第一章 かっしー
この章の主な登場人物
●柏木俊平
寧京学院大学文学部二年生。都市伝説の本が好きで、よく買っている。まじめでおとなしく、内気な性格。密かに同じゼミで一緒になった青葉麻美に好意を抱いている。父は出版社に勤めている。身長は170cm。童顔で短髪。よく「ぼーっとしている」と言われる。
○青葉麻美
寧京学院大学文学部二年生。無口でほとんど言葉を発さず、基本的に他人と関わろうとしない。肌の色は外に全く出ていないと思われるほどに真っ白。身長163cm。セミロングのストレートヘア。普段は銀縁の眼鏡をかけている。声が高く、小声で話すことが多いため聞き取れなかったりすることも。
○石田尚秀
寧京学院大学文学部二年生。お調子者で声が大きく、よく他人をからかう。俊平とは最初に授業でチームを組んで仲良くなった。喫煙者でHOPEの10を吸っている。髪は暗めの茶色に染めている。身長174cm。
○水沼絵里
寧京学院大学人間研究学部二年生。男勝りな性格で強気なことを言うことも。人見知りを全くせず、すぐに打ち解けられるタイプ。柏木とは中学校が一緒だった。テニスとフォトサークルに所属している。基本的に週末は誰かを誘ってどこかに出かけている。髪はところどころ黒を残しつつ金に染めている。屋外に出ることが多いため褐色肌をしている。身長153cm。
(1)
「青葉さん?」
小さい声で話しかけたけど反応がない。今度は彼女の肩を軽く叩きながら名前を呼んでみた。
「え……?」
彼女は口を開けたまま、上半身だけ俺から体を遠ざけた。図書館で同じゼミの子を見つけたからといって、話したことのない彼女にいきなり声をかけるのはさすがにまずかっただろうか。
けどここまで来た以上そのまま引き下がるのは嫌だった。なにか話題を探そうと、彼女の机に目を向ける。新聞の縮刷版が広げた状態で置いてあった。授業の課題でもやってるのだろうか。冊子の横に置かれてるコピー用紙に目を配ると、印象に残ってる事件の記事があった。ハサミも置いてあるから、スクラップするつもりなのだろうか。
「同じ住宅街の4世帯で同時行方不明。現場には二人の遺体」
たしか所沢で起こった事件だ。色んな本でこの事件に関する考察を見たのをよく覚えてる。
「これ知ってる。けっこうでかいニュースになったのに、数日でどこのメディアにも取り上げられなくなったんだっけ」
「よく知ってるね」
「都市伝説の本とかブログでこの話何回か見てるから」
本当に色んな考察を見た。犯人が警察とかマスコミの関係者だから話題にしなくなったとか、見つかった二人の遺体には現代科学じゃ考えられない傷跡があったとか。
「でもそんなの、信用できない」
彼女が冷たく言い放つ。たしかに、青葉さんの言うとおりだ。でもたまにああいった荒唐無稽な話の中にも、信憑性がありそうなものもある。今回の話はどうか分からないけど。
そういえばこの事件のことは本とかネットで見ただけで、新聞とかで見たことはなかった。どんな風に書いてあるのか気になった俺は、棚の方に戻って縮刷版を探し始めた。たしか事件が起こったのは二〇一四年の六月だったはずだ。前に家でとってた読売の縮刷を探したけど、その月のものだけ抜けていた。青葉さんが持っていったのは読売のものだったのだろうか。
俺は毎日新聞の縮刷を見つけて棚から抜いた。彼女がいた場所に戻ろうとする。
「あれ?」
青葉さんがさっきまで座ってたテーブルの一角に人はいなかった。広げてた本もバッグも全部なくなってる。俺は小さくため息をついて、彼女がいた向かいの席に腰かけた。
スマホでその事件について書かれたブログを探してから、テーブルの上に置いた縮刷を開いた。たしかに新聞の一面を二日間にわたって飾ったその記事は、他に大きな事件があったわけでもないのに、次の日から急激になりを潜めていっている。不明者の方に焦点が当てられ、二人の遺体について書かれた記事はほとんどなくなっていった。たしかに本とかサイトに載ってた考察通りだ。これじゃ、なんか裏の力が絡んでると思われるのも無理はないかもしれない。とはいえ、考えすぎな気もしなくはないけれど。今まで新聞というメディアからこの事件を見たことがなかっただけに、別の角度から見られてなんだか新鮮だった。
そのとき、ポケットの中のスマホが小刻みに三回震えた。LINEの通知だった。取り出した場所に本を置いて、スマホを出す。画面には石田尚秀の文字と顔写真のアイコンとともに「後ろ! 後ろ!」と書いてあった。
言葉通り振り向くと、尚が片手を上げて立っていた。
「よぉ。見たぞー、お前が女くどいてるとこ。かっしーにしてはなかなかやるじゃねーか」
俺は顔を赤くしながら口の前で人さし指を立てた。
「声でけーよ。ここ図書館だぞ」
「おう、わりぃわりぃ。それよりさ、このあと飯いかねー?」
「ああ、いいけど」
俺は尚と階段を降りながら、周囲に目を配ってた。青葉さんがどこに行ったか分からなかったから、さっきの話を聞かれていないか不安だった。
「今日はチャリ? バス?」
「チャリだよ」
「オッケー、俺もチャリだ。じゃあ駐輪場向かうか」
敷地が妙に広いせいで、そこまで歩くのにも時間がかかる。建物どうしが離れているせいで、走らないと次のコマの授業に間に合わないことすらあった。一〇分じゃ足りないからせめて休み時間を五分でも伸ばしてほしい。
寧京学院大学のこの埼玉キャンパスに長く勤めている先生達はそれを分かっていて、遅刻に寛容になった人さえいるくらいだ。それに遠いのは駐輪場までじゃない。ここから駅までも若干遠いから余計に面倒だ。郊外の大学にはよくある話なのかもしれないけど。
「分かるわそれ。でも大学の近くにアパート借りても、たまり場にされるだけだぞー。俺がそうなりかけたからな」
俺のぼやきに尚が答えた。彼は大学から見て駅の向こう側にあたる場所で一人暮らしをしている。何度か遊びにも行った。何もないとはよく言ってるけれど、自転車だと五分で着く距離にスーパーがあるから便利といえば便利な気がする。夕飯を作るのが面倒になったときは、割引になっている総菜を買えば安く腹を満たせるとも言っていたし、正直うらやましい。もっとも彼がその状況を不便だと言っているのは、地元が神奈川ということもあるのだろう。神奈川みたいななんでも揃いそうなところと比べたら、物足りなさを感じるのも無理はない。
尚とは大学のいちばん最初の授業で、ペアを組んでから仲良くなった。話していると面倒なことも多いけど、いつも元気な彼にパワーをもらうことも多い。自転車をとった俺達は、駅前のココスまで向かった。喫煙席の4人用の席に向かい合わせる感じで座る。とりあえずドリンクバーだけ頼んだ。
「おまえ、何がいい?」
「あ、じゃあメロンソーダで」
尚がドリンクバーに行ってるあいだ、俺は周囲の席を見渡した。見た感じ知り合いはいなさそうだ。彼はメロンソーダの入ったグラスを俺の目の前に置くと、ニヤニヤしながらこっちを見てきた。
「それで今日は、かっしーが女くどいてるところを目撃したわけだけど」
「だから声でけーって。頼むからもう少しボリューム下げてくれよ」
「わりぃ」と言わんばかりに彼は両手を合わせた。
「あれ、うちの学部のやつだろ? 必修で見たことあるわ。青葉麻美だっけ」
相変わらず顔と名前を覚えるのは人一倍早い。なんでフルネームまで把握してるんだよ。
「あのゼミで女子っていったら二人しかいないもんな。今言ったソイツと、ウェイ系集団の紅一点のギャルだけ」
なんで他のゼミのメンバーまで把握しているんだよ。今ここに彼らの知り合いがいたらどうしようと思いながら改めて周りを見た。いないと分かっていてもやっぱり不安になる。今俺がいる伊勢原ゼミはいちばん楽ということで、例年そこに人が殺到するみたいだけど、今年はおちゃらけグループのメンバーが大声で「伊勢原ゼミしか考えらんねーよ!」とか騒いでたせいで、みんなそのゼミを避けるようになってしまったみたいだ。他にも今年は真面目な人が多いという理由もあるみたいだけど、本当のところは分からない。
「むしろあのゼミに、お前とか青葉みてーな真面目そ~な奴が入ったのが未だに不思議だわ。え、なんで入ったん?」
「一年の頃あの人の授業受けて感じがよかったからだよ」
「それ、文学論Ⅰだろ? あれのどこがいいんだよ。話聞いてたけどなんのことかさっぱり分かんなかったわ」
そう言って尚はタバコに火をつけた。
逆に俺はあの授業何がダメだったのか分からない。小難しいことを並べてはいたけど、あらかじめその作者の予備知識があれば普通に面白い内容だったのに。今ゼミでやっているフィールドワークも、歩きながらその土地にゆかりのある文学者の雑学が聞けて面白いし。
あのおちゃらけ系の五人組は遊び半分で来ているけど、声が大きいのと歩きタバコをする以外は比較的マナーを守っている気がする。小学生のときにいじめを受けていたせいで、危害を加えないだけまともとすら思っている。
キャンパス内でゼミをやるときは、授業が始まるまで卑猥な話とかで盛り上がってるけど、二〇人ぐらいしか入れない狭い教室だからか必修の授業と違って先生が来てからは大人しい。必修みたいな広い教室でやる授業だとたいてい注意されるまでやめないけど。伊勢原先生が大人しくてあまり注意しないのも彼らが俺と同じゼミに入った理由なのだろうか。
尚が口から煙を吹かす。
「とか言って、実はあの人と同じゼミになりたかっただけなんじゃねーの」
俺は激しく首を振った。冗談じゃない。彼女を知ったのはゼミに入ってからだし、だいいちアンケートをとった時点で誰がどこのゼミを希望しているかなんて聞かなければ分からない。
「ゼミ飲みとかないんだっけそっちは」
「ないよ。あったとしてもあの集団が騒ぐだけじゃないかな」
ため息交じりに言ってみた。
「おまえバカだなぁ。そういうときこそ話しかけて仲良くなるきっかけ作るチャンスじゃねーか」
「何話すんだよ。そもそもあの人飲み会来るかわかんないし」
「なんでそんなネガティブなんだよ。このままじゃ一生彼女できないぞー」
尚はそう言いながらにやけ顔でタバコを振った。
自分が奥手なのは分かっていた。だから彼女なんてまともにできたことがない。向こうから話しかけてくる女子と話すことは普通にできるけど、青葉さんみたいに物静かな人と仲良くなったためしなんてなかった。
尚はそのあともマシンガントークで会話を続けたけど、俺は内容をほとんど覚えてないくらいもやもやしていた。
東上線に揺られて最寄りまで着く。ここからまた家まで自転車を漕がないといけないのが面倒だった。昼間の熱さがまだ残ってて、少しだけじめじめしている。いつもよりも自転車を漕ぐスピードが遅いのがなんとなく分かる。いつもは立ち漕ぎで楽に上がれる坂道も、今日は途中でギブアップした。
帰ると、家には明かりがついていない。父さんはまた今日も帰らないのだろうか。俺は屋根つきの駐車場の端っこに自転車を停めた。玄関に向かう道についてるセンサーライトだけが俺の帰りを歓迎してくれている。リュックから鍵を取り出して家に入った。
父さんが帰ってくるかどうかは分からないけど、一応玄関の明かりはつけておく。帰ってこない日は次の日の朝までつけっぱなしになってしまうことも多い。廊下の照明もつけて二階に上がっていく。自分の足音だけが響きわたる。やっぱりこの家は無駄に広い。
部屋に入ってベッドに体を放り投げた。視界の上の方に本棚が映る。黒地に黄色い文字で書かれた都市伝説の本の背表紙がふと目に飛び込んできた。コンビニでたまに面白そうだと思って買うやつだ。中には父さんが編集を手がけた本もある。忙しくもいきいきと仕事をやってる父さんに近づきたくて、文学部に入った。実力をつければコネで入社できるかもしれないという淡い期待もあった。出版編集論の授業でやった校閲の課題をやってると父さんに話したら「そんなんできただけで仕事が務まると思わないでね」と言われた。
今日青葉さんが見てた記事から話題を広められないかと一冊手元にとってページを開く。最初の方は都市伝説を好きな人にとってはお馴染みなフリーメーソンやら宇宙人やらのよく聞く世界規模の陰謀の話ばかりだから、あの事件のことが載ってるのはだいぶ後半になる。
その本には、見つかった二つの遺体のうち、女性の遺体の損傷が激しかったという話は嘘で、本当はその女性が真犯人だったと書かれてあった。マスコミと繋がっている彼女の身内が、都合の悪い情報をもみ消してそう書きかえたらしい。
さすがにこういった本に本名は載ってないけど、ネットのブログとかを探すと被害者の二人の本名は怖いほど簡単に見つかる。高梨梓と竹内昇。どこから入手してきたのか顔写真まで見つかるから驚きだ。ネットの検索バーで、「たかなし あ」まで入れただけで、「高梨梓 真犯人」と候補に出てくる。虫眼鏡をクリックすると案の定彼女が真犯人だという説を推すページがいくつも出てきた。上から順にクリックしていくと、四番目の記事はそれを否定する内容が書かれていた。ただ、どれも確証があるのかどうか分からない情報ばかりでいったいどれを信用したらいいか分からない。どうせ考えるだけ無駄だと思った俺は、パソコンを閉じてベッドに身を放り投げた。
(2)
「よう、かっしー。元気か?」
駐輪場で俺を見つけた尚が肩を叩いてきた。
「昼メシは?」
家で軽く食べてきた俺は首を振った。今日は木曜日。三限から五限目まで必修が続く。まだ伊勢原先生の授業が五限にあるだけマシかもしれない。その時間には眠くなって寝てる人も多いけど、俺は逆に五限がいちばん眠くならない。
「じゃ、俺が飯買ったらもう教室行っちゃう?」
「いいよ」
俺と尚は売店に足を運んだ。昼休みになってから一五分経ってて、レジに続く長蛇の列も少し落ち着きはじめてる。俺はおーいお茶のペットボトルだけ取って列に加わった。尚は惣菜パンを2つ取って俺の後ろに並ぶ。
「あー、だりいなぁ授業。サボっちまおうかな」
尚があくびをしながら言う。俺は苦笑してこう返した。
「ここまで来たのに?」
「分かったよ、出るよ。一人だと寂しいんだろ。でもあの子がいるんだから……」
「おい、やめろって」
尚の声をかき消すように大声で止めた。後ろに並んでいた人の視線が集まる。同じ学部と思う人がいなかったことが幸いだった。
「次の人どうぞー」
店員が少し大きめの声で手を振っている。俺は慌ててレジの前まで行った。もしかしたら何回か呼ばれていたかもしれない。俺はボトルにテープを貼ってもらってから、売店の外に出て尚を待った。
「おう、わりぃわりぃ。お待たせ」
尚が軽く走りながら出てくる。
「ま、今日は授業出るかぁ」
エレベーターに乗って5階まで向かう。教室の入り口まで来たところで、前を歩いてた尚が突然こっちを振り向いてにやけた。目線の先を見て、俺はため息をつく。
「いるじゃん、あの子。話しかけにいかねーの?」
「別に今はいいよ」
「はぁー、おまえはほんとダメだなぁ」
突然早歩きになって教室に入っていく尚。俺が止めるよりも彼が青葉さんの机に手を置く方が早かった。
「よう。コイツが話あるってさ」
尚が俺に親指を向ける。彼女はぽかんと口を開けたまま俺と尚を交互に見ていた。急激に頭に血が集まる。なに余計なことしてくれちゃってんだよ。
「なに?」
彼女の細く柔らかそうな声とは裏腹に、鋭い言い方だった。なにか話題、なにか話題……。ふと彼女が開いてたノートに目線が移った。
「これ、全部ボールペンで書いてるの?」
「うん」
青葉さんがつぶやくように返事した。「なに聞いてんだよ」と横で笑う尚を軽く肘で小突く。絵が描いてあったとかじゃなくて、授業のメモを全部ボールペンで書いてあることに驚いた。
「シャーペンとかで書かないで、間違えたときどうするの?」
「別に」
彼女は下を向いた。尚は横で失笑してる。
「なんだよその話題」
俺の耳元で尚が笑いながらささやく。息がかかって舌打ちしたくなった。そこから間髪入れずに青葉さんの方に顔を向けた。
「ってかさー、彼氏いんの?」
心の中で「オイ」と叫びたくなった。いきなりそれ聞かないでくれよ。胸の鼓動がどんどん大きくなっているのが分かった。
「……いるよ」
青葉さんの返答に、ただでさえ真っ白だった頭の中がさらに空虚に包まれていった。顔に出ないように表面だけは顔を笑わせる。 彼女はスマホの画面をつけ、指を何度も何度もスライドさせてデータフォルダ内の写真を探していた。
「……この人。徹さんっていうんだけど」
クリーム色のスマホをこっちに向けた。わざわざ写真まで見せなくていいよ……。白い車をバックに、青葉さんとその男のツーショットが写っている。カジュアルのワイシャツとジャケットをきれいに着こなしていて、二人を並べた感じだと背も高い。四角い眼鏡をかけていて知的な感じだ。白衣を着ていたら理系大学の研究室にいそうな感じがする。
「この車、レガシー?」
「そう」
「彼氏の車なん?」
「うん」
俺を置いてけぼりで話を進めていく二人。動揺を悟られるわけにはいかなかったから俺は忍び足で普段自分が座ってる席に向かった。それに気付いた尚が話を切り上げて追いかけてくる。
「なーに落ち込んでんだよ」
肩を強めに叩く尚。声の大きさもあいまって本気で叩き返そうかと思ったけどさすがにやめた。
その日は俺の好きな伊勢原先生の授業だったのに、全く頭に入ってこなかった。
「ま、残念だったな」
授業が終わったとはいえまだ人はいるのに大声で話す尚。頼むからもう少し空気を読んでくれ。おまえは明るくて楽しくていい人だから、そこだけは直してほしいんだ。
「待って、帰る前に一服させて」
「じゃあ先に帰るよ」
「なんだよー。失恋したからほっといてほしいってか?」
俺は彼の言葉を無視して一人で歩いていった。
今日は昨日よりもさらに道が長く感じられた。足にうまく力が入らなくて、今日は家の前の坂道が目に入った段階で自転車を降りた。登りきって家を見たけどまた明かりはついてない。でも今日は父さんがいない方がいいか。落ち込んだ顔を見られたら色々聞いてくるに決まっている。
いつも通り車庫の隅っこに自転車を停めようとした。でも、センサーライトがつかない。俺は手探りで鍵を抜いた。リュックから家の鍵の方を探そうと思ったけど色々な物が入っていてうまく探せない。やっと指にキーホルダーのリングが引っかかって取ることができた。玄関まで歩いたけど、鍵穴だけは手探りだとどうもうまく挿せなくて、結局スマホのライトをつけて鍵を挿し込んだ。
そのままスマホのライトを頼りに進んでいたから、玄関の電気も廊下の電気もつけなかった。階段の電気だけつけて二階に上がる。部屋の電気をつけると、昨日机の上に置きっぱなしだったパソコンと都市伝説の本をそれぞれ棚にしまい、倒れ込むようにベッドに横になった。
(3)
「どーん」
高い声が聞こえたかと思うと、背中に軽い衝撃が走った。頭突きされたのが感覚で分かる。
この大学で俺にこんなことやる女子はあの人しかいない。水沼さんだ。そこまで仲がよかったわけではないけど、中学のとき二年間クラスが一緒だった。俺より偏差値が上の高校に行っていたから、まさか同じ大学だとは思ってなかった。
「なに沈んだ顔してんの?」
「い、いや……」
彼女は手に持っていた後ろがメッシュになっている黒いキャップをはめ直す。
「好きな人に彼氏いたからショック受けてんじゃないの?」
「な、なんで知ってるんだよ」
いったいどこから漏れたんだ。いや、事情を知っているとしたら……。
「尚くんに聞いたの」
「え。尚くんって、尚秀?」
「そ。喫煙所で話したの」
なんで二人が知り合いなんだよ。水沼さんは俺達と違って人間研究学部なのに。というか尚のやつ、周りに言いふらしてたのか。あとで覚えてろよ。
「ってか、煙草吸ってるの?」
「吸うよ? ほら」
水沼さんは肩に提げてた紺のバッグから黒地に青の文字でKoolと書かれた箱を取り出した。尚もそうだけどよくこんな害の塊みたいなものを吸っていられるなと思う。俺からしたら金を出して寿命縮めてるだけにしか思えない。
「それ、電源ボタンのマーク潰すとメントールが出るやつだっけ?」
「そそ。よく知ってるじゃん」
たまに広告で見かけるから存在は知っていた。父さんがやっている出版社の雑誌にもたまにこの広告が載る。
「でもあさみんに彼氏いたのにはびっくりした。うちがそれ聞いたときは「……どうだろ」ってはぐらかされたのに」
「青葉さんも知ってるの?」
「知ってるよ。だってサークル一緒だもん。しかもうちの彼氏の大学の近くに住んでたみたいなんだよね」
「えっ、同じサークルってことは、テニス?」
「んなわけないでしょ。テニスやってる人があんなに肌白いわけないじゃん」
たしかに水沼さんは中学のときからこんがり焼けた褐色肌をしている。それに対して青葉さんの肌は大学以外で外に出てないって思うぐらい真っ白だ。
「うちがフォトサーにいるの、知らなかった?」
はじめて聞いた。青葉さんがサークルに入っていることにも驚いた。入っているとしても文芸サークルみたいなところにしか入らないだろうと思っていた。何よりいちばんのびっくりは、水沼さんが尚どころか、青葉さんとまで知り合いだったってことだけど。
「飲み会とかはぜんぜん来ないけど、東京に写真撮りに行くときにはあさみん来るよ。こないだは神保町とか神田の方行ってきたし」
水沼さんは水色のリュックからカメラを取り出して写真を見せてくる。年季が入った古本の山とか、有名な出版社の本社ビルが収められていた。
「そういやしゅんくんのお父さん、出版社で働いてたんだよね」
「今もだよ」
「じゃあ中学のときからずっと続けてるんだ。すごいね、コネで入れるじゃん」
俺はゆっくりと首を振った。
「そんな簡単じゃないよ。ここにあるようなでかいところじゃないから、独自の情報を集めようと必死なんだ。まずは認めてもらわないと」
父さんは本当に仕事一筋という感じの人だ。帰らないときは一月まるまる帰らない。でも文句ひとつ言わず、仕事に取り組んでいる。そのせいで離婚して両親は離ればなれだけど、本は好きだったし父さんについてきて正解だったとは今でも思ってる。家事全般やらなきゃいけなくなったけど、もう慣れた。ただ、もともと家族全員で暮らしてた家だから、ずっと同じ場所に住んでるはずなのに未だに広く感じる。
「このあと授業?」
「いや、今日は午前中で終わり。昼も食べたし、帰ろうかと思ってた」
「そっかぁ。じゃあこのあと暇?」
「まぁそうだけど」
「じゃあ来てよ。川越のおいしい店紹介してあげる」
水沼さんは俺の右手首をがっしり摑んで歩き出す。手の甲に彼女の紺の腕時計が当たって少し痛い。
「いや、俺昼食べたって言ったじゃん。あと、バス乗り場あっちじゃない?」
「そうじゃないよ。あさみん誘って食べに行けそうなとこ教えてあげる。おしゃれなとこいくつか知ってるんだ」
「あのさぁ、青葉さん彼氏いるの分かってる?」
俺は握られてる水沼さんの左手を軽く数回叩いた。腕時計のベルトが手の甲に当たって痛い。彼女はいったん手を離して振り向く。
「でもうちが聞いたときはごまかされたから、うまく行ってないのかもしれないよ。だから今が狙い目じゃない? あさみんかわいいから、すぐまたとられちゃうかもね」
なんでそんな考えができるんだ……。彼氏がいるんなら狙うべきじゃないと思うんだけど。
「あと、青葉さんって呼ぶのやめなよ」
「なんで?」
「あの子、自分の苗字が嫌いみたいで、あんまり呼んでほしくないんだって」
じゃあなんて呼べばいいんだろう。いきなり下の名前で呼ぶのもなんか嫌だった。
それにしても、なんでこの人は誰とでも仲良くなれるんだ。俺も水沼さんみたいに話せればな。俺は水沼さんのあとを歩きながらそんなことを考えていた。
「どこに連れてこうとしてるんだよ」
「パソコンルーム。お店探すんならそっちの方がいいでしょ」
ほんとに時間割いてまで調べようとしているのかよ……。誘っても来るかどうか分からないっていうのに。
「だったらスマホで調べればよくない?」
「今うちのiPhone、通信制限かかっちゃってるんだ。だからパソコンの方が調べやすいかなって思って」
本当にこの人の行動力には驚くばかりだ。
「水沼さんってすごくアクティブだよな。Facebookとか見てると本当にいろんなところ行ってるって思う」
「まぁねー。もともと家でじっとしてるの嫌いだし。遊びたいって思ったらすぐ誰か誘って出かけるもん」
それですぐ一緒に行ける人が見つかるのがうらやましい。
「今度は彼氏の会社のバーべキューに参加するしね」
「なんで部外者が参加できるんだよ」
「なんでだろ。まぁ誘ってくれてるんだしいいんじゃない?」
水沼さんの彼氏は五歳上の社会人みたいだけれど、いったいどこでどうすれば大学生と社会人が巡り合えるのか俺には分からない。
パソコンルームに着くと水沼さんはキーボードの横にキャップとサングラスを置いた。パソコンの電源ボタンを押す。
「ほら、そこ座って」
隣の空いてる椅子を転がして俺の方に差し出してきた。とりあえず座る。水沼さんはChromeを起動して川越 カフェって打ち込んた。
「あー、これ邪魔」
水沼さんは少し乱雑に右手につけてたビー玉ぐらいの大きさの透明な玉が並んだブレスレットと、左手の時計を取ってキャップの脇に置く。左手首の二本のミサンガだけが残った。
「えーっと……あっ、ここだ! きりしまってとこ。こないだ彼氏と寄ったの」
店内の画像を見た感じだと、昭和の書斎を思わせるように壁一面本棚が並んでいる。というより、壁が本棚って言われても納得できそうな気さえする。
「あさみんも同じ文学部なんだし、こういう本だらけのとこ好きそうじゃない?」
さすがに文学部だから本だらけのところ好きってのは安直すぎるとは思いつつ、言いたいことを喉にとどめた。
「でさ、このミートパスタがすっごくおいしかったの! 量少なそうに見えるけど、麺がちょっと太くて思ったよりおなかいっぱいになったんだよね」
楕円状の真っ白な皿に盛りつけられたそれはたしかにおいしそうに見えた。端っこにちょっぴり添えられてる葉っぱも、麺によく絡まりそうなミートソースもたしかに食欲をそそられる。
「ここ行ってきなよ。ほら、ケータイ貸して」
何をしようとしてるか分かった気がしてパソコンの画面からふっと目をそむけた。
「何やってるの。出して」
俺はゆっくりと右手をズボンのポケットに持って行く。親指と人さし指でスマホを取った。
「ほら、貸すの」
俺のスマホは一瞬にして水沼さんに取り上げられた。勝手にLINEのアイコンをタップする。一瞬ドキッとしたけど開いた画面には石田尚秀の文字がいちばん上に表示されてるだけだった。
「え、トーク全部消してるの」
「だって増えてくとめんどくさいし」
水沼さんは指を左に動かす。画面が動いた。画面を下にスクロールさせていく。
「ここならあるでしょ」
伊勢原ゼミと書かれたグループをタップする。
「おい、待てよ」
俺が手を伸ばそうとしたらスマホを引っ込められた。
「えっと、これかな?」
メンバーリストの中の「あさみ」って名前を押してるのが分かった。灰色の初期アイコンが表示される。
「友だち登録もしてないの?」
「だってさ……」
「ってことは、今までLINEもしてなかったってこと?」
水沼さんから目をそらしながら「そ、そうだけど」ってつぶやいた。
「じゃあうちが最初の文だけ送ってあげるから、あと頑張って!」
彼女は画面の下半分で親指を動かしていく。もしこのまま青葉さんに送られたら……。
「やめてくれよ」
咄嗟に出た右手は、水沼さんの手からスマホを奪い返していた。白い目で無言のままこっちを見てくる。
「じゃあどうやって仲良くなるの?」
「もっと自然体でいきたい」
「しぜんたい?」
どっかに誘うのはまだ早いって。話しかけるのもやっとなのに。
「どうする気でいるの」
「だから学食とかで会って話すとこから始めたりとか……」
水沼さんが声に出さずに小さく笑い始めた。
「そんなんだと友達にはなれても先進めないと思うよ」
じゃあ俺はどうすればいいんだよ。
「でもそれだったら頑張れるんでしょ? じゃあ来週の木曜、授業終わりに学食で会おうよ。あさみんはうちから誘っとく」
「え……」
「それもダメならもう知らないよ」
ここは頑張ってみるべきなんだろうか。たしかに、今のままでは何も変わらない。協力してくれるわけだし、たとえ同じ学部でもチャンスを逃したら卒業するまで何も話せないままかもしれない。だったら、ここで少しは頑張ってみるか。
「じゃあ来週の木曜、行くから」
「逃げないでね。もし逃げたら、うちがあさみんに好きってこと言っちゃうよ」
「……分かったよ」
今から胸がドキドキいってきた。果たしてうまく話せるだろうか。
(4)
俺は柱の陰から水沼さんの様子を伺ってた。彼女はiPhoneを取り出して文字を打つ素振りを見せる。その直後、俺の汗ばんだ手が短く三回震えた。誰からのLINEだろうか。あれ、水沼さん?
「気持ち悪いから覗くようにこっち見るのやめて。いつ来てもいいようにちゃんと心の準備整えときな!」
水沼さんが冷たそうな目を向けてくる。俺がそれに頷くと、彼女は小さくガッツポーズをした。そうだよな。俺が頑張らなきゃ意味ないもんな。俺は静かに柱から離れる。でも、様子が分からないだけで心拍数が余計に上がっていく。手汗もひどくなって手に持ってるスマホが滑る。ほんと臆病だよな。別に告白するわけですらないのに。
本当に来るのかどうかも心配になってきた。この日にいる確率が高いってだけで、今日確実に来る保証はどこにもない。水沼さんはちゃんと誘ってくれたのかな。とりあえず、いつ来ても大丈夫なように深呼吸して心を落ち着かせておこう。
「よう! お前なにこんなところでこそこそしてんだ?」
「な、なんだよ」
いきなり後ろから肩を叩かれたからびっくりした。
「あそこにエリさんいるから、行こうぜ」
「い、いや。ちょっと待ってよ」
今そんなことをされたら、せっかく水沼さんがセッティングしてくれたのに台無しになるかもしれない。どうせ正直に言わないと分かってもらえずにあの席に行っちゃうだろうと思って、俺は正直に今水沼さんのところにに行きたくないわけを話した。
「なんだよそれ。別に後から行く必要ねぇじゃん」
「でも俺達がいてあの席に来なかったらどうするんだよ」
尚はそれを聞いて笑い出す。
「嫌われてると思ってんのかよ。ま、仮に去ってったら気がなかったからドンマイってことでいいんじゃねーの」
なんでそんなに軽く言えるんだよ。
「いいから行こうぜ。お前は受け身すぎなんだよ」
尚に腕をがっしり摑まれて水沼さんがいるテーブルに向かってく。力が強くてなかなか振りほどけない。テーブルの近くまで来ると、俺達に気付いて苦笑いをしながら手を小さく振った。
「尚が勝手に連れてきたんだよ。俺は嫌って言ったのに」
「コイツほんとチキンだよな。そんな回りくどいことしないで自分から話しかけにいけばいいじゃん」
「前にも言ったかもしれないけど、中学のときからそんな感じだよ。恥ずかしがり屋だもん」
そんなことを言ってないで彼を止めてほしい。
「尚になんとか言ってよ」
「ちょうどいいと思う。少しくらい感づかれてもいいじゃん」
だからなんでみんなして……。俺はそういうアプローチが苦手なんだよ。
「お、あの人のご登場だぞー」
俺は口の前に人差し指を置いて「シーッ」って大きく言った。
「ほら、チャンスだよ」
慌てて首を横に振った。水沼さんが苦笑してる。
「あさみん、やっほー!」
手を大きく上げて彼女が叫ぶ。青葉さんは小さく手を振ってそれに応えた。こっちに向かってくるだけで心臓がバクバクいってる。
「なに? この集まり」
なんて返せばいいか分からなくて俺は水沼さんの方に目をやった。そのとき、俺の両肩にがしっと手が乗る。
「コイツが話あるってさ」
なに言っちゃってるのこの人。心の中でふざけんなよって叫びたくなった。急激に顔に血が集まってくる。
「わたし、他の場所で食べてるね」
青葉さんは俺達に背中を向ける。ほんとに最悪だ。なんで尚は余計なことしかしないんだろう。立ち去ろうとする彼女の左手を水沼さんが摑んだ。
「いいんじゃない? たまには一緒に食べようよ」
下を向いてちょっと間を置いたあと、水沼さんの手を無言で振りほどく。その足でゆっくりと厨房に向かっていった。撫で下ろそうとした胸がまたキュって痛んだ。
「絶対怪しまれたって。頼むから尚は静かにしててよ」
尚は不服そうに「えー」って言ってる。
「うん、さすがに今回は調子に乗りすぎかも。もうちょっと落ち着いてて」
水沼さんがこのテーブルに来てからはじめて味方になった気がする。
「で、しゅんくんは話す内容とか考えてきたの」
「いや、でもこっち来るか分かんないし……」
「来ないって決まったわけじゃないじゃん。準備しとかないとどうせ何もしゃべらないでしょ」
たしかにそれはそうだけど。でも何を話したらいいんだろうか。ゼミのこととか伊勢原先生のことでも話してみるかな。それだけじゃ次はなにを話すんだって感じになっちゃうか。
「青葉さんなんか趣味とかあるの?」
「本読むのは好きって言ってたよ。それは知ってたでしょ? あと、苗字で呼ばれるの嫌いって言ってたの忘れちゃった?」
そういえばそうだった。
「じゃあ、なんて呼んだらいいのかな」
「そんなの自分で考えなよ」
「エリさんみてーに『あさみん』って呼んでもいいんじゃね」
さすがにいきなりそれは馴れ馴れしい気がする。普通に麻美さんと呼ぶのが無難だろうか。それぐらいしか思いつかない。そんなことを考えてる間に青葉さんはトレーを手に持ってる。
「あさみーん!」
水沼さんがまた大きく手を振ってくれた。手招きして呼んでくれてるけど果たして来るだろうか。青葉さんは目線をこっちに向けたあと静かに持ってたトレーに移す。
「おいでよー!」
その一言が効いたのか、彼女はこっちに向かって歩いてきた。
「やったじゃん」
尚が俺の肩をまた叩く。嬉しいけどやっぱり緊張する。
「みんな友達なの?」
「うん、しゅんくんは同じ中学で、尚くんは喫煙所で知り合った」
「そうなんだ」
相変わらず小さい声で彼女は話す。下手したら周りの騒ぎ声にかき消されてしまいそうだ。そっとトレーを置いて俺の向かいに座った。額を撫でて顔の赤らみを抑える。水沼さんが胸の正面で小さくガッツポーズをしてきた。なにか話さなくては。
「あお……、麻美さんは、普段どんな本読むの?」
「ミステリーとかかな」
「好きな作家は?」
「アガサ・クリスティとか」
まずい、俺はあまり海外文学を読まないから名前しか分からない。たしかあの人の書いた小説は……。
「オリエント急行とか書いた人だっけ」
「そう」
口を動かそうとしたところで何を話したらいいか分からなくなった。このままだと会話が続かない。どうしよう。まだほとんど話していないのに。麻美さんは下を向いておかずをつまみ始めた。
「かっしーは本好きだもんな」
気まずくなりかけたところで尚が口を挟んでくれた。なぜだか異様に安心する。
「お父さんが出版社で働いてるのもあるでしょ」
「そうなの?」
麻美さんが箸を置いて落としてた視線を一瞬でこっちに向けてきた。いきなり心拍数が上がる。やっぱり文学部だとこの話に食いつく人が多い気がする。
「なんてとこ?」
会社名を言っても分かってくれた人なんて今まで一人もいなかった。がっかりされるか会話が続かないのがオチだって分かってた。尚だってそうだったし。
「い、言っても分かんないと思うけど」
「言ってみて」
「二明社ってとこ」
彼女の目の色が変わった気がした。体を前に乗り出してくる。緊張するから顔を近づけないでほしかったけど、嬉しかった。
「どう書くの?」
「漢数字の二に、明るいって書くけど」
「そこ知ってる」
意外と都市伝説が好きなのだろうか。はじめて分かってくれる人に会ったよ。こんなところから話が広がりそうになるなんて思ってなかった。
「そういう本読むイメージないんだけど」
「……たまにだけどね。アポとかとれたりしない?」
予想以上にぐいぐい食いついてくる彼女に驚いた。さっきまでこっちに来るかどうかも迷っていたのに。
「父さん、忙しくて家にも帰れなかったりするから、いつになるか分かんないけどいい?」
「だいたい出版社の人ってみんなそうだと思う」
いつ返信くれるか分からないけど、ひとまず父さんに連絡入れとくか。LINEの文字を打つ手がいつもより早かった。その間に麻美さんはせっせとごはんを食べてる。
「あれ、ここの閉館って何時だったっけ」
「大学が閉まるのは一〇時だけど、この学食は七時までで閉まるよ」
水沼さんの言葉に俺は壁掛けの時計を確認する。今は六時四五分だからあと一五分で閉まるのか。
「さすがサークルで夜遅くまでいるやつは違うな」
「部室とかで話してるだけだけどね。ナイターとかもやったりするけど、一ヶ月に一回ぐらいだし」
「へぇー。それよりこのあとどーすっか」
「どっか行く? あさみんとしゅんくんは?」
「俺は別に何もないからいいよ」
麻美さんの方に顔を向けてみる。下を向いてるのは考えてくれているからだろうか。それとも……。
「行こうよ。せっかくだし」
水沼さんが彼女の肩をトントン叩く。麻美さんはそれに応えて立ち上がった。
「四人とも行くってことで決まりだな。居酒屋とかどうだ?」
「あさみんお酒飲めないんだよね。どっかごはんって言っても食べちゃった人いるし、ゲーセンとかは?」
「お、いいんじゃね。久々に行きたかったわ。じゃあ俺とかっしーは自転車とってくるわ」
「分かった。正門で待ってるね」
俺達二人は駐輪場に向かった。いつもよりもなんだか夜風が気持ちよく感じる。
「よかったな! うまく話せて。でも勘違いすんなよ? たまたま父さんが出版社で働いてたから興味もたれたってだけだぞー」
うるさい。せっかくいい気分なんだから雰囲気壊さないでほしい。
「あとあの人に徹さんっていう彼氏がいることは忘れんなよー?」
わざわざ名前まで出してくるのが頭にくる。尚だってあの写真で顔見ただけじゃないか。本当に押してる自転車を蹴りたくなった。
尚のあとをついて二人が待ってる正門まで向かった。
「わりぃわりぃ。お待たせ。じゃあ行くか」
さっきまで尚に少しイライラしてたけど、なんだか急に心が躍ってる気がする。最寄りのゲーセンが駅の反対側だから、ちょっと歩くのがめんどくさいな。前を歩く女子二人の会話が聞こえてくる。
「えりちゃんは、ゲーセンよく行くの」
「たまに行ってダンレボとかやってる」
ダンレボってどういうやつだっけ。隣の尚に聞いてみる。
「見たことねー? 足元にある前後左右のパネルを曲に合わせて踏む音ゲーっていうか、リズムゲーみたいなやつ」
あー、多分あれか。なんか見たことある気がする。音ゲーなんて正直、太鼓の達人ぐらいしかやったことがない。
「彼氏がビリヤードとかボーリング好きだから、よく行ってる。UFOキャッチャーやらせるとすごくうまいから、欲しいのがあったらいつも取ってもらってる」
本当に水沼さんは彼氏とどこへでも行くな。アウトドアもインドアもなんでもできるじゃん。俺なんて景品引っかけられるかどうかすら怪しいのに。
「そういえばあさみんは彼とどうなってるの?」
彼女の足が少しだけ止まった気がした。麻美さんは歩きながらちらっとこっちを向く。一瞬目が合いそうになった。
「……別れたよ」
前を向いた彼女が独り言みたいにつぶやいた。車があまり通らない人気のない道路に虫の鳴き声だけが響いてる。
「そっかぁ」
水沼さんが相槌を打った直後、尚が前輪を俺の方に曲げてきた。俺に満面の笑みを向ける。ここで「やったな!」とか言ってきたらどうしようかと思ってたけど、さすがに空気を読んだのか言葉は発さなかった。
本当は喜んじゃいけないんだろうけど、なんだか胸につっかえたものが浄化されてく感じがした。出版社の話とかでもっと話が盛り上がってても、絶対にこれだけはとれなかったと思う。それを聞いてからますますゲーセンが楽しみになってきた。
駅のロータリーにさしかかり、視界がだんだん明るくなってくる。
「かっしー、自転車置いてかねー? 邪魔なんだけど」
たしかにそれは思ってた。
駅のロータリーの手前で、俺と尚はいったん借りていた駐輪場に自転車を置いた。踏切を渡って線路の反対側へ行った。
ゲームセンターに着くと、一階にあるUFOキャッチャーを四人で見て回る。どれも正直とれる自信がない。
「お、カービィだ。懐かしー」
麻美さんがなんか口を動かしたけど、なんて言ったか聞こえなかった。顔を近づけてもう一回聞いてみる。
「かわいいよね」
へぇ。カービィ好きなんだ。ここでかっこよくお金を入れて取ってあげたら素敵なんだろうか。やらないけど。
「これなかなか取れねーやつだよ。三本のアームでうまく摑まなきゃなんねーし」
尚はゲーセンに慣れてる。アームに引っかけて落とすタイプならけっこううまく取るし。よく見て合わせたつもりでもずれちゃうことばっかりで、本当に何回尚に笑われたんだろう。
「なんかここ、最近俺が欲しいって思うやつねーんだよな」
歩きながら尚が言う。いつの間にか麻美さんと水沼さんは別行動をとっていたみたいだ。
「おまえ意外とアニメのフィギュアとか興味ねーもんな」
オタクっぽいとはよく言われるけど、大してそういったものは見ていない。そもそもあまりテレビを観る機会もない。ガンダムとかは好きだけど、美少女を二次元で見て何がいいのか全然分からない。結局お互いマシンにコインを一枚も入れないまま一階を一周して入口はいってすぐにある幅広い階段に戻ってきた。
「なんだ、結局何も取れなかったんだ」
女子二人が俺達とは反対方向から出てきた。
「おめーらだって手ぶらじゃねーか」
「うちらは何もやってないもん」
「俺らもだよ」
「取れなかったって正直に言っちゃえばー?」
「そう思うんならそう思っとけよ」
尚がわざとらしくふてくされる。水沼さんはそれを見て小さく笑う。
「それよりこのあとどうすっか」
「ダーツって四人ともできる?」
水沼さんの問いかけに、首を横に振った人はいなかった。俺もみんなに遅れて頷く。じつはダーツの矢すら触ったことがないなんて言えない状況だった。
「じゃあ上あがってダーツやろ」
みんなの後について階段を上がっていく。歩いている間、人がいっぱいで台が埋まっていてほしいと考えていた。そうすれば、他のところに行くだろう。麻美さんにかっこ悪いところを見せたくなかった。
けれど、俺の期待に反して、人は全然いなかった。尚がみんなから一〇〇円ずつ回収する。
「かっしーも出せよ」
「う、うん」
一〇〇円玉が三枚乗った手に最後の一枚を置く。尚は前方にある台の方に向かっていった。ダーツの下手さに幻滅されるだろうか。いや、考えすぎか。それとも、水沼さんとかがうまくフォローしてくれるだろうか。もういいや。流れに任せよう。
「じゃ、ゼロワンの三〇〇でいいか?」
「いいんじゃない? とりあえずそれで」
台に四人分のお金を入れると、尚がカーソルを動かして設定を始めた。もうルールなんて知らない。とりあえず真ん中狙えば点が多く入ることだけ理解していればなんとかなるかな。設定が終わったらしく、1Pから4Pまでの得点表が表示されている。尚はポケットから煙草を出して火をつけると、俺達の方に歩いてきた。すれ違いざまに俺の肩にぽんと手を置く。
「じゃあかっしー、一番手いってみるか?」
にたにた笑ってこっちを見てくる尚。なんで俺が一番最初なんだよ。
「俺とエリさん、煙草吸い始めたからさー、先二人やっちゃってなよ」
俺達に気を遣ったつもりか。こっちはやったことないんだってば。水沼さんが煙草をくわえたまま矢を三本渡してくる。俺はそれを左手に置いた。持っている手が汗ばむ。
「なにカタくなってんだよー。もっと力抜けって」
「そうそう、気楽に投げて」
俺は深呼吸を一回して心を落ち着かせる。真ん中、真ん中……。
思いっきり放った矢は、的から弾かれ、地面に落ちていった。後ろからは笑い声が聞こえる。でも1Pのスコアには4と刻まれていた。振り返ると、麻美さんまで口を押さえて小さく笑っている。
「なんだよその投げ方。あー、ハラいてー」
「ダーツって上半身の力だけで投げるんだよ。ってうちも彼氏に教えてもらったんだけど」
こんな感じなのかな。
「そそ、いい感じ。投げてみたら?」
二投目と三投目はきちんと枠の中に入った。
「よくなってんじゃん。次はブルとかダブルトリプル狙ってみたらどうだ?」
何を言っているのかぜんぜん分からない。でもここで聞くと「それすら知らないのかよ」とか言われてしまいそうな気がした。
「じゃ、次麻美さんかな」
目線を送るとゆっくりと前に出ていく。
「おいかっしー、自分の矢抜けよ」
そうか、そうしないといけないのか。慌てて前に出て刺さっている矢を全部取った。
「落ちてるやつも拾えよー」
またみんなが笑っている。こうなることは分かっていたけどあのとき最初から首を振っていればよかったと今更ながら思った。俺と入れかわるように麻美さんが前に歩いていく。俺が椅子に座ったタイミングで彼女は構えていた。
彼女はゆっくりと前に出ていく。
「お。けっこーフォームきれいじゃん」
投げた矢が刺さると機械からガラスが割れたような音がした。
「うわ、いきなりブルかよ」
画面に大きくBULLの文字が映る。ブルは真ん中のことだったのか。続いて二投目も中央の丸に刺さる。
「え、待って、あさみん上手くない?」
「ちょっとやってたから」
ちょっとやっていたといったって、こんなに上手にできるものなのだろうか。実はダーツが好きで行っていたのかもしれない。とはいえ、こんな煙草臭いところ、麻美さんが好きこのんで来なさそうな気がする。いや、それは俺が勝手に思っているだけか。矢を抜いてこっちに戻ってくる。
「おめーも彼氏に教えてもらったのか?」
「……やめて」
場が凍り付くような冷たい声だった。別れたとは聞いていたけど、何かあったのだろうか。
「おう、わりぃわりぃ」
尚は申し訳なさそうに両手を合わせたあと、矢を取って前に向かっていった。
水沼さんも尚もそこそこ点数を取って、あっという間に最下位になってしまった。二巡目で挽回しようかと考えてたけど、七点と一一点に一本ずつ刺さっただけで、誰の点数にも追いつけていない。どこがダブルでどこがトリプルかはなんとなく分かったけど、なんでみんなうまく狙えるんだろう。
気が付くと、三人とも二桁に突入していた。尚がときどきこっちを向いてニヤニヤしてくるから腹が立つ。着々と点数を減らしていくけど、爆発音が何度も画面から聞こえてくる。双六と同じで、ぴったりの数字で上がらないとダメなのか。俺には関係ないけど。
「しゅんくん、なにつまんなそうな顔してんの。まだ逆転できるかもしれないじゃん」
たしかにそうだけど、こうもみんなと差が出てくるとモチベーションも下がる。でもなんとか一〇〇を切ることはできた。次の麻美さんは既に残り九点。ここまで来ると、点数が減るほど不利になってしまいそうな気がした。前の順でもバーストしてしまっていただけに、まだ二桁ある尚か水沼さんの方が望みがありそうに思える。彼女の後ろ姿をみんなで見ていた。
一投目はいきなり四のダブルに刺さり、残り一点になる。
「うわ、逆にやりづらいだろうなー」
「一のシングルしか狙えないもんね」
どうせバーストする。そう思って目を逸らそうとしたときだった。前の台からファンファーレが鳴り響く。
「えっ」
思わず声が出てしまった。彼女は二投目をきっちり、一のシングルに収めていた。横にいた二人も口を開けて前方の台を見つめている。
「うそ、もしかして狙ってやったの?」
「そうだね。狙っちゃった」
狙って思い通りの場所に矢を投げることもできるのか……。本当にすごいな。正直、そこまでうまくはないかと思っていた。俺と同レベルぐらいだと思っていた。けど、それはただの思い込みだった。女子に劣っているようじゃ示しがつかない。うまくなるために練習をした方がいいのだろうか。それとも他のことでリードできれば大丈夫なのだろうか。いや、単にただの考えすぎか……。色々な思考が頭の中で複雑にこんがらがっていた。
「なんでダーツ行こうと思ったんだ?」
階段を下りながら尚が隣の水沼さんに聞く。
「最近彼氏とダーツ行って負けっぱなしだから、たまには他の人とやりたいなって思って」
「それって弱い人とやって優越感に浸りてーってことだろ」
「あ、バレた?」
前の二人は楽しそうに話している。俺も今は麻美さんの隣なんだ。本当はここで、何か話ができれば……。自動ドアが開き、俺達は外に出る。そのとき、腕に柔らかい手が触れた。
「今日は残念だったね。でも頑張ればうまくなれると思う」
前を歩いていた二人がやんわりと振り向く。にやにやして俺と目を合わせてくる。顔の火照りは夜風が消してくれた。
「また行こう」
麻美さんの口から意外な言葉が飛び出す。学食であんなにこっちに来るのをためらっていたのが嘘みたいだった。大きく一歩を踏み出せたのは間違いない。流れでそうなったとはいえ、今俺の隣を歩いている。ただ、これくらいでうまくいくなんて思っちゃいけないことぐらいなんとなく分かってる。思い上がりだってこともなんとなく分かってる。別に手を繋いでるわけじゃないんだから。ただ男女並んで歩くだけなら前の二人だってやってる。そしてただの友達同士だってことも今までの話を聞いていれば当然分かる。ただ今まで一緒に歩くなんてことがなかっただけの話だ。
「出版社の話、忘れないで」
不意に胸がどきりとする。その話ができるだけでなんだか二人だけの世界に入ったような感じがした。不安が取り除かれる気がした。勝手に一人で舞い上がったり落ち込んだりしてなんだか馬鹿みたいだった。
前方に駅が見えてくる。改札の音が階段の奥から響いてくる。前を歩いていた尚が階段を避けるように歩き出した。
「じゃあ俺、家こっちだからここで」
尚が手を大きく振る。水沼さんと俺もそれに応えた。横を見ると麻美さんも小さくだけど手を振っている。彼が自転車に乗ると、俺達は階段を上りだした。水沼さんが一歩前を歩いているのは気を遣ってだろうか。それとも、流れで無意識にだろうか。階段を登りきると、水沼さんは一足先に改札に向かう。後を追うようにPASMOをタッチし、改札の中に入った。
「麻美さんはどっち方面なんだ?」
「こっち」
寄居方面と書かれている方の改札を指さす。俺が向かうのは池袋方面だったからちょっぴり寂しかった。
「連絡よろしくね」
背中を向けようとした離れ際に彼女が言った。普段のかすれそうな声を精一杯出しているようにも見えた。
「家帰って父さんいたらアポとれるかどうか聞いてみるから」
「ありがとう」
麻美さんは小さく手を振って俺達を見送った。
「いえーい!」
彼女が階段を下りたあと、水沼さんがハイタッチを求めてきたから俺もそれに応えた。
「やったね。けっこう話せてたじゃん。うちに感謝してね」
恩着せがましくそう言われたけど、本当にその通りだったから何も言い返せない。
「あとはぐいぐいいっちゃいなよ! 帰ってからだってLINEできるでしょ」
言われなくてもそのつもりだった。出版社の話以外で合いそうな話題なんて思いつかない。ここで仲良くできなかったら二度と仲良くできないだろうと思っていた。
「ここまで嬉しそうなしゅんくんはじめて見たかも」
電車の中でそう言われたけど、今までそんなに嬉しそうな顔を見せたことなかったっけ。正直、自覚がなかった。
「しゅんくん、じゃあね! 頑張って」
同じ駅でも出口が反対方向だった俺と水沼さんはお互いに手を振りながら改札を出ていった。いつも通り自転車に乗って家まで向かう。今日の夜風は気持ち良かった。スピードがうまく出ていたせいか、家の手前の坂道も降りずに上りきることができた。
あれ、家に電気がついている。父さん帰ってきたんだ。
「お帰り。久しぶりだね」
父さんはテレビをつけてリビングのソファに座っていた。クーラーを全開にしてうちわを扇いでいる。
「LINE見たよ。僕とアポをとりたいって言ってる友達がいるんだって?」
俺は頷く。
「今週はちょっと厳しそうだなぁ。来週の火曜日の昼間とかどう?」
「ちょっと聞いてみる」
俺はスマホを取り出してLINEを打ち始めた。来週の火曜日が空いているかどうか聞いてみる。でもなかなか返事が来ない。やりとりの画面を開いてみても既読すらついていない。
「電話してみたら? あんまり待たせるようだと僕寝ちゃうよ?」
電話番号は知らないけどLINE通話ならできる。でも、なかなか右下の通話ボタンが押せない。
「なにためらってるの? だったら僕に直接連絡先教えてよ」
アポをとりたいと言っている人が女子だと分かったらからかってくるに決まってる。覚悟を決めて通話ボタンを押した。待機音が右耳に響く。
「もしもし」
すぐには出ないと思っていたから一瞬口を開けてしまった。それを見た父さんがにやにやしている。
「父さんが空いてるのが来週の火曜日なんだってさ。その日は大丈夫?」
「ごめん、その日は授業あるから。会うとしたらわたしも東京行く?」
俺は耳からスマホを離して父さんに聞いてみた。
「別にその日は休みだから、この辺に住んでる人ならこっちで会ってもいいんじゃないの?」
「今の話、聞いてた?」
「わたし、会社の中に入ってみたい。できる?」
そういうことか。交渉してみないと分からないな。
「僕に電話貸しなよ。直接話したほうが早いでしょ」
もっと話していたかった。とはいえ、それがいちばん早く話が進むのも事実だ。俺は「あさみ」と表示されている画面を隠しながらスマホを父さんに渡した。
「もしもし、電話変わったよ。僕と会って話がしたいんだって? じゃあカフェとかはどう? あ、うちの会社に来たいって? 俊平なら知ってるけど、うちは大手じゃないから会社狭いよ。それに応接室すぐ埋まっちゃうし、いつ会えるか分かんないけど、いいの? ふーん、それでいいんだ。分かった。名前はなんていうの?」
テレビの声にかき消されているせいか、彼女の声はぜんぜん聞こえなかった。
「あおば、あさみさんね。分かった。俊平に連絡先聞いとくよ。じゃあ、会うときはよろしくね」
電話を切ると、スマホを渡してきた。
「ふーん、俊平も女の子と話せるようになったかぁ。もしかして、コレなの?」
父さんが小指を突き出してくる。俺は首を振った。本当にそうなったら嬉しいけど。
「でもよかった。俊平が女の子と交流してるのなんて、中学生のときに後ろから頭突きしてきた子がいたって話しか聞いてないからね」
中学一年生の授業参観のときに、母さんに見られていたようだ。その日の夜に母さんとお姉ちゃんに笑われたのを覚えている。たまたまその人と同じ大学になったおかげで今こういう風に話す機会ができている。でもそのことを話したらまたからかってくるに決まっているから黙っておく。
「ああいうタイプの子っていうのは仲いい人なら誰にでもちょっかい出すから、気があるなんて思わない方がいいよ」
「それぐらい分かってるよ」
「いや。女の子に慣れてなさそうだから忠告しておこうかなって思って」
父さんは尚とは別のベクトルでうざったいと思うときがある。あのときたしか水沼さんには同級生の彼氏がいたとは聞いているし、別にそんなこと全然思わなかった。かわいいとは思うけど、自分のタイプとは違うし、話しやすいけど向こうからガンガン話してくるからたまに疲れるときがある。
「じゃあ僕寝るね。どうせテレビ観ないだろうから消しとくよ。それじゃあその子の連絡先、送っといて」
「分かった」
父さんが二階に上がってから気付いた。LINEの他人のアカウント、どうやって教えるんだろう。いいや、今度必修の授業で会ったときに尚にでも聞こう。俺はリビングの電気を消して二階に上がった。久しぶりに安心して眠ることができた。