期の二世紀ごろの日本は、大小百国余りが乱立する争乱の時代だった。
邪馬台国の大巫女であった卑弥呼は、この争いを鎮めるために、二十八国から成る連合国、倭国の女王に共立された。
倭国の都は邪馬台国に置かれ、卑弥呼はその後、永きに渡って、倭国の絶対的な権力者であった。
教科書や図書室の本、インターネット等で調べたこの時代の記録は、その時代を生きていたツクスナの認識と概ね一致していた。
「ヨウダヒの目的は、おそらく倭国の支配。倭国に属さない国も沢山ありますから、倭国を足がかりに、周辺諸国をも掌握しようとしているのかもしれません」
そのためには、壱与姫が邪魔だったのだ。
次の女王となるはずの、強大な力を持つ姫が。
ヨウダヒは先の長くない老齢の卑弥呼ではなく、若い壱与姫に照準を定めた。時を超えてまで執拗に狙うのは、それほど姫の存在が脅威だからだ。
「あの女は、こっちへ来いって言ってたわ。わらわと手を組まないかと。返事は次まで待ってやるって……」
つまり、ヨウダヒは次で決着をつけるつもりなのだろう。
姫の——留以花の魂を連れ去るか、あるいは……。
「行ってはなりません」
「分かってる! そんなこと、分かってる……。でも、今日みたいに、誰かが犠牲になるのは嫌!」
必死な表情の留以花に、ツクスナは何も言ってやれなかった。
彼女の気持ちは痛いほど分かるが、状況はかなり厳しい。次は間違いなく、今日以上の力でねじ伏せようとするはずだ。
私が守る——。
今こそ言わねばならないその言葉を、ツクスナはどうしても口にできなかった。
敵の圧倒的な力を見せつけられ、また守れないのではないかという不安が恐怖となって、自分を縛り付けていた。自分の不甲斐なさに、自分自身を嫌悪していた。
重苦しい時間が過ぎていく。
「ツクスナが言っていた、金色の炎……って?」
留以花がふと思い出したように、沈黙を破った。
唇を硬く結び苦悶していたツクスナは、なんとかその場に自分を引き戻す。
「一瞬ですが、あなたが全身に炎をまとっているのを見ました。多分、私の力が砂の形を取るように、あなたの力は炎になるのでしょう、あれは、姫と同じ炎……」
姫が蛇の文様を刻んだ参徒に襲われたときに出現した、凄まじい金色の炎。あらゆるものを飲み込んで燃え上がり、しかし焼け跡一つ残さなかった、炎の嵐。
留以花の炎は、あのときの姫ほど強大ではなかったが、それでも自分が苦戦した強力な鱗の檻を脅かすだけの威力があった。
「今日のあの炎は、おそらくあなたの持つ力のほんの一端かと」
「一端? 本当は、もっと強いの?」
「そう、思います。私は姫の炎を一度だけ見たことがありますが、信じられないほど凄まじい力でした。あなたにもきっと、同じ力が眠っているはずです」
「……じゃあ、私が、その炎を操れるようになれば、ヨウダヒを倒せる?」
その言葉に、ツクスナがはっと顔を上げた。
「コウが死んで、紗季があんな目に遭わされて、学校もめちゃくちゃで大勢けが人が出て……。壱与姫だって、犠牲になったんじゃない! 次は、わたしなの? 冗談じゃないわ。あの女の思い通りになるもんですか。わたしはヨウダヒを倒したい!」
強い光を帯びた瞳が、ツクスナを射抜いた。
この難しい状況下に置かれても、防ぐでも、逃げるでも、生き残るでもなく「倒す」と言う。彼女のその強さが、ツクスナを大きく揺さぶった。
「きっと! 今はまだ無理でも、ルイカなら、あなたなら必ず!」
椅子から立ち上がったツクスナの言葉に、力がこもった。
彼女がそう望むのなら、きっと、必ず叶うのだと信じられた。
「そのときまで、私はあなたをお守りします。……命にかえてでも」
それは、さっきまで、どうしても口にできなかった言葉だった。
そうだ、決めていたではないか。何を今さら迷うことがある。
姫が、姫の魂を持つルイカがそう望むのなら、なんとしてもそれを助けるのが自分の役目。守れないかもしれないと恐れて萎縮するなど、愚かだ。
しかし。
「やめてっ!」
留以花が両手をテーブルに叩き付けるようにして、いきなり立ち上がった。座っていた椅子が後ろに倒れて、大きな音をたてる。
「命にかえるとか……そんな馬鹿なこと、言わないでよ!」
留以花は震える声でそう叫ぶと、ツクスナを睨んだ。
眼の縁に涙が膨らみ、それが頬を伝い落ちても、全く揺れることのない強い瞳だ。
「命にかえなきゃならないくらいなら、わたしのことなんか守らなくていい! 放っておいて! わたしの代わりに誰かが傷つくのは、もう絶対、嫌なの!」
ぶつけられた強い感情に、ツクスナは言葉を無くした。
守るべき人の前に命を投げ出すことには、何のためらいもなかった。ずっと、それを当然のことだと思って生きてきた。砂徒であるなら、ましてや姫の護衛の任に就く者であるなら、当たり前のことだ。
「ルイカ……なぜ」
ツクスナにとっては、自分の命を失うより、彼女を守れないことの方が怖かった。自分だけが残される苦しみを、もう二度と味わいたくなかった。
その思いはきっと、彼女も同じ——。
「死ぬなんて……そんなの絶対、許さない。ツクスナまでいなくなったら……」
彼女は掠れた声でそう言うと、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
さっきまでとは全く違う、弱々しく頼りない様子に、ツクスナは、やはり自分がどこか間違っているのだと痛感した。
こんな思いをさせてしまうなんて。こんなに、追いつめてしまうなんて……。
守るとは、本当は、どういうことなのか。
自分は、どうしたら……いい。
「ルイカ。さっきの言葉は訂正します。私は……っ」
もどかしい思いでテーブルの角を回り、留以花の肩に手を伸ばす。
「私はずっと、そばにいます」
必死に、しかし直感的に出した答えだった。
「あなたの、そばにいます」
手を置いた彼女の肩が、微かに震えた。
彼女は泣いているようにも笑っているようにも見える顔を上げると、こくりと小さく頷いた。
ずっと、そばにいる——。
その答えはきっと、間違いではない。
命にかえて守るよりも、ずっと、難しいことだけれども。
ツクスナは彼女の様子にほっとして、額に手を当ててうつむくと、大きく息を吐き出した。とたんに、なぜだか可笑しさがこみ上げてきた。
自分の感情の、あまりに大きな振れ幅は、驚きを通り越してひどく滑稽に思える。
「は……はは……。なんだかひどく、格好悪いですね。私」
留以花が一瞬、驚いたような顔をした。
それから、はっきりそうと分かる笑顔で、今度は首を横に振った。




