歴史上の壱与姫
中学三年生も半分近く過ぎれば、教科書の習っていないページが残り僅かになってくる。歴史の教科書も、とっくに昭和時代に入っていた。
もうすぐ中間テストだというのに、どうにもこうにも落ち着かない。教科書も問題集も、文字を目で追っているだけで、中身が頭に入ってこなかった。
留以花は教科書をぱらぱらとめくりながら、ため息をついた。
時計を見ると、まだ夜十時前。カーテンの隙間から外をのぞいてみたが、庭のいつもの場所にツクスナがいる気配は感じなかった。
ふと思いついて、歴史の教科書の最初の方を開いてみた。
中学一年の一学期に習った弥生時代。
たった数ページだけしかないその時代の説明の中に、壱与については『十三歳の壱与を王とした』の、ほんの一文しか書かれていなかった。資料集を見ても、卑弥呼についての説明はあっても、壱与についてはほとんどない。
「壱与……ね」
シャープペンシルで『壱与』という文字を、ぐるぐると丸で囲む。
スマホを取り出して検索してみたが、やはり、たいした情報は見つからなかった。
邪馬台国についての歴史的な資料は『魏志倭人伝』ぐらいしか残っていない。壱与については、その中でも僅かしか触れられておらず、十三歳で王になったということと、その後、魏に使者を送ったという程度だ。また、中国晋王朝について書かれた『晋書』に倭の女王の使者が朝貢したとの記述があり、それが壱与であると推定されている。
壱与という人物については、天皇の血筋であるとか、神話に登場する人物であるなど、いろいろな説があるが、定かではない。しかし『魏志倭人伝』に書かれ、教科書にも載っている人物であるから、実在したことは間違いないだろう。
「はぁ……」
留以花は諦めて、ベッドに身を投げ出した。枕を抱きしめて、はるか遠い弥生時代に想いを馳せる。
ツクスナが仕えていたという壱与姫——。
たった一文とはいえ、歴史の教科書に名を残す少女。
歴史の片隅に、目立たずとも、しっかりと足跡を刻んでいる女王。
どんな人だったのだろう……。
王位に就いた時は、今の自分より二歳年下の子どもだった。その若さで一国の王になるなんて、信じられなかった。
「あ……れ?」
留以花が、がばっと起き上がった。
なんだか、つじつまが合わない。
十一歳のときに敵に襲われた壱与姫は、魂がどこかに飛ばされ、眠ったような状態に陥った。そして、その魂は千七百年以上たった現代で、自分に生まれ変わったのだという。
ツクスナは、確かにそう説明した。
その話が本当なら、眠ったままの壱与の名は歴史に残っていないはずだ。
意識のない少女が、女王になどなれるはずがないのだから。
じゃあ、歴史の教科書に載っている、十三歳で王となったという壱与は一体、誰?
大陸に使者を送ったという女王は……?
そういえばツクスナも、「本当にそんな歴史になっているのか」と確認していた。あの時、彼にもひっかかるものがあったのだ。
後継者を失くした邪馬台国が、慌てて、別の少女を壱与に仕立て上げた?
それとも……壱与姫が甦ったとか?
だけど、姫の魂は、今、わたしに……。
「えっ?」
もう一つの可能性に行き当たり、心臓が大きく跳ねた。
「まさか、この壱与は…………わたし?」
自分が時間を遡って弥生時代に行き、壱与姫となり、一国の王となる。
そんなことがあり得るだろうか。
ツクスナは姫の魂を探すために、時を超えてきたのだ。
だとしたら……。
自分の心臓の音が、妙に耳につく。恐ろしい考えにとらわれて、だんだん頭の中がしびれたようになっていく。
時計はようやく十時を過ぎた。ツクスナはまだ来ていない。
「ツクスナ、早く来て」
不安で、不安で仕方がなかった。どうしても、彼に確認したかった。
留以花は枕をきつく抱きしめて背中を丸め、震える息を吐き出した。
程なくして、彼の気配を庭のいつもの場所に感じた。
普段より、ずいぶん早い時間だ。
しかし、家族が起きている間は、さすがに家を抜け出せない。留以花はじりじりしながら両親が寝静まるのを待って、リビングからそっと外に出た。
「ルイカ、何かあったのですか?」
「え? なんで……?」
ラティスの陰から現れた彼のただならぬ様子に、留以花はウッドデッキに下りたところで足を止めた。
「私を、呼んだでしょう?」
「呼んだ? わたしが?」
「はい。早く来て、と聞こえた気がしました。ずいぶん緊迫した様子だったので、慌てて駆けつけたのですが……何も、なかったのですか」
彼は両肩に手を置いて、無事を確かめるかのように顔を覗き込んできた。
彼が到着する少し前、確かに『早く来て』と強く願った。もしかすると、それが伝わってしまったのだろうか。
「えぇと……危険な事は、何も」
「そうですか。よかった」
彼はほっとしたように、息をついた。かなり心配をかけてしまったらしい。
「ごめんなさい。呼んだつもりはなかったのに……」
「姫にも、よくこんな風に呼ばれましたから、やはり同じ能力をお持ちなのでしょう。私としては、あなたの声が聞こえた方が安心ですから、気になさらないでください」
彼は穏やかに微笑むと、ウッドデッキに腰を下ろした。
「それで? 全く何もなかった訳ではないのでしょう?」
「うん。ちょっと、ツクスナに聞きたい事があって……」
留以花はどう切り出そうかと迷いながら、彼の隣に座った。
自分を守ると言ってくれている彼は、味方とは限らないかもしれない。優しそうに見えて、実は何らかの陰謀を企てているのかもしれない。
そう考えると緊張してきたが、話をせかすことなく、じっとこっちを見つめてくる彼の瞳は、やはり穏やかだ。悪い人には見えない。
留以花は覚悟を決めて口を開いた。
「ツクスナは、壱与姫の魂を探しに来たんでしょ。見つけたら、どうするつもりだったの?」
その言葉に、ツクスナは戸惑いの表情を見せた。
「どう……、とは?」
「姫の魂を、邪馬台国に連れて帰るために、この世界に来たんじゃないの? わたしをこの世界から連れて行くつもりなんじゃないの?」
必死に言葉を続ける留以花から、彼は辛そうに視線を外した。
「私がこの時代に来たのは、あの方の許へ行きたい一心からでした。ですが……そうですね。本当は、姫をあの国に連れ帰る事が、私の使命なのでしょう」
重苦しい声に、留以花は息を飲んで硬直した。
「けれど、あなたは姫ではありませんでした。姫の魂を持って生まれたことは間違いありませんが、この時代に生きる、全く別の人間です。姫であった時の記憶もないようですし……」
「じゃあ、わたしは邪馬台国に行かなくてもいいの?」
「そう、思います」
「ほんと……に?」
「はい。それに私には、時間を超えるような大それた能力はありませんから、あなたを無理矢理、邪馬台国に連れて行くことなどできないのです」
もう一度、まっすぐに自分を見つめる彼の瞳には、嘘は微塵も感じられなかった。
留以花の強ばった肩から、ふっと力が抜けた。
「だったら、どうやって姫を連れ帰るつもりだったの?」
「さぁ……。そこまでは考えていませんでしたから」
「無計画?」
「というより、すぐにあの姫とは違うと気付いたので、考えもしませんでした」
「そっか……」
留以花は胸を撫で下ろした。
邪馬台国に行く必要はない。その手段もない。
それならば、自分が歴史の教科書に残る壱与になるという可能性はゼロだ。しかし、謎は依然として残る。
「でも、教科書には十三歳の壱与が王になったって書いてあったわ。私があの時代に行かないんだったら、この壱与は誰なの? ツクスナが仕えていた姫とは別人なの?」
留以花の疑問に、彼は右膝に肘をついて考え込んだ。
「それは……私にも分かりません。ですが、教科書にある壱与という人物が誰であったとしても、現代にちゃんと歴史が残っているということは、あの国はその後も安泰だったということです。だから、あなたは何も心配しなくていいのですよ」
太古の昔の真実なんて、もう誰にも分からない。
ツクスナも、その時代に存在していた間のことしか知らない。彼がいなくなった後に実際に何が起きたのかは、分かるはずもない。
「今、残っている歴史って、どこまで正しいんだろう?」
「どうなのでしょうね……」
ツクスナが少し寂しげな遠い眼をして、夜空を見上げた。




